幕末の動乱の京都。

池田屋事件で同志惨殺の報を耳にした長州藩。

攘夷急進派の久坂玄瑞、来島又兵衛、真木和泉

らが約2100人を率いて京都に向け進軍する。(6月15日)

 

<「禁門の変」>

元治元(1864)7月19日

長州勢3000、これに対し幕府の京内外の数は5万、

応仁の乱以来の戦闘、長州軍の奇襲であった。

慶喜の出兵命令に、一時、西郷は「薩摩は皇居守護

専念すべし」と拒否し、激戦となった御所の蛤御門

の周辺。長州藩に蛤御門を守る会津藩は攻められ、

これに西郷隆盛の援軍が加わり、長州藩は戦局が劣

勢になり、総崩れとなる。

一方、長州軍の久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江久一

堺町御門のそばの鷹司屋敷に籠城。幕軍の総指揮官

一橋慶喜が、『鷹司邸を焼きはらえ』と命じ、会津・桑名

一橋の兵らが松明を投げ入れる。邸は一団の炎となる。

さらに三条上ル東側の長州藩邸が幕軍の手で

焼かれる。

 

 

 

京都御所の堺町御門

 

この二ヵ所からあがった火は、京都全市に燃えひろがり、

三日間もえつづける。灰になった町の数は821、

家数27513軒、寺社253という驚異の数字にのぼる。

 

 

(禁門の変と慶喜)

このとき禁裏御守衛総督だった慶喜(1837ー1913)。

公家たちは長州藩の動きに恐怖をもち和睦を

しようとするが、「朝敵に対し和睦せよ」と一喝。

禁門の変で指揮をした慶喜は長州藩を敗走させ、

壊滅した長州勢の潰走がはじまる。

久坂玄瑞と禁門の変)

久坂玄瑞(1840ー1864)。長門国萩平安古(現・山口県

萩市)で、藩医の子として誕生。医寮生の久坂(17歳)は、

松陰に国を憂うる手紙を送るが妄動だと戒められ、松下

村塾に入門。久坂は、ひたむきな攘夷家で、松陰の権現

化といわれるほど、松陰の性格などとよく似ていた。

翌年松陰の妹・文と結婚し禁門の変に参加。

久坂玄瑞(25歳)は同じ松下村塾生の寺島忠三郎と刺し

違え、入江久一は越前兵に屋敷の外で死す。禁門の変

の翌々日21日、まだ京の町が燃えるなか、天王山に戻

った真木和泉・同士16名、天王山にて刃する。

 

 

天王山の禁門の変十七烈士の墓

 

(尊王攘夷)

「尊王攘夷」の思想は当初幕府擁護の水戸学、

国学によってでき、将軍は天皇に委任され、その

責務は士農工商の秩序を守り、「尊王」と「征夷」

を主張する。ところで幕末の頃、公武合体派は幕

府にかわり乗っ取り、一方尊攘派は朝廷のもとで

政権をとるために、天皇という「玉」を自軍に引き

こもうと両派の政権争いとなる。ときの天皇孝明

天皇は極端な「夷狄嫌い」で、当時攘夷が常識であ

った幕末。禁門の変以後、朝廷は幕府に長州征伐

を命令する。

 

 

文治元甲子7月19日(禁門の変)戦死者埋骨所の碑

 

幕末の久坂玄瑞はじめ志なかばにして生命をなくした

各藩の殉教者は東山三十六峰中心の霊山に祀られる。

 

 

左より有吉熊次郎・入江九一・来島又兵衛・久坂玄瑞の墓

 

幕末の京都(「佐久間象山」)につづく。

 

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