幕末の長州藩。

四ヶ国連合艦隊と下関で戦った「攘夷」の長州。

 

ときは元治元(1864)年ところはロンドン。

長州藩派遣の留学生伊藤俊輔と井上薫は英紙「タイムズ」

で「連合国は長州藩に対し重大な決意する」と知り、急いで

帰国。同年6月2日横浜に到着したふたりはイギリス公使に

2週間の攻撃猶予をもらい、長州に帰郷。藩主・敬親に説得

をこころみるが、攘夷より開国というふたりの主張は避けられる。

<四ヶ国連合艦隊の下関来襲>

8月5日。英・米・仏・蘭の四国連合艦隊が下関来襲。

軍艦17隻、総砲数288門、兵員5000余の陣容。

午後3時過ぎ、長州は、海岸に14の砲台、100余の

大砲(木製含む)で応戦。戦力差歴然で1日の戦闘で

砲台は機能不全、2日目陸戦隊上陸、砲台から大砲

撤去、結果長州藩完敗。

 

 

長州藩・四ヶ国連合艦隊戦争(下関砲台占拠1864年)

 

(高杉晋作「下関講和」)

脱藩の罪で自宅謹慎中の高杉晋作が藩主・毛利敬親に

呼び戻され、藩主代理として講和の全権使節となる。

8月14日3回目の交渉。あらためて石炭や水、食料の補

給、外国船員の上陸許可、砲台の築造禁止などを約束、

なかでも晋作は「外国船を攻撃したのは朝廷および幕府

の命令に従ったもの」と欧米側が要求した賠償金3000

万ドル、関門海峡の彦島の租借を拒否し、長州は列強の

支配を免れる。この交渉をもって、長州と列強の講和交

渉は終結し、これをもって長州藩の「攘夷」も終結。

 

 

「蒙古退散大がかりの図」(四ヶ国艦隊との戦いを蒙古来襲になぞえた瓦版)

 

<幕府と長州藩(「俗論派」と「正義派」)>

下関で四ヶ国に惨敗した長州藩。

攘夷を提唱した晋作ら「正義派」は失脚し、幕府へ

の恭順謝罪を唱える「俗論派」が台頭する。

同年翌月9月25日井上聞多が会議の帰途、刺客に襲

われ、重傷を負う。同日深夜晋作らのよき理解者周布

政之助が自決。晋作は不穏な事件に身の危険を感じ萩

を脱出、志士たちに慕われていた野村望東尼の山荘が

ある福岡へ亡命。晋作のもとに正義派の家老が俗論派

に処刑されという凶報あり、武力による藩政奪取を決意する。

<功山寺決起>

11月18日幕府は諸藩に長州征伐を下す。下関に戻った

晋作は騎兵隊、諸藩に決起を促すが総督・赤禰武人は

内戦の回避を望み動かず、

12月15日三条実美ら五卿を訪ねた晋作は「これよりは

長州男児の腕前をお目にかけて申すべし」と宣言、馬に

またがり雪景色の山門を下る。遊撃隊(総督・石川小五

郎)と伊藤俊輔率いる力士隊が晋作に賛同。両軍合わ

せ80人ほどが萩に向かい出陣する。(「功山寺決起」)

慶応元(1865)年   1月16日奇兵隊旧山口政治堂占領

             2月奇兵隊と俗論党軍と休戦協定 

慶応2(1866)年   1月22日薩長同盟

             6月長州軍、幕府艦隊と海戦

             7月長州軍、幕府・小倉城攻撃               

慶応2(1866)年7月

晋作は対岸の幕軍を攻めるごとに勝ち、下関にひきかえし

ては芸妓をあげて大さわぎして飲む。晋作の「動けば雷電

の如く」(伊藤博文)に驚く。この間晋作は風邪をひき高熱、

「七月八日、高杉かへり来る。今夜、三絃にて大騒ぎ也」

(騎兵隊本陣・白石正一郎日記による)

慶応3(1867)年3月

藩主は、亡国の危機を救った病篤い晋作に、谷潜蔵の名

と百石を与え谷家を立てさせる。晋作、百石ならまだ飲

ると、おのうに『了艮(酒楼)へゆく、駕篭を呼べ』と命じる

、容態がついてゆかず。看病の山県狂介、萩の高杉

急使を出す。父の小忠太、母親のお道と幼い東一を

れ妻・お雅がくる。晋作は、病床で「お雅どの」と自分のた

めに苦労をかけたことを詫びる。

慶応3年4月14日未明

晋作は筆を要求し「おもしろき こともなき世を おもしろく」

とまで書くが力がつき筆を落とす。そこで、望東尼は晋作

辞世の上の句に下の句を書き、晋作の顔の上にかざす。

おもしろき こともなき世を おもしろく

     すみなすものは    心なりけり

 

幕末の京都(「七卿落ち」)ー新京都物語(255)

幕末の京都(新選組「池田屋事件」)ー新京都物語(256)

幕末の京都(長州藩「屋敷跡・法雲寺」)ー新京都物語(257)

幕末の京都(「禁門の変」)ー新京都物語(258)

幕末の京都ー坂本龍馬(「薩長同盟」)ー新京都物語(260)

幕末の京都ー木戸孝允と大村益次郎ー新京都物語(266)

幕末の長州藩ー大村益次郎(「適塾」)ー新大阪物語(1000)

2021.5.27

幕末の長州藩ー伊藤博文(長州五傑「攘夷から開国」)