夜行高速バス加賀号で北陸から九州へ~三池・雲仙・島原 僕らの国土と人間の係わりを思う 後編~ | ごんたのつれづれ旅日記

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(「夜行高速バス加賀号で北陸から九州へ~トンネル・豪雪・地震 僕らの国土と人間の係わりを思う 前編~」 の続きです)

 

平成10年の初春に、金沢発福岡行き夜行高速バス「加賀」号から天神バスセンターに降り立った僕は、バスセンターと繋がっている西鉄福岡駅に歩を運び、大牟田行きの特急電車に乗り込んだ。

 

 

西鉄と言えば、僕が鉄道ファンになった子供の頃には、独特の風貌をした2000系特急電車の写真が鉄道書籍に掲載されていたことを思い出す。

 

僕が西鉄に初めて乗車したのは、大阪発福岡行き夜行高速バス「ムーンライト」号で初めて九州を訪れた時に、天神から大牟田本線の特急に乗り込み、二日市駅で大宰府線に乗り換えて、大宰府天満宮に詣でた時である。

短い時間であったが、初めて2000系車両に乗車した時の嬉しさは、今でもはっきりと覚えている。

西鉄が特別に好き、という訳ではないけれど、写真で眺めるだけだった西鉄特急を実際に体験したことで、九州に来たという実感がふつふつと湧いて来たのである。

 

平成元年から西鉄特急は8000系車両に更新され、2000系が急行として運用されているのを見ると、あれから10年か、と時の流れを痛感する。

 

 

西鉄大牟田本線をじっくり乗り通すのは今回が初めてだったから、車窓が新鮮で、楽しいひとときだった。

8000系の快適なクロスシートに収まり、大野城、二日市、筑紫野、柳川、久留米など、福岡平野から筑後平野にかけて点在する街々と、まだ田植えが始まっていない田園の中をひた走ると、途中下車をしたくなる駅ばかりで困ってしまうけれど、きっちりと旅程を定めてしまっている僕は、降りる訳にいかない。

 

熊本県境の手前にある大牟田は、江戸時代に石炭の採掘が始まり、我が国の近代化を支えた三池炭鉱とともに発展してきた。

石炭は我が国が自給可能な数少ない資源であった一方で、各地の炭鉱で爆発・落盤などの事故が少なからず起きたことも忘れてはならないと思っている。

この旅の頃は、83名の死亡者を出した昭和59年の炭鉱火災の悲痛な記憶がまだ鮮明に残っていて、粛然とした心持ちになる。

 

大牟田駅を10時12分に発車した三池港行き連絡バスの車窓に映る大牟田は、炭鉱の街らしく荒々しい面影を漂わせながらも穏やかで、人影が少なく閑散としていた。

 

 

三池港は石炭の積み出し港として栄え、パナマ運河と同じ形式の水圧式閘門ドックや蒸気式浮クレーンなど、創業開始時の施設が数多く残されていることから、三池炭鉱、長崎の高島炭鉱・端島炭鉱(軍艦島)、八幡製鐡所、長崎造船所、萩の反射炉・造船所・たたら製鉄跡、韮山の反射炉、釜石鉄鉱山・製鉄所などともに、明治日本の産業革命遺産として、平成27年に世界遺産に登録されている。

 

世界遺産とは言え、三池港は現役の港湾である。

約8分の短い乗車で連絡バスを降りれば、島原航路のこじんまりとしたターミナルが設けられているだけで、それほど大きな港湾には思えないけれど、対岸には発電所がそびえ、バスで走って来た海沿いの道路の先には、海上コンテナが積み重なっている埠頭が見える。

沖にあるドックの側を走ったはずなのだが、工場や倉庫に遮られて見ることが出来なかったのは残念だった。

 

 

島原鉄道が運航する「島鉄高速船」は、三池港と島原外港を結び、西鉄特急と連絡バスを介して、福岡と島原を結ぶ最速の経路を謳っている。

大牟田駅前にも、「近道は海にある 大牟田-島原・雲仙」と宣伝する「島鉄高速船」の看板が掲げられていた。

 

有明海の干満差が大きく、湾内に広がる干潟のため、明治初期の三池港には小型船舶しか接岸できず、三池炭鉱の石炭は島原半島南端の口之津港に運ばれた後に、大型船で海外に輸出されていた。

三池-島原航路で旅客輸送が開始されたのは明治28年、三池港で大型船が接岸可能となる築港工事が完成したのは、明治42年のことであった。

明治24年には国鉄鹿児島本線の前身である九州鉄道大牟田駅が開業し、昭和13年には西鉄も大牟田まで開通、昭和初期から大牟田駅と三池港を結ぶ路線バスも運行され、福岡と島原との行き来は、僕が辿ってきたルートが主役に躍り出たのである。

 

 

島原半島へ向かう他の航路としては、熊本港・三角港と島原外港を結ぶ「九商フェリー」、長洲港と多比良港を結ぶ「有明フェリー」、天草の鬼池港と口之津港を結ぶ「島鉄フェリー」があり、僕は、熊本と長崎を「有明フェリー」を介して結ぶ特急バス「ありあけ」号を利用したことがある「東京発寝台特急の挽歌~熊本・長崎行き「みずほ」と海を渡る特急バス「ありあけ」号~」

 

船旅は、何といってもゆったりした船内と広い眺望が魅力で、今回も有明海の航海を楽しみにしてこのルートを選んだのだが、桟橋に停泊しているのは、鋭利な外見でありながら、モーターボートをひと回り大きくしただけのような小船だった。

「島鉄1号」と舳先に書かれた高速船の最高速度は40ノット、かつて1時間50分を要していた三池港と島原外港の間の34kmを、50分で結ぶ俊足を誇っているものの、排水量は19tに過ぎないので、およそ15t前後と言われているバスの車体よりも多少大きい程度の船体である。

 

 

「島鉄高速船」の当時の運航本数は1日6往復で、僕が乗るのは10時30分に出港する便である。

 

もともと三池-島原航路は島原観光汽船が運航し、排水量60~150t、定員100~230人の客船が行き来していたが、フェリーではなかったため、モータリゼーションの発展により、利用者が「有明フェリー」に移ってしまう傾向が見られていたと言う。

そのために、この旅の前年に休航となり、島原鉄道が引き継いで高速船を投入した。

 

三池-島原航路にとって最大の打撃となったのは、平成3年の雲仙普賢岳の噴火ではないだろうか。

 

 

昭和40年代から火山性地震が散発していた雲仙で、200年ぶりとなる噴火が最初に発生したのは、平成2年11月17日とされている。

 

普賢岳山頂付近の2ヶ所で起きた噴火は、同年12月にいったん小康状態となったものの、平成3年2月12日に再噴火、更に4月3日、4月9日と噴火が拡大し、5月15日には降り積もった火山灰などによる最初の土石流が水無川で発生、19日、20日、21日にも立て続けに発生したが、島原市が流域の住民に避難勧告を行ったため、人的被害は発生しなかった。

同時に、噴火口に桃のような形状の溶岩ドームが形成され、自重で4つに割れた後に山頂から垂れ下がる状態になった。

この溶岩ドームが崩落し、破片が火山ガスとともに時速100kmもの速度で流れ落ちる火砕流を引き起こしたのである。

 

5月24日に最初の火砕流が確認され、以後、小規模な火砕流が頻繁に発生、その到達距離は26日に溶岩ドームから東方に2.5km、29日には3.0kmに達し、次第に長くなる傾向が見られた。

火砕流の先端が民家から500mに迫った26日、水無川流域にある北上木場町、南上木場町、白谷町、天神元町、札の元町に対して避難勧告が出され、最大1万1000人が避難生活を余儀なくされることになる。

 

 

我が国の報道陣は、火砕流の様子を取材するため、避難勧告地域内であるものの、溶岩ドームから4.0kmの距離があり、さらに土石流が頻発していた水無川からも200m離れた北上木場町の高台を撮影拠点とした。

普賢岳を正面に捉える好条件であったため、報道関係者が多数常駐し、「定点」と呼ばれるようになる。

ちょうど新聞各社が紙面にカラー写真を多用するようになった時代で、5月28日にある新聞社が火砕流の夜間撮影に成功すると、報道合戦が激化していく。

 

火砕流が初めて鮮明な映像として記録されたことは世界中から大きな注目を集め、多くの火山学者や行政関係者が、避難勧告地域に立ち入るようになる。

建設省土木研究所の職員が溶岩ドームから500m下の火砕流跡に入った写真を公表し、6月2日には学者グループが火砕流跡の先端部での調査結果を公開する。

 

ヘリコプターからの観測では、

 

「水無川の砂防ダムから下は扇状地となっており、大規模な火砕流が発生すれば『定点』を襲う可能性が強い」

 

との指摘があり、避難勧告地域の外での24時間撮影に切り替え、「定点」の取材は巡回程度に留めた新聞社や、無人カメラを手配したテレビ局もあったのだが、5月30日、31日に民放各社が溶岩をアップで撮影して以来、同業他社への対抗意識から、避難勧告地域内での取材競争が改められることはなかったのである。

 

長崎県は報道関係者に対し「緊急輸送車両標章」を発行し、長崎県警は避難勧告地域の境界線に警官を多数配置していたものの、報道関係を示す旗が立っている車には入域規制を行わなかった。

報道陣ばかりではなく、島原市も、避難勧告地域内の住民に対して優先的に地域内に入ることが可能な「地区名ステッカー」を交付し、自宅で家事や農作業をする住人の姿が多く見られた。

相次ぐ火砕流のため水無川上流に火山灰や土砂が堆積し、梅雨が近づいていたことから、島原市の防災関係者は火砕流よりも土石流を警戒し、下流では土砂除去作業が開始されていた。

ところが、土石流を警戒するセンサーが相次ぐ火砕流で損傷したため、上流を目視で警戒する必要性が生じ、更には無人となっている民家の警備や、避難勧告地域内に立ち入る住民の避難誘導を行う目的で、地元消防団員も「定点」に近い農業研修所に泊まり込んでいた。

 

当時の人々の火砕流に対する認識は、「かなりの高温ではあるが、熱風を伴うものとは知らず、車で逃げ切れるだろうと思っていた」「熱いとは知っていたが、焼け焦げるまでとは知らなかった」という程度で、火砕流を単なる土煙だと誤解している人も多く、水無川の砂防ダム工事関係者が火砕流で腕に火傷を負った時も、「火傷程度で済むならば長袖のシャツを着ていれば大丈夫」などと安易な解釈が広まってしまう。

5月25日から6月2日までに火砕流の発生回数は165回に達したが、比較的規模の大きな火砕流であっても全て砂防ダムで堰き止められていたことで、人々に火砕流への馴れが生じていた。

火砕流と土石流を混同する者も多く、報道関係者は、「火砕流は土石流同様に水無川に沿って来るため、避難勧告地域内ではあるが、水無川から200m離れ、40mの標高差がある定点が襲われることはない」と認識していたようである。

 

5月29日の火砕流で山火事が発生したことで、火砕流が高温化していることに気づいた九州大学地震火山観測所は、5月31日に島原市災害対策本部、島原警察署、長崎県島原振興局に対して、

 

「誰も入らせてはならない」

 

と警告を発する。

災害対策本部は報道関係者に、

 

「傾斜計の数値が普段と違うので、筒野バス停から上には絶対に入らないようにしてほしい」

 

と要請したが、報道関係者が地震火山観測所に取材したところ、

 

「おかしな数字が出た訳ではないが、マスコミが入ると住人も入ってしまうので控えてほしい」

 

との回答であったため、危機感が伝わらなかった。

同日には、火山噴火予知連絡会が、

 

「今後も噴火活動が続き、溶岩の噴出、火砕流、土石流の発生が続くと思われるので厳重な警戒が必要」

「これ以上大きな規模の火砕流が起きないとの保証はない」

 

との見解を表明したが、火砕流の危険性について具体的な言及が無かったため、深刻なものとは受け取られなかった。

火山専門家は、火砕流の危険性が高まりつつあったことを認識していたのだが、住民の混乱を怖れるあまり、警告を弱い表現にしてしまったのである。

 

このような情勢下で、平成3年6月3日午後4時08分に発生した大火砕流が、大きな人的被害をもたらしたのである。

 

大火砕流が発生する1時間前のこと、防災対策協議会は、朝からの雨と西風で視界が悪化したことから、消防団に注意を伝えようとしたが、連絡が取れなかったと言われている。

午後3時30分以降、小・中規模の火砕流が頻発するようになり、午後3時57分に、最初の大規模火砕流が発生する。

この火砕流と、火砕サージと呼ばれる高温の熱風は、「定点」には至らなかったものの、火砕流から発生した火山灰により「定点」付近の視界は著しく悪化した。

この時点で、気象庁雲仙岳測候所が、

 

「非常に危険な状態になった。避難させてほしい」

 

と長崎県島原振興局に電話で通報し、情報を受けた長崎県警は上木場地区にいた警察官13名に避難指示を出すとともに、避難誘導を行うよう連絡したため、パトカーで巡回していた警察官2名が「定点」に向かう。

また、土石流に流されて橋などに詰まってしまった市議会議員選挙のポスターの撤去を、島原市から委託された作業員2名も、避難勧告地域に留まっていた。

雲仙岳測候所の情報は、島原市と島原広域消防団本部を経て農業研修所の消防団に電話で伝えられたが、

 

「山の様子がおかしい。注意するように」

 

という内容だけであったため、緊急避難を要することが伝わらなかった。

 

 

運命の午後4時08分、1回目を上回る大規模な火砕流が発生し、「定点」を飲み込んで溶岩ドームから東方4.3kmの地点まで到達する。

火砕サージは、溶岩ドームから5.0km離れた県道207号線の筒野バス停付近まで達したのである。

火砕流の直撃を受けた「定点」の報道関係者は、即座に逃げられるよう、チャーターしたタクシーや社用車をエンジンをかけっ放しにして待機させていたものの、視界が悪く、逃げ道となる風上からも、別方面から流れてきた火砕サージが襲って来たため、殆ど退避できなかったという。

後日、死亡したカメラマンのビデオカメラが発見され、高熱で激しく破損していたカメラからテープの取り出しと修復に成功した。

ビデオには、最初の火砕流の様子を伝える記者たちの様子や、次の大火砕流の接近に気づかないまま取材を続ける記者、避難を勧めるパトカーや音声が記録されている。

 

「定点」から数百m離れた農業研修所の消防団員は、火砕流の轟音を土石流が発生したものと判断し、水無川の様子を確認するため外に出たところを火砕サージに襲われ、多くの団員はそのまま自力で避難勧告地域外へ脱出したものの、重度の熱傷と気道損傷を負う。

 

6月3日の大火砕流は、戦後初めての大規模な火山災害として、報道関係者16名、火山学者3名、警官2名、消防団員12名、タクシー運転手4名、選挙ポスター撤去中の作業員2名、農作業中の住民4名、計43名の死者・行方不明者と9名の負傷者を出す惨事として記憶されることになった。

 

 

その後も、長崎県警が島原市に対して「避難勧告では住民や報道陣に協力をお願いするだけ」であるため、災害対策基本法63条に基づく警戒区域を設定するよう要請したが、島原市は「市街地を警戒区域に設定してしまうと住人が全く立ち入れなくなり、ゴーストタウンと化す」「溶岩監視カメラの情報を遂次チェックすることで2次災害は防げる」と主張し、避難勧告に留める姿勢をなかなか変えなかった。

長崎県と長崎県警による度重なる説得を島原市が了承し、北上木場町、南上木場町、白谷町、天神元町、札の元町を警戒区域に指定、全住民の避難が完了したのは6月8日の夕方である。

 

同日の午後7時51分、6月3日を上回る規模の大火砕流が発生し、国道57号線を越えて海岸線まで2kmの地点に達したが、直前に避難が完了していたため、人的被害はぎりぎり回避できたのである。

 

 

僕は、今回の旅の数年前にも、島原を訪れていた。

母を連れて羽田から長崎への飛行機に乗り、レンタカーを借りて長崎市内を回り、卓袱料理を味わって1泊してから、雲仙温泉郷へ向かった。

翌日は「島鉄フェリー」で口之津から天草に渡り、熊本、阿蘇、別府と回ったのである。

 

九州旅行は初めてという母は、長崎への機内で、

 

「皆様、只今、右手に富士山が御覧になれます」

 

とアナウンスがあると、わざわざ席を立って覗きに行く浮かれようで、僕は恥ずかしくて堪らなかったが、親孝行できているという実感もあった。

阿蘇では雪に見舞われるなど、様々な思い出が詰まった旅になったのだが、僕にとって強烈な印象が残っているのは、雲仙から口之津への道筋だった。

島原に降りてくると、道路沿いに、土石流に埋まった家屋が残っている様子を目の当たりにして、僕も母も息を呑んで絶句するしかなかった。

 

 

三池港から島原外港への航路は高速船であるから、他の大型船のように、甲板に出たり船内を歩き回る訳にはいかない。

漠然と「有明フェリー」のことを思い出していた僕にとって、予想とは大きく異なる船旅になった。

好天に恵まれて、海面に反射する陽の光が眩しい。

座席に座っているより他にない船室で、激しく揺さぶられながら、波頭を次々と乗り越えていく高速船の窓に映る雲仙の凛として穏やかな山容を眺めていると、あれから7年が経過したのか、と思う。

 

正面に、島原外港が少しずつ形を現してくる。

外港の左手にある河口が水無川で、川を境に右が島原市、左が深江町であり、背後に山肌を露出してこんもりと盛り上がっているのが眉山である。

 
 

島原大変肥後迷惑、という言葉がある。

 

寛永4年(1792年)5月21日に発生した雲仙岳の噴火と火山性地震により、眉山の南側部分が大きく崩れ、3億4000万立方メートルにのぼる大量の土砂が、島原城下を押し流して有明海になだれ込んだ。

10mを越す高さの津波が発生、第1波は約20分で有明海を横断して対岸の肥後天草に到達、反射した返し波が島原を再び襲う。

新月の夜の大潮であったため、津波による死者は島原で約1万人、熊本で5000人を数えたと言われ、有史以来日本最大の火山災害となった。

 

平成の普賢岳噴火でも眉山の山体崩壊が懸念されたが、幸いにして崩壊せず、逆に眉山が火砕流から島原市中心部を守る形となったという。

島原大変肥後迷惑により有明海に流れ込んだ眉山の大量の岩塊は、島原市沖に九十九島と呼ばれる岩礁群として残っており、松島にも似た大小の島々からなる美しい景観は、高速船からも見通すことが出来た。

 

 

水無川とは、増水時には水が流れるものの、通常は伏流水になるなど地表を水が流れない川のことを指す一般名称であるが、日本各地に水無川なる固有名詞を冠した河川が多数存在する。

 

島原の水無川は、普賢岳の東側斜面を水源として有明海へ注ぎ、雨が降った時だけ地表を水が流れ、平常は涸れ川となっているが、雲仙の火山砕屑物が厚く堆積し、下流は天井川と化しているという。

平成の普賢岳噴火では、水無川流域に沿って土石流と火砕流が流れ、ニュースでこの川の名を何度も聞いたものだった。

川なのに水無しとは、どのような由来を持つ名前なのだろうか、と、災害とは関係ないことが気になったものだった。

 

普賢岳の噴火活動は平成7年に収束したが、土石流はその後も発生し、この旅の当時も、堤防や砂防ダムの設置などに従事するクレーンや工事車両が、幅の広い河川敷で動いているのが見えた。

 

 

高速船は、きっかり50分で島原外港に着岸した。

 

立派なターミナルビルから歩いて国道251号線を渡ると、島原鉄道の島原外港駅はすぐそこである。

入口の横の柵の向こう側には線路が敷かれ、きちんとホームもあるけれど、駅舎は、まるで町工場の事務所のように素っ気なく、駅名を大書した看板が掲げられていなければ、とても駅とは思わなかったであろう。

改めて眺めると、雲仙は意外と遠くに見える。

火砕流や火砕サージが達したという国道57号線は、ここから2kmほど内陸であるとは言え、自然の猛威に身震いしたくなる。

 

島原鉄道は、明治44年に本諫早駅と愛野村駅の間が開通したのが始まりという古い私鉄で、大正2年に諫早-島原湊間が全線開通、昭和3年に島原湊-加津佐間で開業した口之津鉄道を、昭和18年に吸収合併している。

 

 

僕は、島原発福岡行き高速バス「島原」号を予約していたので、今回利用したのは、諫早-加津佐間の全線78.5kmのうち、島原外港駅と島原駅の間の2.7kmに過ぎない。

 

島原鉄道も雲仙普賢岳の噴火で甚大な被害を受けて長期間の不通を余儀なくされ、島原外港-深江間の復旧工事が終了して運行を再開したのは、平成9年4月のことだった。

JR長崎本線と接続する諫早駅から加津佐駅まで、島原半島の北~東~南岸を半周する島原鉄道は、いつか全線で利用してみたいと思っていたのだが、平成20年に、島原外港-加津佐間が廃止されてしまった。

鉄道やバス事業だけでなく、島原観光汽船の後を継いで三池-島原間の航路を維持していた同社であるが、平成27年に、長崎市に本社のあるやまさ海運に事業を譲渡している。

車社会の発達や過疎化が最大の要因であるのだろうが、雲仙普賢岳の噴火で力尽きてしまったような気がしてならない。

 

近年、自然災害により廃止に追い込まれた鉄路は少なくない。

昭和62年の国鉄分割民営化以降、我が国では公共交通機関を担うのは民間である、とする風潮が大勢を占めるようになった。

幾許かの補助金は拠出されているのだろうが、これだけ災害が多い国土で交通網を維持する責任とは、果たして、損益に左右されてしまう民間事業者が負うべきものだろうか、という疑問を、僕は捨て切れないのである。

 

 

単行の黄色いレールバスに乗り、南島原駅、島鉄本社前駅の2つの駅に停車して、ちょうど10分で島原駅に着いた僕は、駅前にある島鉄バスターミナルに歩を運んだ。

 

朝から乗り継ぎの便が良すぎて、福岡に着いてから4時間あまりしか経過していないと言うのに、僕は島原から福岡へ踵を返そうとしている。

いつものことであるけれど、少し慌ただし過ぎるぞ、と自嘲したくなる。

だからと言って、次の上り便までゆっくり過ごしてしまうと、発車は18時であるから、この日のうちに東京へ帰れなくなる。

 

 

高速バス「島原」号の開業は平成2年1月のことで、僕が金沢から福岡まで一夜を過ごした夜行高速バス「加賀」号と同期である。

 

13時00分発の「島原」号は西鉄バスの担当で、車内には左1列、右2列の横3列シートがずらりと並んでいて、「加賀」号の横3列独立シートよりも通路が1本少ないだけ、座席の幅が広くなっている。

様々な種類がある高速バスの座席配置の中で、当時の九州内を結ぶ多くの路線に用いられていた1-2型シートは、ゆったりしていることから、僕が最も好むタイプだった。

 

この豪華な車内で福岡までの3時間を過ごせると思えば、嬉しくなってしまうけれども、福岡に着けば、羽田行きの航空機で帰路につくだけであるから、旅の終わりを間近に控えた寂しさも込み上げてくる。

「島原」号の車中を、せいぜい楽しもうと思う。

 

 

右手に凪の有明海、左手に雲仙を望みながら、「島原」号は国道251号線で午後の島原半島東岸を北上し、多比良駅に停車する。

僕が昭和63年に利用した熊本発長崎行き特急バス「ありあけ」号が「有明フェリー」で上陸したのは、島原半島の最北端に当たる多比良港だった。

11年ぶりの島原半島のバス旅になるので、ところどころ見覚えのある車窓が懐かしい。

あの頃はまだ大学生だったなあ、と、過ぎ去った日々の事を思えば、少しばかりしんみりする。

 

多比良を過ぎると、左手の雲仙は、道沿いの家々に隠れてしまうくらいに遠くなる。

ほっと一息つきながら、知らぬ間に肩に力が入っていたことに初めて気づいた。

 

島原半島の付け根にある愛野交差点で国道57号線に針路を変え、島鉄諫早駅前ターミナルに寄った「島原」号は、諫早ICから長崎自動車道に乗り、多久西PAでの一憩を挟んで、一路福岡を目指す。

終点博多駅交通センターへの到着は、16時ちょうどの予定である。

 

西鉄特急と島鉄高速船を乗り継ぐ経路に比べれば、1時間ほど長く掛かるけれども、僕らの国の美しくも厳しい自然と人間が織り成してきた歴史に思いを馳せた長い旅路も、終わりが近づいていた。

 

 

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