東京発みちのく行き高速バス慕情 第6章~平成3年・新庄行きTOKYOサンライズと仙台行き政宗号~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

東京と福島、宮城、山形といった東北南部地方を結ぶ高速バスの歴史は古く、昭和37年6月に東武鉄道、宮城交通、会津乗合自動車、関東自動車、東野交通、福島交通、山形交通の出資により設立された東北急行バスが、東京-仙台線と東京-山形線、東京-会津若松線の営業を始めた昭和37年まで遡る。


当時の時刻表によれば、どの系統も宇都宮、西那須野、黒磯、白河、郡山と停車し、会津若松系統は郡山から猪苗代、会津若松へ、山形系統は福島に停車してから米沢、上ノ山、山形、そして仙台系統は福島から白石、仙台へと運転されていた。
昭和39年には仙台から塩釜、松島へ足を伸ばす系統も登場し、東京-宇都宮間は3時間15分・350円、東京-郡山間は6時間30分・640円、東京-福島間は7時間40分・750円、東京-会津若松間は8時間23分・800円、東京-仙台間は9時間45分・900円、東京-松島間は10時間45分・930円、東京-山形間は10時間43分・930円であった。
高速道路がなかった時代であり、東北急行バスは国道4号線をのんびりと行き来していたのである。

同時期の長距離夜行鈍行列車を使えば、上野と福島の間が6時間、仙台までが8時間、山形までが10時間半と東北急行バスと似たり寄ったりの所要時間で、それでも特急や急行列車を選ばない利用者が少なくなかった時代であるから、似たような運賃で、固いボックス席ではなくリクライニングシートを備え、座席が指定されて立たずに済むバスを選択する客も少なくなかったのであろう。


時刻表には、巻末の私鉄・バス欄とは別に長距離バスのページが設けられ、東北急行バスの他に、

新橋と土浦・水戸・日立を結ぶ常磐急行バス
東京と渋川・伊香保・前橋・猿ヶ京・水上・谷川岳を結ぶ東武鉄道バス
東京・横浜と小田原・強羅・小涌園・箱根町を結ぶ箱根登山鉄道バス
東京・横浜と江ノ島・小涌園を結ぶ藤田観光自動車
東京と江ノ島・小田原・箱根町を結ぶ国際自動車
東京から蒲田、川崎、横浜を経由して江ノ島へ向かう京浜急行バス
渋谷と鎌倉・江ノ島を結ぶ東京急行バス
上野と中軽井沢を結ぶ東日本観光バス
西武新宿・池袋と軽井沢・鬼押出しを結ぶ西武自動車
渋谷と高崎・軽井沢・小諸・上田・長野を結ぶ東京急行バス
上野と軽井沢・小諸・上田・須坂・信州中野・湯田中・丸池を結ぶ長野電鉄バス

といった路線が掲載されていて、全国には他にも長距離バスが走っていたのに、どうして東京発着路線ばかりを集めたのかと首を傾げながらも、出来ることならばこの時代にタイムスリップして、片っ端から乗ってみたくなる。


様々な点で、半世紀前よりも我が国の暮らしは便利で快適になったはず、と思っているのだが、東京と山形や仙台の間を10時間で移動していれば良かった世の中を、ふと羨ましくなるのは何故であろうか。

時代はどんどん目まぐるしくなり、高速化された鉄道や増加する一方の自家用車などに押されて、この欄に掲載されていた長距離バスは殆どが姿を消し、東北急行バスも減便を重ねて、僕が高速バスファンになった昭和60年代には、東京と山形、仙台を結ぶ2系統が夜行1往復ずつだけという体たらくになっていた。
それでも、東京と山形の間で夜行便を利用した頃には、まだ一般道の区間と途中停車駅が多い昔ながらの運行形態が残されており、9時間にも及ぶ長い車中で、何となく心が安らいだ記憶がある(「最長距離バスの系譜(1)~昭和37年 東北急行バス「東京-山形線」384km~」)。


福島から国道13号線を使って米沢、上ノ山、山形などの山形県の南部は東北急行バスによって東京と結ばれていたものの、平成3年に、東京と天童、東根、尾花沢、新庄と言った山形県北部を結ぶ夜行高速バス「TOKYOサンライズ」号が登場した。
運行するのは東北急行バスと山形交通バスで、合弁会社と出資した事業者が組むのは珍しい例ではないだろうか。

平成4年5月の週末、僕は夜の帳に包まれた浜松町バスターミナルに足を運んだ。
JR浜松町駅から貿易センタービルへの渡り廊下を抜けると、煌々と照明に照らし出されていた駅構内とは空気が一変して、1階のバスターミナルは薄暗く、どことなく場末の雰囲気がある。


東京発着の夜行高速バスで浜松町を利用しているのは、東北急行バスの仙台、山形、新庄方面と、京浜急行バスが運行する弘前、宮古、舞鶴、岡山、鳥取、米子、徳島、今治方面への路線、そして相模鉄道と羽後交通が運行する田沢湖行きくらいであった。
22時発の宮古行き「ビーム1」号、22時15分発の弘前行き「ノクターン」号、22時35分発の舞鶴行き「シルフィード」号や、同時刻に発車する「レイク&ポート」号の利用客と覚しき人々が、大きな荷物を傍らに置いて、あちこちに置かれた長椅子を占めているけれども、誰もが黙りこくって自分の殻に閉じこもり、軒を並べるバス会社の窓口もシャッターを固く閉ざしている。
東京では汗ばむような陽気の日も増えている時期であったが、東北方面に向かう客は一様に厚着に身を包んでいる。

JRが夜行列車を次々と廃止している趨勢にあって、夜行で旅をする人間が少数派になっていることは充分に承知してはいるものの、実際にうら淋しい夜のバスターミナルに身を置いてみれば、自分が世の中からはみ出しているかのような、うらぶれた気分に襲われる。
せっかく日程を確保して乗車券も手配していると言うのに、何の用事もない新庄までわざわざ夜行高速バスで出掛けていく行為が、虚しくも馬鹿馬鹿しいことであるかのように思えてしまう心境は、扱いに困る。


ただでさえ、最上地方は僕にとって地味な印象の地域で、この「TOKYOサンライズ」号が開業しなければ、果たしてわざわざ訪れたかどうか分からない。

ただ、松尾芭蕉の「奥の細道」では、この辺りの行程で心を打たれる描写と秀句が多い。

「大山をのぼって日既に暮れければ、封人の家を見かけて舎りを求む。
三日風雨あれてよしなき山中に逗留す。

蚤虱 馬の尿する 枕もと」

という有名な句に始まり、

「最上川乗らんと、大石田と云所に日和を待つ。
爰に古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花の昔を慕ひ、 芦角一声の心を和らげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道に踏み迷ふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。
このたびの風流、 爰に至れり。
最上川は、みちのくより出て、山形を水上とす。
碁点・隼など云うおそろしき難所有り。
板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る。
左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。
是に稲積みたるをや、いな船と云ふならし。白糸の滝は青葉の隙々に落ちて、仙人堂、岸に臨みて立つ。水みなぎつて舟あやうし。

五月雨を あつめて早し 最上川」

などという一節を読めば、当時のみちのくの情緒が文面から匂い立つようである。

芭蕉が旅した土地に自分も足跡を印してみたい、と気持ちを懸命に奮い立たせる一方で、目の前を発車していく夜行高速バスに吸い込まれていく乗客を眺めながら、この人たちは、僕と違って帰省や所用などのきちんとした目的を持っているのだろうな、と疎外感に苛まれてしまう。


何やら落ち着かない心持ちで過ごしているうちに、「TOKYOサンライズ」号の発車時刻である22時30分が迫り、白地に青い波線が入った山形交通のスーパーハイデッカーが乗降口に横着けされた。
今回はハズレたか、と思う。
東北急行バスは、この新路線のために、スウェーデン製のシャーシに富士重工の後部が2階建てになったボディを換装した「ボルボ・アステローペ」を投入していた。
当時、渋谷-酒田、赤羽・大宮-酒田間の「夕陽」号2系統を運行する庄内交通や、横浜・浜松町-田沢湖間の「レイク&ポート」号や東京-羽後本荘間の「ドリーム鳥海」号を運行する羽後交通が「ボルボ・アステローペ」を採用する一方で、共同運行の事業者が国産のスーパーハイデッカーを使用していたにも関わらず、僕はどの路線でも「ボルボ・アステローペ」に当たるという幸運に恵まれていたのだが、この日ばかりは勝手が違うようだった。


乗車してしまえば、欧州車であろうが国産車であろうが、後部サロンがあろうがなかろうが、眠っているうちに遠くへ連れて行ってくれる夜行高速バスの旅情が劣る訳もなく、ぴりっとした静粛な空気に支配された客室の様子も悪いものではない。
青森、秋田、岩手方面といった北東北に向かう高速バスに比べると、山形、宮城、福島方面へのバスは、車内で交わされる会話も少なく、取り澄ました雰囲気であることが多いように感じる。

ビルの灯もまばらになった深夜の第1京浜国道から内堀通りに入り、八重洲通り沿いに東京駅と向かい合う東北急行の営業所で多くの客が乗り込んできて、殆どの座席が埋まった。
宝町ランプから首都高速道路に入り、30分ほど揺られているうちに、いつしか道路の継ぎ目を拾うバウンドの間隔が延びて、東北自動車道に入ったバスは滑るように速度を上げていく。


消灯されて漆黒の闇に包まれた車内で、眠っているのか起きているのかよく分からない一夜を過ごし、朦朧とした気分でいるところに、いきなり眩い照明が灯されて、瞼をこじ開けられた。
休憩なのか、と時計を見ると、いつの間にか、午前4時40分に到着する天童車庫前停留所が近づいていた。

「おはようございます。バスは時間通りに運行しておりまして、間もなく天童車庫前です」

という運転手さんの囁くような声の案内が流れ、数人の客が背もたれを起こして身支度を始めた。

そっとカーテンの隅をめくって見ても、将棋の駒で有名な町は、まだ闇の底に沈んでいる。
織田信長を祖先とする天童織田藩では、窮乏した財政下における下級藩士の内職として将棋の駒造りが始められ、勤王の志士として知られる藩士吉田大八が、将棋は兵法戦術に通じ、遊ぶことも、また駒を製作することも武士の面目を傷つけるものではないとして大いに奨励したと言われている。


「TOKYOサンライズ」号の朝は早い。
午前5時に到着する東根・公立病院前、5時05分着の楯岡駅前、5時25分着の尾花沢待合所、5時45分着の舟形十字路と、払暁5時台に停車していく停留所へ降りていく人々を、眠い眼をこすって眺めながら、東北の人は勤勉だな、と思う。

松尾芭蕉が最上川について記した大石田は楯岡駅の近くで、JR奥羽本線はこの付近でほぼ直線に敷かれているにも関わらず、くの字を描くように尾花沢を避け、西側に位置する大石田に駅を設けているため、尾花沢では「TOKYOサンライズ」号が唯一の東京直通手段となっている。
芭蕉が尾花沢に11日間も逗留したのは、折しも紅花が真っ盛りの時期であった。

「尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富るものなれども志いやしからず。
都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日比とヾめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。

涼しさを 我宿にして ねまる也
這出よ かひやが下の ひきの声
まゆはきを俤にして紅粉の花」

と尾花沢で3つの句を編んだ後に、「奥の細道」は、いよいよ立石寺の段に移っていく。


立石寺と言えばJR仙山線の山寺駅が最寄りで、僕は位置関係がピンと来ないのだが、尾花沢や天童は山寺への観光拠点であるらしい。

「山形領に立石寺と云う山寺あり。
慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。
一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。
日いまだ暮れず。麓の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松栢年旧、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。
岸をめぐり、岩を這いて、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ 。

閑けさや 岩にしみ入る 蝉の声」

この句に詠まれた蝉はニイニイゼミか、はたまたアブラゼミなのか、前者を推す小宮豊隆と、後者と断じた斎藤茂吉の白熱した論争はよく知られている。
僕がこの話を知ったのは、茂吉の息子である北杜夫が「どくとるマンボウ昆虫記」の一節においてユーモラスな筆致で触れているからである。
芭蕉がこの句を詠んだ7月中旬にはまだアブラゼミが出て来ていないという決着だったのだが、昆虫好きで知られる北杜夫は、アブラゼミの鳴き声はこの句が描く雰囲気に合致していないのではないかと論じている。


東根と天童は山形盆地に含まれ、その北にある尾花沢盆地も広大な田畑が続くまま境界がはっきりとしなかったが、尾花沢待合所を過ぎると地形は山がちになり、全長433mの猿羽根隧道をくぐり抜けて、バスは新庄盆地へと降りていく。
東根は日本一のサクランボの産地として知られ、また尾花沢はスイカで知られており、山形県は誠に実り多き土地なのであるが、果物は他の食材に比べれば旅行者が地元で味わうには難しい代物で、土産として持って帰るくらいしか手がないことが難点である。

終点の新庄駅前には、定刻の午前6時より幾らか早めに到着した。
新庄盆地は、日本海から吹きつける冬の季節風が湿気を含んで最上川の渓谷を遡って吹き込むために、山形盆地よりも積雪量が圧倒的に多いという。


最上川 逆白波の たつまでに ふぶくゆふべと なりにけるかも

川面に白波が立つほど、流れとは逆の方向に吹きつける強い冬の風について詠んだ茂吉の歌がある。
立石寺の蝉論争では激情しやすい一面を見せた茂吉であるが、このような心細やかな歌を詠む人でもあったのか、と思う。
四方を山々に取り囲まれ、降雪が多いことから、我が国で最も日照時間の短い地域でもあり、農業も稲作が主体で、山形県としては例外的に果物の栽培が少ない土地である。

奥羽本線と東西の陸羽線が交差する要衝である新庄は、鉄道の街でもあり、紀行作家の宮脇俊三氏が新庄を訪れた際には、

『雪に閉ざされた夜の町で、ここだけが灯台のようだ』

と駅の佇まいを描写し、また駅前のホテルで朝食を摂ろうとすると、フロントの係員から駅の食堂を案内されて、

『朝食も駅の世話になるのが新庄なのであった』

と結んでいる(「駅は見ている」より「新庄駅」)。

雪の多い地域は、雪が溶ける季節を迎える春先には乾いた気候になることが多いのではないか、というのが僕の印象で、ようやく空が白み始めた新庄駅前に吹く風もまた、何となく埃っぽく感じる。
冬に来てみたかったな、と思う。


早くから開いている駅の食堂で朝食をしたためた後に、あろうことか、僕は7時発の仙台行き特急バス「48ライナー」に乗ってしまった。
僅か1時間の滞在時間で、いったい何をしに新庄まで来たのかと言われそうだが、1人旅の途上で名所・旧跡を観光することはどうも苦手で、芭蕉や宮脇先生の文章に描かれた最上地方の空気を吸えたことだけで、充分に満足である。

早朝の便であるにも関わらず、「48ライナー」には十数人がどやどやと乗り込んだ。
バスは車の少ない国道13号線・羽州街道を快調に南下し、舟形十字路、尾花沢待合所、楯岡駅前、公立病院前、東根駅前と、「TOKYOサンライズ」号で下ってきた経路を忠実になぞっていくうちに、乗客の数が目立って増えていく。


つい3時間ほど前、夜明け前の深い眠りの中にあった最上地方の車窓が、朝を迎えて一変している様を眺められることは、決して二番煎じではなく、なかなか楽しい。
緩やかなアップダウンとカーブを繰り返す国道沿いには、農夫が繰り出して春を迎える準備に追われている田植え前の水田が拡がり、舟形十字路から尾花沢、大石田にかけては、大きく蛇行する最上川の悠然たる流れを、窓外を流れ行く木立ちの合間から望むことが出来る。


東根駅前を過ぎると、バスは天童市を目の前にしながら県道29号線に逸れ、関山の三差路で国道48号線・関山街道に合流する。
天童・寒河江地域と仙台を結ぶ役割は、別路線の特急バス「48チェリーライナー」に任されているのだ。

関山街道を走る特急バスの歴史は、昭和27年に、天童経由で仙台と山形が結ばれたことに始まる。
当時としては、関山峠を越える国道48号線が、最も整備された道路であったが、かつての関山越えは、あまりに険しいがために、馬で越えることが出来ず、現在山形自動車道が通じている笹谷峠越えが、江戸時代までのメインルートであった。
明治の初めに山形県令になった三島通庸は、福島と米沢の間にある栗子峠に萬世大路を開削した工事でも知られる「土木県令」で、先程通り過ぎて来た猿羽根峠の道路も彼によって拓かれたのであるが、関山街道の整備にも力を注ぎ、その最大の事業は、多くの犠牲を出しながら明治15年に開通した関山トンネルだった。
その開通により、塩釜港に船で荷揚げされた貨物を馬車で山形に運び込むことが可能となり、結果として、最上川水運の衰退を招くことになる。


笹谷街道は明治28年に改修が終了することで、ようやく馬車の往来が可能になり、国道286号線に指定されている現在では自動車の通行も出来るのだが、なかなかの悪路らしく、昭和30年代の記録映像で、九十九折りの未舗装の山道を、土埃を上げてボンネットバスが走る光景を目にした時には、かつての我が国の道路の凄まじさに驚くとともに、そこを行き来する運転手さんの腕前と、それに命を預ける旅客の度胸にも感じ入ったものだった。
今でも国道286号線の笹谷峠の区間は車重と車長の制限があることに加え、笹谷峠の区間は冬期に閉鎖されるという。

峠の直下を貫通する笹谷トンネルが開通したのは昭和56年で、この年に笹谷トンネルを経由して山形と仙台を結ぶ特急バスが所要1時間30分で運行を開始、代わりに関山峠経由の仙台-山形線を天童止まりに短縮した系統が、「48ライナー」と「48チェリーライナー」の始まりである。
笹谷街道は一般道よりも高速道路の整備が優先され、昭和63年10月に村田JCT-宮城川崎ICの間が、平成2年10月に宮城川崎IC-笹谷ICの間が、平成3年7月に関沢IC-山形北ICの間が順次開通し、あらかじめ高規格で造られていた笹谷トンネルが山形道に編入されて全通したのは、平成10年7月のことである。


関山峠の北には、最上地方と宮城県の鳴子を結ぶ山刀伐峠がそびえ、これこそが芭蕉の歩いた道であるけれど、山賊が旅人を襲う危険な峠であったと伝えられている。
「奥の細道」にも屈強の者が芭蕉一行を護衛したことが記され、

『高山森々として、一鳥声きかず、木の下闇、茂りあひて、夜行くがごとし』

という記述からは、かなり厳しい峠道であったことが偲ばれる。

宮脇俊三氏も、『「おくのほそ道」の道程のなかで、もっとも苦労したのは、この区間だったかに思われる』という理由から芭蕉の足跡をたどって山刀伐峠を訪れている。

『前方に明るみがさし、峠に着いた。
着いた、というのは運転手が勝手に車を停めたからである。
あまりいい気持ちではないが、わざわざ旧道をたどって来たからには、峠で一憩しないわけにはいかない。
さして気はすすまないが、車の外へ出てみると、当然ながら森閑としている。
「高山森々として一鳥きかず」である。
ここにも「奥の細道探勝路」の標識があり、尾根伝いに登る小径が見える。

「ここを行けば峠の地蔵がありますよ」

と、運転手が小径を指さす。
「おくのほそ道」をたどると言って来ながら、車に乗ってばかりいて、なんだか芭蕉たちに申しわけないような気がしていたので、その小径を歩いていった。
運転手も私のあとからついてくる。
なぜ前に立って歩かないのだろうと思う。
落ち葉を踏む2人の足音のほかには物音が何もしない山刀伐峠であった(「終着駅は始発駅」所収「陸羽東線と芭蕉」)』


「48ライナー」が走る国道48号線は、最上川の支流である乱川に沿って、奥深い奥羽山脈の懐へと分け入っていく。

ここからは、この旅の3年前に酒田と仙台を結ぶ長距離バス「夕陽」号でたどった懐かしい道筋である(「日本海ハイウェイ夕陽号で行く庄内の旅~ボルボアステローペで関越道を走った夢のような一夜~」)。
「48ライナー」は、「ボルボ・アステローペ」を使っていた「夕陽」号とは比べものにならない旧式のバスであるが、かえって走りはきびきびとしている。
重畳たる山塊が車窓を覆い尽くし、羊腸のごとく曲がりくねった道路沿いには荒々しく山肌を削った採石場が現れる程度で、 胸が締めつけられるほど人跡稀な車窓に変わりはなかった。
地形の峻険さは笹谷峠や山刀伐峠と大差はないようで、よくぞ、このような山あいに道を切り開いたものだと思う。


近代的な外見の関山トンネルで県境を越え、家々がぽつりぽつりと姿を現すようになると、間もなく作並温泉街が見えてくる。
仙台平野へ向けての急坂を一目散に駆け下りて行く特急バスの車内では、小まめに停留所の案内が流されるが、宮城県に入ってからの乗降は一切なく、この便の乗客は全員が仙台市内への利用だった。


前後に車の量が増えて、このままでは他の大都市近郊と同じく渋滞が始まるのだろうな、と心配になる頃合いを見計らうかのように、バスは愛子バイパスへ進入する。
断続するトンネルの合間に見え隠れする広瀬川を横目に、そのまま仙台西道路で青葉山の丘陵を突き抜ければ、人と車で覆い尽くされた仙台の街並みの賑わいが、いきなりバスを取り囲んだ。
車の波に揉まれるように市街地を走り抜け、仙台駅前に到着したのは、定刻9時15分であった。


仙台からもバスで帰ろうと思う。
目指すのは、この旅の2年前、平成2年に開業した昼行高速バス「政宗」号である。

東京から300km前後の距離にある都市を結ぶ高速バスとして、名古屋に向かう老舗の「東名ハイウェイバス」と「ドリームなごや」号、新潟行きの「関越高速バス」が存在し、昼夜行便ともに充実しているのだが、仙台は、都市の規模も引けを取らないはずであるのに、東北急行バスの夜行便しか走っていないことが不思議でならなかった。
平成元年に東北急行バスが1往復の昼行便の運転を開始し、ようやく東北道の日中の景色を楽しむことが出来るようになり、翌年に、仙台と新宿を結ぶ昼行便だけの「政宗」号が1日3往復で登場したことを知った時には、まさに我が意を得たという思いだった。
行き先が、当時の東北新幹線や在来線列車の終点であった上野駅でも、東北急行バスの終点の東京駅や浜松町バスターミナルでもなく、新宿駅であるという点も、新路線らしい期待感を盛り上げる。
是非とも乗車してみたい、と心が踊ったのも、無理からぬことであろう。


ただし、困ったことが1つある。
「政宗」号上り便の仙台駅東口の発車時刻は7時、9時、17時で、僕が「48ライナー」で仙台に到着する寸前に午前の便が発車したばかりで、17時まで8時間近い間が空いている。
東北急行バスの上り昼行便が12時10分に発車するので、正常な人間ならばそちらを選ぶのだろうが、僕は既に乗車経験がある。

やむなく、時間を持て余しながらうろうろと過ごす羽目になり、僕は杜の都でいったい何をしておるのか、新幹線ならば午前中に東京へ着いているのに、との思いが何度も心中に去来したものだった。


ちなみに、新宿駅南口からの下り便は、9時、15時、17時30分の発車で、どうやら「政宗」号が標的としているのは、主として仙台から東京を行き来する客層のように見える。
仙台を午前7時に出る上り便に乗れば、所要5時間半で新宿に12時30分に到着、17時30分発の下り最終便まで5時間の滞在時間が生まれる。
実際にそのように慌ただしく行き来する人間がいるのかどうかは分からないけれども、東京と仙台が高速バスで日帰り出来るようになったのは、史上初のことである。

このような傾向はどの高速バスでも見られることで、中には午前出発の上り便と午後出発の下り便だけという路線も少なくないため、1便ずつだけとは言え、午前の下り便と午後の上り便を設けている「政宗」号は、まだマシなのであった。

「政宗」号はJRバス関東及びJRバス東北と東北急行バスの3社が手を組んでスタートしたのだが、平成4年にJRバス関東が、同20年に東北急行バスが手を引き、JRバス東北単独運行の「仙台・新宿」号と愛称を変えたものの、運転本数は1日7往復に膨れ上がっている。
後に東京駅を発着する「仙台・東京」号も登場し、東北急行バスの昼行便も1日3往復に増便され、加えて元ツアー高速バスだったさくら観光も何本かの昼行便を走らせていることで、仙台と東京を結ぶ日中の選択肢が豊富な今では、想像もつかない悩みである。


どこをどのように彷徨い歩いたのか、その間の記憶は曖昧なのだけれども、ようやく「政宗」号の発車時刻が近づいて、僕はごった返している仙台駅のコンコースを東口に向かった。

ペデストリアンデッキが張り巡らされて晴れやかな西口と比べれば、当時の仙台駅東口は、地平へ降りていく階段が狭く、ロータリーを囲む建物も閑散としている。
JRバス東北の営業所も至って簡素で、中に入れば床がギシギシと鳴るプレハブ造りだったように思う。
東京へ行こうとしながら、このような淋しい場所に足を運ぶ人間とは、やっぱり世間におけるはみ出し者で、まだ明るい頃合いであるのに、前の夜の浜松町バスターミナルと同じく、うらぶれた気分にさせられる。
それこそが、バス旅の味わい深いところだと思う。


定刻に姿を現したJRバス関東のスーパーハイデッカーに乗り込み、指定された座席に収まれば、これでようやく東京へ帰ることが出来る、という安堵感が込み上げてきた。

「政宗」号は仙台駅の南で広瀬川を渡り、河原に沿って少しばかり東へ進んでから、長町駅に寄る。
日清戦争の折りに陸軍第2師団が設置させた軍用停車場を起源とする長町駅は、かつては国鉄の機関区や貨車操車場が置かれ、大正3年から昭和36年までは秋保電気鉄道が、昭和11年から同51年までは仙台市電が乗り入れていた交通の要所で、昭和62年からは仙台市営地下鉄南北線も乗り入れている。

バスが横着けされた西口には商店も少なからず見受けられたが、東北新幹線の高架が頭上を覆う停留所からの乗客は皆無で、どうして寄り道せずにさっさと仙台宮城ICに行ってくれないのか、と思う。
東北急行バスの東京-仙台線の夜行便も東北本線と常磐線が合流する岩沼駅に停車していたことがあり、仙南地域で乗降扱いをするのは東京と仙台を結ぶ高速バスの伝統であるのかもしれないけれど、黄昏が街を包み始める頃合いになっても、まだ仙台近郊をうろうろされてしまうと、このバスは、間違いなく新宿へ連れて行ってくれるのだろうかと心細くなる。


仙台西ICから東北道に入った「政宗」号は、ようやく速度を上げ始めたが、春の日は程なく山の端に落ち、みちのくの緑溢れる野山を楽しむどころか、深い暗闇を1人淋しく見つめるだけの5時間となった。
高速バスでも鉄道でも航空機でも、夜の最終便のピリッと張りつめた独特の空気は嫌いではないのだが、8時間も待った挙げ句に、夜行便と変わりのない車窓を見せられるとは、やっぱり正午過ぎの東北急行バスに乗れば良かったか、と自分の判断が恨めしくなる。
早く新宿に着いて欲しいと思う。

東北道に接続している首都高速川口線を鹿浜橋ランプで降り、王子駅で幾許かの客を降ろした「政宗」号は、そのまま明治通りを伝って終着駅に向かう。
王子駅に寄るのは渋滞による遅延を救済するためと聞いていたが、池袋駅東口、高田馬場、新宿3丁目といった繁華街を通過しながらも比較的滑らかに進むことが出来たのは、午後10時過ぎという遅い時間帯であったことも一因であろう。


定刻22時30分に到着した新宿駅南口バスターミナルは、JRバス関東が東京駅八重洲口に次ぐ第2の拠点として平成元年に開設したばかりで、同年10月開業の新宿-常陸太田間高速バス、平成2年3月開業の新宿-京都間「ニュードリーム京都」に次いで、「政宗」号はここを発着する3番手である。

JR新宿駅の線路と高島屋に挟まれたバスの進入路には、足を突っ張っていないとシートから尻が滑り落ちそうな急坂を下ってから、今度はのけぞるように上っていく箇所があり、ジェットコースターのようでなかなか楽しめる構造なのだが、バスを降ろされた乗降場は、コンクリートの柱や梁が剥き出しの穴蔵のようだった。
平成28年に完成した我が国随一の巨大バスターミナル「バスタ新宿」に生まれ変わった現在から思い返せば、信じ難いような侘びしい佇まいで、本当にここが、つい今し方まで車内を殷賑なネオンで照らし出していた新宿の一角なのか、と目を見張った。

小さな窓口と券売機の横をすり抜けて路地に出ると、居酒屋やゲームセンターなどがどぎつい看板を輝かせながら軒を並べ、夜が更けるのも構わず衰えることのない雑踏が、瞬く間に僕を包み込んだ。
群れをなして闊歩している酔客にぶつからないよう身を縮めて歩きながら、「政宗」号が、紛れもなく新宿の地に連れ戻してくれたことを、ようやく実感できたのである。

 
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