幕末の京都。
諸国から志士が集まり、混乱をきわめた。
幕府は、京の将軍警護・治安維持のために
江戸で浪士隊を募った。これがのちの新選組
となり、尊王攘夷の志士らに恐れられる。
<京都守護職本陣(金戒光明寺)>
京都守護職本陣の今戒光明寺(京都市左京区黒谷町121)
<「八・一八の政変」と新選組>
文久3(1863)年8月17日深夜の京都御所。
闇をついて公武合体派の公家らが参内、御所の
各門には会津、薩摩藩らの兵が警護する。その
なかに揃いの装束で参加していた壬生(みぶ)浪
人がいた。ものものしい警護の宮中で、孝明天皇
の攘夷祈願の大和行幸の中止と尊攘派公家と長
州藩を京都から排除することを決める。壬生浪人
の浪士隊は18日に長州人引き揚げのときに御所
南門前を守ったという、伝奏によりこれ以後この
隊名「新選組」を名乗る。
<池田屋事件と新選組>
天下に新選組の名をとどろかせたのが池田屋事件。
元治元(1864)年6月5日。新選組はかねて目をつけ
ていた四条小橋の道具商枡屋に踏み込み、主人を
壬生の屯所(前川邸)に連行し厳しく取り調べる。枡
屋の主は、尊攘派志士が今夜も密議がどこかでもた
れると白状し、新選組は動く。局長近藤勇は、京都守
護職に報告し、隊士を八坂神社の祇園会所に集合さ
せ援軍を待つが、諸藩兵の姿は現れず。このため
土方歳三に24人を預けて祇園方面を捜索させ、近藤
勇自身は、沖田総司ら10人と、鴨川を西に渡る。
四条から木屋町通を北上し、三条小橋西側の旅籠池
田屋の店先に「一文字に三ツ星」(長州藩)の提灯に気づく。
新選組襲撃の長州藩定宿・池田屋(三条河原町東入ル北側)
池田屋事件。新選組の死者は平隊士3人に対し、
志士側は14人。長州藩の吉田稔麿(24歳)、肥後
熊本藩の宮部鼎蔵(45歳)らを失ったことで、在京
の尊攘派はほとんど壊滅状態となる。
長州藩を排除し、京都の情勢が落ち着いた頃。
元治元(1864)年9月。新選組の局長芹沢鴨が京
で乱行。衣装にこる芹沢は、呉服商の菱屋から借
金する。番頭が取立てにゆくが、いつも激怒して追
い払う。会津藩は近藤勇を本陣に呼びつけ、新選組
として、芹沢の処置を求められる。近藤は決心する。
新選組には、浪士組以来、局長に芹沢と近藤の2人
が名を連ね、両派の確執が底流にあった。新選組隊
士たちが、島原(角屋)で会合を開き、深夜の八木邸
に戻った芹沢鴨ら三人。芹沢はお梅と、平山五郎、
平間重助は馴染みの女とそれぞれの部屋で寝ている。
そこへ土方歳三らが乱入し、平山は首をはねられ、
芹沢は抵抗むなしく突き刺され、お梅も巻き添えとなり死ぬ。(9月16日)
(壬生屯所)
ところは京都の西、島原遊郭近くにある壬生屯所。
新選組の屯所となった八木邸(京都市中京区壬生梛ノ宮町)
(壬生寺)
壬生屯所隣の壬生寺には新選組隊士慰霊塔
はじめ、新選組隊員の墓があるなか芹沢鴨・
平山五郎の墓もある。
新選組隊士慰霊塔がある壬生寺(京都市中京区仏光寺上ル)
池田屋事件以後、近藤勇の新選組は幕府と運命を
ともにすることになる。
<新選組の近藤勇・土方歳三>
近藤勇の新選組は、近藤勇はじめ試衛館出身者は
尊皇攘夷論者であり、禁門の変後に近藤勇は、長州
征伐を進言する。慶応元(1865)年、手狭になっていた
壬生屯所から西本願寺移転する。(6年使用)
近藤勇(1834-1868)
新選組の局長。武蔵多摩郡誕生、江戸試館道場
の島崎周斎の養子となる。のち天然理心流道場
主となり幕府の浪士隊募集に応じ京へゆく。
東帰を命ぜられるも、同門の土方歳三らと京に
残り、新選組を組織し、会津藩支配下となる。
戊辰戦争で板橋にて近藤はいう。
「容保公は、鳥羽伏見で薩長軍が発砲、これに
応戦したまで、拙者らは主君の無実を晴らした
い一念だけ、今更くどくど申されるな」と従容とし
て刃を受ける。享年35歳。
土方歳三(1835-1869)
武蔵の多摩出身。新選組副長。禁門の変で
天王山を攻め、真木和泉らが自爆。
戊辰戦争で近藤勇と甲陽鎮撫隊を組織、
政府軍と戦い敗れ、近藤が死に、大鳥圭介
と江戸を脱け、榎本武揚とともに五稜郭に籠る。
近藤の死後「自分が近藤と死ななかったのは、
主君容保の冤罪を晴らそうとしただけだ。」とい
い、五稜郭から出撃し、一本木関門で戦死、
明治元年5月。享年35歳
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