(「明治へのタイムトラベル 肥薩線の旅 前編」の続きです)
「しんぺい」4号が行く肥薩線の難所、矢岳第1トンネルの2kmほど東には、九州自動車道の加久藤トンネルが通じている。
下り線6264m・上り線6255mという高速道路のトンネルとしては我が国6位の長さがあり、平成7年の竣工により九州道人吉IC-えびのIC間が開通、鹿児島から青森まで日本を縦貫する高速道路が完成したという経緯は、奇しくも肥薩線の開通で鹿児島から青森までの鉄道が完成した明治期と同じである。
地図を見れば、九州道の鹿児島から八代までは、ほぼ肥薩線に沿っている。
それどころか、えびのJCTで分岐する宮崎自動車道も、最初は日豊本線として建設された吉都線と平行している。
鉄道では幹線としての役割を終えた経路を、最新の高速道路が先祖返りのようになぞっているのは、建設技術の進歩とともに、肥薩線や吉都線の経路が距離的に鹿児島本線や日豊本線より短いことや、鉄道よりも車の方が勾配に強いためと言えるだろう。
僕が加久藤越えを初めて経験したのは、福岡発鹿児島行き高速バス「桜島」号に乗車した平成4年10月のことであった。
新宿から福岡までを走り抜く日本最長距離夜行高速バス「はかた」号から乗り継いで、東京から鹿児島までバスだけで行ってみたのだ。
「桜島」号が八代ICを過ぎると、間もなく九州自動車道の未開通区間に差し掛かる。
人吉ICで国道221号線に降り、加久藤トンネルと人吉ループ橋による峠越えでは、初めて目にする南九州の奥深さに、息を呑む思いだった。
復路では、鹿児島発大阪行き夜行高速バス「トロピカル」号で同じ経路を通ったはずであるが、既に眠っていたのか、記憶が定かではない。
平成7年には、福岡と宮崎を結ぶ高速バス「フェニックス」号の夜行便で同じ道筋をたどっているが、全くの白河夜船だった。
帰路に利用した鹿児島発名古屋行き夜行高速バス「錦江湾」号では、「トロピカル」号よりも発車時刻が早かったので、強く印象に残っている。
「錦江湾」号はえびのICで国道221号線に降り、正面に立ちはだかる国見山と百貫山に向けて一気に高度を上げていく。
螺旋状の道路が急斜面から張り出し、麓からはオレンジ灯に彩られたループ橋がぐるぐると巻きながら遥か上方まで続いているのが見える。
「錦江湾」号はギヤを落とし、エンジン音を轟かせながらゆっくりと登っていく。
眼下に広がるえびの市の灯が、回りながらどんどん小さくなっていく。
もうこれ以上は登れません、と音を上げたくなる頃に、昭和47年に完成した1808mの加久藤トンネルが口を開けている。
加久藤越えを挟んで九州道が建設されてから、国道221号線が九州縦断のメインルートになったことで、大型車が多く、狭隘なトンネル内でのすれ違いはなかなか迫力があった。
人吉ICから再び高速道路に復帰するが、峻険な山岳地帯が続くので、トンネルと対面通行が断続する。
八代でようやく山々が開け、熊本平野に散りばめられた夜景を見下ろすと間もなく、「錦江湾」号は宮原SAに滑り込んだ。
前後の高速道路が先に開通しているにも関わらず、完成が遅れた区間は、大抵が我が国有数の峻険な地形にあり、東北自動車道碇ヶ関IC付近や北陸自動車道の親不知、東海北陸自動車道の御母衣湖付近、大分自動車道の湯布院付近など、僕も幾つかの区間を一般道で通過した経験があるけれど、加久藤越えの迫力は抜きん出ていたように思う。
5度目は、鹿児島と大分を結ぶ高速バス「トロピカル」号夜行便に乗車した時だったが、深夜であったため、「フェニックス」号と同様、ぐっすりと眠っている間の通過となった。
6度目は、九州新幹線新八代-鹿児島中央間の部分開業を目前とした平成16年3月のこと、鹿児島と熊本を結ぶ高速バス「きりしま」号で、高速道路開通後の加久藤越えを体験した。
この路線は平成2年4月に開業したのだが、九州新幹線の開業と同時に運休することが報じられていたので、慌てて乗りに来たのである。
九州道加久藤トンネル前後の重畳たる山岳区間と、加久藤盆地の雄大な眺めを大いに堪能し、途中、人吉ICを降りて町なかの車庫のような人吉ターミナルで一憩したが、鹿児島から熊本まで3時間半という速さは、大いに満足すべきものだった。
「きりしま」号は、運休から4年後の平成20年10月に運行を再開し、今では1日10往復が運行されている。
7度目は熊本と宮崎を結ぶ高速バス「なんぷう」号で、平成18年には稚内から鹿児島まで日本を縦断する高速バスの乗り継ぎ旅の最終走者として再び「桜島」号に乗っているから、改めて振り返ってみると、僕は8回も加久藤を越えたのか、との感慨が湧いてくる。
高速道路が完成するより前の、国道221号線の山越えを経験できたことは、貴重だったと思っている。
加久藤トンネルと矢岳第1トンネルの長さが似通っていることや、ループ橋の存在など、肥薩線と共通点の多い行程であった。
それでも、肥薩線の車中から高速バスでの加久藤越えを思い浮かべると、景観の素晴らしさは優劣つけがたいものの、先人たちが歯を食いしばりながら越えたこの区間の真価は、100年の歴史を持つ肥薩線でなければ分からなかったな、と思う。
加久藤と言えば、石黒耀が平成14年に発表した小説「死都日本」を思い出す。
加久藤カルデラを囲む霧島火山群が破局噴火を起こして、摂氏700℃に及ぶ爆風が時速320kmで山麓のあらゆる物をなぎ倒し、2分後にえびの市と湧水町を消し飛ばしてしまう。
『黒木は、左のサイドミラーを見て肝を潰した。
ミラーには霧島火山が映っていたが、その左端から噴煙柱が立ち昇っていたのである』
『黒木は呆気にとられて天空を駆け登る噴煙柱を眺めていた。
見るうちに噴煙柱の一部が腰砕けになり、次いで下降に転じて、黒いカーテンを引き下ろすように地上を目指し始めた』
『今や噴煙柱の大部分が引き摺られるように降下を始めていて、カーテンの先端は既に霧島火山東山腹に接触している。
接触部はみるみる膨れ上がり、入道雲のように湧き上がった。
カーテンを構成する火砕物が落下の衝撃で発泡・流動化し、噴煙柱崩壊型火砕流に変化したのだ』
『この位置から見ると高速道路がまっすぐ霧島火山の方向へ延びている。
その道路の先が急に歪み、しかもその歪みがこちらへ近づいて来るのである。
最初、黒木は目の錯覚かと思った。
だが、よく見ると道が波打っている。
道路が隆起すると同時に、左右の家や木も大地ごと持ち上がり、ついで波の向こうに沈む。
つまり、巨大な大地のうねりが押し寄せていたのである』
『数秒のうちに霧島火山は姿を変えていたのである。
それはまるで山体から放射状に無数の棘が生え、成長しながら伸びていくような光景だった。
山体のあちこちから信じられない勢いで噴煙柱が噴き出している。
このために、先のプリ二ー式噴火で出来た火砕物カーテンはズタズタに引き裂かれ、噴石と言うより小さな丘くらいの岩が無数に宙を舞っていた。
新しい噴煙柱の基部は赤橙色に発行しており、恐ろしい高温である事を示している。
先端は黒く、無数の火山雷が絡みついて、まるで天を翔る竜のようであった』
『次の瞬間、霧島火山は東南端を除いて地下10キロから爆裂した』
この描写は、九州道の山之口SA付近を走行していた主人公たちが目撃した、破局噴火に至る一部始終である。
標高1574mの高千穂峰をはじめ、新燃岳から夷守岳へ延びる霧島連峰の稜線は、僕も宮崎道を走る高速バスの車窓から幾度か目にしたことがあるだけに、印象深い場面であった。
大規模な火砕流の1つは南側の斜面を下って牧園町を消滅させた後、霧島町、国分市、隼人町を呑み込んで、都城市を厚さ140mにも達する火砕物で埋め尽くす。
南へ進んだ火砕流は、鹿児島市北方の城山を乗り越え、または鹿児島湾を東から西へ横断する2筋の火の津波となって、200mもの高さで鹿児島市街になだれ込んでいく。
火砕流は東側にも牙を剥き、鰐塚山地と青井岳から伸びる標高400mの稜線や丘陵地帯を易々と乗り越えて宮崎市を覆い、一面の火山性堆積原に変えてしまう。
人吉や八代も、都城や鹿児島、宮崎と同じ運命をたどる。
その周辺地域でも、火砕流が巨大な岩石や木々を巻き込み、強大な破壊力を持つ泥流と化して、麓の街々を襲う。
このような壊滅的な破局が、人々が逃げる暇すらない短時間の間に起きたのである。
被害は南九州ばかりではなく、大量の降灰が達する四国や本州の東北地方まで及ぶ。
1m近くも降り積もった火山灰により、木造家屋が次々と圧壊、交通網は麻痺してしまう。
微細な灰によって気孔を塞がれ、光合成が阻害されたことで木々が枯れてしまうため、山の保水能力が格段に落ち、多くの灰を含む土石流や洪水が各地の平野部を襲う。
こうして、日本全土が瞬く間に壊滅の危機に陥ったのである。
『加久藤火山!? 30万年前に最後の破局的大噴火を起こして南九州を焼き尽くした加久藤火山? もうとっくに死んだと考えられていた長径16キロの巨大カルデラ火山……。その亡霊が、今蘇った?』
と小説にも書かれているように、加久藤火山は、30万年前にも巨大噴火を起こしている。
15万年間に渡って繰り返された火山活動により、栗野岳、湯ノ谷岳、烏帽子岳、獅子戸岳、矢岳といった古期霧島火山が形成され、10万年前から再開した火山活動で、その上に新期霧島火山が重なり、韓国岳、甑岳、大幡山、夷守岳、二子石、中岳、新燃岳、高千穂峰などの秀麗な峰々が形作られたのである。
加久藤火砕流は薩摩半島と大隅半島の北部、人吉市付近、宮崎平野にまで広がり、半径約50kmの範囲に溶結凝灰岩の層を重ねた。
火山灰は本州中部でも確認されており、覆われた面積は約3000平方キロ、噴出物の体積は合計約100億立方キロにも及ぶという。
加久藤盆地は、その時の噴火口であるカルデラだったのである。
破局噴火がもたらす近代国家消滅のシミュレーションである「死都日本」は、本職の火山学者が舌を巻いたとされる正確な科学的描写に裏打ちされているため、身が震える程に恐ろしく、感銘を受けた小説だった。
僕にとっては、中学生の頃に夢中で読み込んだ小松左京の「日本沈没」に匹敵するSF小説と思っているのだが、その地球物理学的理論は科学的にも高い評価を受けているものの、何十万年という時間軸を数年に縮めているからくりがある。
一方、「死都日本」で描かれた地獄絵図は、破局噴火が起きれば明日にでも現実となり得ることで、唯一の救いは、何十万年に1回という確率の低さだけなのである。
「死都日本」は、実際に起きた古代の大規模噴火を知るためにも一級の書で、肥薩線周辺の地名が数多く出てくる。
南九州の旅に、火の国としての成り立ちを欠かすことは出来ない。
今回の旅より前に読んでおいて良かったと思う。
日本三大車窓である加久藤盆地と霧島山系の景観や、桜島の勇姿をはじめ、鹿児島湾に潜む姶良カルデラにおける巨大噴火の噴出物が堆積したシラス台地など、この地域は、数々の噴火によって形作られた。
2万5000年前に起きた姶良カルデラの噴火では、流出した火砕物の規模たるや4000億立方メートル、100万立方メートルとされている平成3年の雲仙普賢岳火砕流の実に40万倍の規模に及ぶ。
都城盆地は、加久藤噴火におけるカルデラが、姶良噴火による火砕流に埋められて出来上がったとされている。
火山性地形は、後に美しい風景を作り出すと言われる。
僕が「しんぺい」4号の車窓から眺めている景観が、本性を剥き出しにして人間社会に襲いかかって来たならば、我が国を存続の危機に陥らせてしまう程の凶暴さを秘めていることを思えば、旅の味わいも深みを増すというものである。
石積みの側壁とレンガ積みの天井部分から成るトンネル群をくぐり抜けると、矢岳駅である。
肥薩線で最も高い標高536.9mに位置するこの駅も開通と同時に設けられ、駅舎も古びてはいるものの、どこか民家のような親しみが湧く外観である。
木炭や木材の積み出しで運送業者や木材業者が集まり、太平洋戦争後は開拓者の入植もあって、昭和30年代には約160戸・およそ780人が住んでいたという駅周辺も、今では過疎化が進んで、近くの小学校は休校になっているという。
単式ホーム1面1線のみの構内はひっそりとして、これまでの駅のように出迎える地元の人がいる訳でもない。
もちろん無人駅である。
改札はあるものの、ホームから直に外の広場に出られるようなあやふやな構造になっていて、一角には「人吉市SL展示館」がポツンと建ち、中にD51型蒸気機関車が鎮座している。
動く人影は「しんぺい」4号から降り立った乗客だけで、誰もが手持ち無沙汰な表情を浮かべながら、駅舎の周辺を歩き回ったり、SLの運転台によじ登ったりしている。
さわさわと山あいを渡って来た風が、肌寒く頬をなでる。
この森閑とした矢岳駅の佇まいこそが、肥薩線沿線の真の姿なのだと思う。
15時59分に矢岳駅を後にすると、傾斜した草原が広がり、列車は坂を下りながらぐいぐいと右へと曲がり始める。
眼を凝らすと、右手下方に、大畑駅がかすかに見える。
列車は時計回りに大きく円を描きながら急な斜面を駆け下り、自らが通ってきた線路の下をトンネルで直角にくぐり抜けていく。
これが名にしおう大畑のループ線である。
真幸駅と同じくスイッチバックが2段設けられ、列車と運転手さんが行きつ戻りつを繰り返してから、16時18分、ループの途中にある大畑駅に停車した。
大畑駅の標高は294.1m、矢岳駅から240mを一気に駆け下ってきたことになる。
ここの駅名は、おこば、と読む。
こば、とは焼畑を意味し、かつて大きな焼畑があったことからこの地名が付けられたという説があるらしいが、駅周辺に集落があった記録はなく、大畑の集落に出るには徒歩で1時間近くかかるという。
ここに駅が設けられたのは、麓の人吉駅からの急勾配を登ってきた蒸気機関車が給水を受ける必要があったためで、人吉から大畑まで、D51形蒸気機関車は1tもの石炭を消費し、1分間に250Lという水をボイラーに送り続けていたという。
水が必要だったのは人間も同じで、機関士や乗客は煤で汚れた顔や手を、ホームにある湧き水で洗ったのである。
南九州へ向かう幹線であった頃の面影を色濃く残す大畑駅であるが、こじんまりとした駅舎の壁という壁は、ぎっしりと貼られた名刺で埋め尽くされている。
この駅に名刺を貼ると出世するという言い伝えがあるらしいのだが、その由来は全く不明で、僕も1枚貼ってみたけれども、誠に奇妙な風習である。
構内には土産物などを売る露店が出て、まるで何処にでもある道の駅のように思えたのは、大量の名刺などに今風の俗っぽさが感じられたためであろうか。
時空を超えた旅を終えて現代の人里に戻って来たことに対する安堵感と、旅の終わりが近づいたことへの幾許かの寂寥感が込み上げて来る、大畑駅の佇まいだった。
蒸気機関車が難儀したという人吉までの区間も、ディーゼルカーで軽やかに下って行けば、瞬く間である。
想像を絶するのは、スイッチバックやループ線が繰り返されて優等列車が走れるようには思えない吉松から人吉の間を、かつては貨物列車を含めた長大編成の列車が往来し、最近でも、昭和34年から平成12年まで熊本と宮崎を結んでいた急行「えびの」や、昭和49年から昭和55年まで博多と宮崎を結ぶ特急「おおよど」が運転されていたことである。
沿線の開拓史と近年の寂れ方は、次々と廃止されていく北海道のローカル線にそっくりのような気がする。
急行「えびの」の廃止と前後して、肥薩線の廃止が取り沙汰されたこともあるという。
それでも、この線区を貴重な歴史遺産として着目し、安易な廃止ではなく、観光路線へと脱皮させたJR九州には、惜しみない拍手を送りたい。
平成19年に経済産業省が選定した全国の近代化産業遺産群の1つである「九州南部における産業創出とこれを支えた電源開発・物資輸送の歩みを物語る近代化産業遺産群」として、嘉例川駅、大隅横川駅、吉松駅の燃料庫、吉松駅のC55型蒸気機関車、湧水町の煉瓦暗渠、真幸駅、矢岳第1トンネル、矢岳駅、同駅のD51型蒸気機関車、大畑駅と石造の給水塔・朝顔型噴水、人吉駅機関庫と古レール、球磨川第1・第2橋梁、白石駅、坂本駅などといった肥薩線の諸施設が指定されている。
昔のものが数多く残されていると言うことは、大抵の場合、進歩が停滞してしまったことを意味しているけれど、個々の史跡はもとより、肥薩線そのものが、我が国の近代化の礎となった明治人の知恵と労苦を如実に現しているのだと、現代日本に生きる1人として謙虚に頭を垂れる思いになる。
16時35分に到着した人吉駅で、隣りのホームに待機している16時48分発の「九州横断特急」に乗り換えた。
人吉発の列車が、どうして九州横断の看板を掲げるのか首を傾げたくなるのだが、この特急列車は、平成16年3月の九州新幹線部分開業の際に、熊本と大分を豊肥本線経由で結ぶ特急「あそ」と、熊本と人吉の間で運転されていた急行「くまがわ」を統合する形で誕生させたので、九州を横断するのは熊本-大分間なのである。
どうせならば、人吉から肥薩線や吉都線を走破して宮崎や鹿児島方面に足を伸ばせば良いのに、と思ってしまうところであるが、平成28年3月のダイヤ改正で、逆に熊本-人吉間は廃止された。
真っ赤に塗られたキハ185系特急用ディーゼルカーに乗り込めば、客室には普通の特急用車両と代わり映えのしない平凡な転換クロスシートがずらりと並び、座り心地は良いものの、何となく夢から覚めたような気分にさせられた。
「はやとの風」と「いさぶろう」「しんぺい」に、どうして普通列車用の気動車を種車として用いたのか、今となっては理解できる。
鉄道博物館のような肥薩線に、並みの特急用車両は似合わないのだ。
人吉から八代までの51.8kmは川線と呼ばれ、それまでの山線とは趣ががらりと変わって、日本三大急流の1つである球磨川に沿い、深い渓谷を縫って走ることになる。
最初は球磨川の東岸を走り始め、渡駅の手前で球磨川第2橋梁を渡ると、鎌瀬駅までの30.5kmは、西岸を延々と行く。
白石駅のあたりまでは球磨川が刻む急峻な地形であると読んだことがあるが、水量が少ない日であったためなのか、さほど迫力ある渓谷には見えなかった。
下流に進んで山あいが少しずつ広がりを増していくと、地上よりも、夕焼けに染まった空が目立つようになる。
九州道や九州新幹線の白亜の橋梁をくぐり抜け、明治42年に造られた球磨川第1橋梁で再び東岸に戻れば、肥薩線の終点である八代駅も近い。
僕は、17時50分着の新八代駅まで足を伸ばした。
流麗なガラス張りの新八代駅前には、新幹線に接続する宮崎行き高速バス「B&Sみやざき」号が待機している。
これに乗れば、高速道路で加久藤越えを再び味わうことが出来るのだが、この日のうちに九州新幹線「つばめ」で博多に行かなければならない僕に、そのような贅沢をする時間は残されていなかった。
珠玉の鉄道紀行「阿房列車」を記した内田百閒は、作中で何度も八代の街を訪れている。
見物に出掛ける描写が殆どないので、街の佇まいよりも、老舗旅館である松浜軒を気に入ったようで、また行くんですか、と苦笑いしたくなるほど繰り返し八代に立ち寄っている。
頑固で気難しがり屋だったと聞く百閒先生が気に入るとは、どのような旅館だったのかと思う。
松浜軒は肥後熊本藩細川氏の筆頭家老であった松井家の邸宅と庭園で、かつては八代海に面した松林に接する風光明媚な場所だったという。
現在は旅館を廃業しているけれども、浜の茶屋として国の名勝に指定されている。
百閒先生は、「鹿児島阿房列車」の復路で肥薩線を通り、初めて八代に泊まったのである。
『肥薩線にはルウプ式線路がある。
私には初めてだが、外に矢張り鹿児島近くの水俣栗野吉松間の山野線と、上越国境の清水隧道にもあるそうで、急勾配の為、汽車が直線に登って行かれない所へ輪の形に線路を敷き、だからぐるぐる廻って同じ所を2度通ることになるわけだが、その間に次第に勾配を登ろうと云うのである。
区間阿房列車で書いたスウィッチ・バックでは間に合わない勾配に、そう云う事をするのであろう。
鹿児島を出てから暫くすると、もう勾配に掛かっているらしい。
無暗に隧道ばかりあって、隧道を出る度に、窓外の遠景が低く見え出す。
風が涼しくなるのが、肌にはっきりわかった。
小鳥が澄み切った声で啼いている。
隧道を出てもまだ啼いている。
同じ啼き声だけれど、さっき聞いた鳥ではないだろう。
その啼き声も節も今まで聞いた覚えがないから、何鳥だか見当がつかない。
スウィッチ・バックがあって、又登って矢嶽と云う山駅に着いた。
歩廊に大きな唐金の水盤がある。
その縁から冷たそうな清水が滾滾と溢れている。
山系があわてた様子に起ち上がり、その方へ駆け出したから、私もついて行って飲んだが。じかに水面につけた唇がしびれる様であった。
矢嶽の駅のスウィッチ・バックは見上げる程高い。
いったん引き返してその線を登り、隧道に掛かる頃から下り勾配になった。
だからルウプ線は下りで通る事になる。
車内に犇めいた魚屋群は途中の駅で次々に降りて、もう1人もいない。
すいているから窓の外を眺めるのも自由である。
目を皿のようにしていると、山系君が、あっ、今ルウプ線の交叉点と書いた札が立っていた、と云った。
窓から汽車の行く方の先を見ると、線路が大きな弧を描いて向こうに延びている。
随分な大廻りだと思う。
下りだから好い心持ちに走って、大畑と云う駅に着いた。
それからその駅を出て、やっと山系がさっき見つけた交叉点の下を通り、それで同じ所を2度通ったことになってルウプ線は終わった』
『人吉駅はもう平地である。
平地と云うよりは盆地らしい。
だから暑い。
駅を出た沿線に野生の芭蕉があった。
重たそうに頭を垂れた姿の竹の叢もある。
台湾で見た様な気がする。
大分行ってから、球磨川の岸に出た。
汽車は岸にすれすれに走り続ける。
人吉の駅に入る前に、水量の多い川があったので、多分球磨川だろうと思ったが、その鉄橋を渡ったから、そうすると汽車も川も同じ方向に走るとすれば、川は汽車の左側になる。
支店長や、乗ってからこの汽車の車掌にも聞いて、球磨川は右側の窓から見えると教わっているので、そのつもりで右側の座席にいるのに、少し心許ない。
鹿児島から鹿児島本線の急行列車に乗って帰って行けばいいものを、わざわざ肥薩線などに乗って、魚屋に接触されたのは、東京を立つ前に状阡にそそのかされた為である。
鹿児島まで行くのだったら、是非帰りは肥薩線に乗って、球磨川を伝って八代へお出なさいと勧めるから、ついその気になった。
その球磨川が車内の反対側の窓の下を流れるのだったら甚だつまらない。
何だか落ち着かなくなっていたら、その内に川が見え出した。
矢っ張り左側である。
萬事休するかと思う内に、又もう1度鉄橋を渡った。
それで川が右側の、私の窓のすぐ下へ来た。
宝石を溶かした様な水の色が、きらきらと光り、或いはふくれ上がり、或いは白波でおおわれ、目が離せない程変化する。
対岸の繁みの中で啼く頬白の声が川波を伝って、一節一節はっきり聞こえる。
見馴れない形の釣り舟が舫っていたり中流に出ていたり、中流の舟に突っ立っていた男が釣り竿を上げたら、魚が2匹、いちどきに上がってぴんぴん跳ねている。
鮎だろう。
(中略)
汽車がもう1度鉄橋を渡って球磨川の岸から離れ、それから八代駅に着いた』
宮脇俊三氏も、処女作「時刻表2万キロ」に続く2作目の「最長片道切符の旅」の全行程を終える前日に、特急「おおよど」で肥薩線を通っている。
『吉松で進行方向を変え、矢岳への登りにかかる。
肥薩線の吉松‐人吉間は九州でもっとも魅力のある区間である。
霧島山を一望し、矢岳の高原をループ線で走り、スイッチ・バックが2ヶ所もある。
3つの中間駅のたたずまいも清楚だ。
そういう区間を日暮れて通らねばならぬとは無念だ。
しかも旅が終りに近づき、残り少なくなっているというのに、私はまた車内販売車を呼び止め、今度は日本酒を買った。
登るにつれて右窓に点々と広がっていた盆地の灯火が遠く低く淡くなった。
スイッチ・バック駅の真幸で運転停車する。
ホームに敷き詰められた砂利が湿っている。
夜露がおり始めたのだろうか。
いったん逆行して本線に戻り、ふたたび勾配を登りながら、いま停車した真幸駅を右に見下ろす。
スイッチ・バック駅はこの角度から眺めたときがいちばん良い。
駅灯の黄味を帯びた光が、直立不動で列車を見送る助役の姿を照らし、よく手入れされたホームの植え込みの中に「まさき」の駅名標が白く浮き出ている。
矢岳トンネルで熊本県に入ると、列車は矢岳高原を人吉へ向かって下り始める。
車内の明かりに照らされたススキが薄茶色のカーテンとなって過ぎていく。
列車は右へ右へと回り始めた。
ループ線である。
半周した地点でいったん停車し、スイッチ・バックで大畑駅に入る。
砂利のホームにタブレットの輪を肩にかけた助役が立っている。
左窓の前方に遠く低く人吉の灯が見え、それが次第に近づいて球磨川の鉄橋を渡る。
人吉も1度泊まってみたい町である。
しかし、今日は泊まれない。
特急「おおよど」は人吉をあとに球磨川に沿って下る。
対岸の国道を行く車のライトが、ときどき水面を照らす』
「最長片道切符の旅」とは、最短ならば2764.2kmに過ぎない北海道の広尾駅から鹿児島県枕崎駅まで、一筆書きの経路で1万3319.4kmという大回りをした記録である。
無数の途中下車印で覆われてしまった切符を提示するたびに、
「何ですか、これは」
「これでも切符ですか」
「うわー、とても私にはわかりません」
などと車掌や駅員にすら呆れられながらも、宮脇氏は八代までたどり着く。
しかし、途中で体調を崩したり、所用のためにちょいちょい旅を中断したため、肥薩線に乗り終えた時点で、切符の有効期限切れという危機を迎えてしまう。
『八代着20時37分。
今夜はここで泊まる。
疲れたし、八代から南の鹿児島本線は明るい時に通りたい。
改札口で私は、
「この切符の通用期間は今日までだけど、継続乗車にして下さい」
と言った。
国鉄には乗車券の有効期間を過ぎても乗車できる「継続乗車船」という制度がある。
(中略)
「今日で有効期間が切れるのですか」
と、額の禿上がった中年の駅員が言う。
なにしろ券面記載事項がよく見えなくなっていて、「10月13日から有効」が「15日から」とも「18日から」とも読める。
実はそうなのだ、と私は言った。
「21時57分発の出水行がありますよ。出水で継続乗車の手続きをしてください」
と駅員は言った。
今日中に行ける所まで行け、との趣旨はわかるが、出水で一夜を明かしても、明日の宮之城線薩摩大口行との接続が悪く、八代で泊まるのと結果は変わらないのだ。
しかも出水着は23時37分、そんな時間に着いて旅館を探すのもしんどい。
「しかしですね、今から出水まで行って、明日の始発列車に乗り継いだとしても、宮之城線との接続が悪いから薩摩大口に着くのは11時01分になる……」
「どうぞこちらへおいで下さい」
と、私は駅舎の中へ連れて行かれた。
「とすれば、明日の八代発6時12分で出かけて出水から特急に乗り継ぐのと結果は同じじゃないですか。要するに薩摩大口に着くのは11時01分で変わらない。だから今晩はここで泊まっていいでしょう」
「ここでは泊まれません」
「いや、旅館に泊まりますよ」
「そうですか。しかし、やはり継続乗車証明はできません」
「どうして?」
「規則としては、その日の列車のある限り、行けるところまで行ったお客様にしか継続乗車は認められないのです」
「なんとかなりませんか」
「申し訳ありませんが、出水行の列車があるものですから」』
八代駅での交渉は成立せず、最終日の乗車券は別途購入することになった宮脇氏であったが、最後には、
『だが、思い返してみると、この駅員こそが私の最長片道切符に対して真正面から対応してくれた唯一の国鉄職員ではなかったか。
私はさっぱりした気持で駅舎を出た』
と締めくくり、爽やかな余韻を感じさせる。
八代で目にした夕陽は大きかった。
新幹線の高架ホームから、黄昏に染まる街並みを見下ろしながら、肥薩線の昭和20年代を描いた百閒先生と、昭和50年代を描いた宮脇氏、鉄道文学における2人の巨人が初めて同線に触れた格調高い名文と、それぞれの八代とのゆかりを思い浮かべた。
合わせて、鉄道三昧だった夢のような午後のひとときを振り返れば、この街は、旅の締めくくりとして、誠に相応しい終着駅に思えたのである。