最長距離バスの系譜(1)~昭和37年 東北急行バス「東京-山形線」384km~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

全国津々浦々を結ぶ高速バス──

どの路線にも味があり、1度座席に収まってバスが走り出せば、それだけで僕は浮き浮きしてしまう。
好きなものだから、一般の方々と違って、乗車時間は長ければ長いほど良い。

当然のことであるが、その時代ごとに、営業距離日本一を誇る高速バス路線が存在した。
僕が高速バスに興味を持ち始めた昭和60年頃は、東京と大阪を結ぶ夜行バス、国鉄「ドリーム」号が最長距離路線だった。
当時は、全国でも数えるほどしか高速バス路線がなく、時刻表でも、巻末の会社線蘭に玉石混淆、私鉄やローカルバスと混ざって掲載されているだけだった。
その後、大阪と福岡を結ぶ「ムーンライト」号、東京と弘前を結ぶ「ノクターン」号、東京と米子を結ぶ「キャメル」号、東京と出雲を結ぶ「スサノオ」号と、平成初頭に見られた全国的な高速バス路線の拡充・発展に歩を合わせて、最長距離路線も次々と営業距離を伸ばしていったものだった。

高速バスファンとしての楽しみは、新路線が開業するたびに、こんな街にもバスで行けるようになったのか、という新鮮さの比重が高かった。
毎月、時刻表を開くのが楽しみで、真っ先にページをめくるのは、巻末「会社線」の「新規開業」の一覧表であった。

高速バスは20~30人ほどの乗客を集めればペイすると言われている。
鉄道では終着駅になり得ないような小さな町が、東京発の高速バスの終点になっていたりして、バスが開業したから、という理由で初めて訪れた地域は数え切れない。
一方で900kmを越えるような超長距離路線では、こんな遠くまでバスで行けるようになったのか、という驚きの方が勝っていたものだった。

これから、時代を遡って、かつての長距離路線の歩みを振り返ってみたい。
自宅の大掃除をしていたら、昔撮影した懐かしい写真がたくさん出てきて、今回、そのデジタル化が終了した、という事情もある。

最初に取り上げるのは、東北急行バスの浜松町発山形行き夜行便である。
 


僕が乗車したのは昭和61年冬の週末で、既に、最長距離路線の称号は他路線に譲っていた。
けれども、昭和37年8月に東京と仙台、山形、会津若松を結ぶ長距離バス3路線が一斉に開業し、昭和39年5月には東京-松島線も加わった時代には、まぎれもなく、日本最長距離を運行するバスだったのだ。
全区間が一般道だったというから、いったい何時間かかったのだろうか?
現在の東北道経由の運行距離で見るならば、山形系統は384km、仙台系統は377kmである。

 

 

開業当初、東京-山形線は昼夜行1往復ずつ運行されていた。

東京発8:00-山形着18:43
東京発21:30-山形着7:30
山形発10:15-東京着20:42
山形発20:00-東京着6:06

所要時間は10時間から10時間30~40分程度である。
全線を一般国道で行くバス旅、1度は経験してみたかったと思う。
ちなみに東京-仙台線は1日4往復(夜行1往復)、所要9時間から9時間50分ほどだった。
東京-会津若松線は1日2往復、所要8時間前後。
東京-松島線は1日3往復、所要10時間半程度であったようだ。
その後、東京-仙台線は増便され、

東京発9:00→仙台着19:10
東京発10:00→仙台着20:10
東京発11:00→仙台着21:10
東京発13:00→仙台着23:10
東京発21:00→仙台着7:25
東京発22:00→仙台着7:55
東京発23:00→仙台着8:45

という下り便と、

仙台発9:00→東京着19:10
仙台発10:00→東京着20:10
仙台発13:00→東京着22:55
仙台発21:30→東京着7:22
仙台発22:00→東京着7:52
仙台発22:30→東京着8:30
仙台発23:00→東京着9:00

という上り便が運行されていた時期もあったようだ。
上り下りで昼夜行の本数が異なっていたり、微妙に所要時間が違うあたりが興味深いが、およそ10時間前後もかけて国道4号線を行き来するバスが、これほど多数運転されていたことには、驚くばかりである。

だが、利用客が減少したのだろうか、僕が乗車した頃の東北急行バスは会津若松線と松島線が廃止され、山形線も仙台線も減便となって、夜行1往復だけとなっていた。

 

 

 

昭和61年の僕が、一緒に運行されていた仙台行きを選ばなかった理由は覚えていない。
より雪深い街を、訪れてみたかったのかもしれない。
少しでも距離の長いバスに乗ってみたかったという、マニアらしい動機だったのかもしれない。

 


昭和61年に使われていた車両は、旧型の普通の観光バスタイプで、乗り込んでみれば、恐縮してしまうくらいに古びていた。
その数年前に国鉄「ドリーム」号に乗車した時も、年季の入った車両を使っているものだと感心したが、「ドリーム」号の座席は鉄道のグリーン車と同じ柄のシートで、多少はゆったりしていた。
東北急行バスの客室は、普通の観光バスと全く同じ構造や座席配置で、長距離路線としての配慮は全く感じられなかったと言ってもいい。

このようなバスに乗るのは、高校の修学旅行以来ではないか、と思った。

僕があらかじめ指定されていた座席は、前から2列目で、足元には前輪のタイヤハウスが盛り上がり、窮屈この上なかった。
座席の幅も狭い。
僕の隣りに座ったおっさんは、舌打ちして別の座席に移ってしまった。
余裕で空いていたから、好きな席に座れたのである。

 


浜松町の貿易センタービルの中にあるバスターミナルを出発してからも、バスは、東京駅、上野駅、東武浅草駅、北千住駅、新越谷駅、岩槻駅と、丹念に停車していく。

東京、上野、浅草はともかく、越谷や岩槻と東北を行き来する人々がどれほどいるのだろう、と首を捻りたくなる。

それでも、少ない需要でも大切にするのがバス輸送の本髄なのだろう。

岩槻ICからようやく東北道に入るのだが、福島県に入って間もなく、須賀川ICで降りてしまい、深夜の須賀川、郡山駅に停車する。
郡山ICから再び高速に戻るものの、1時間足らずで福島西ICを降りて、福島駅に寄る。
開業当初からの、沿線の街々に小まめに停車していた運行形態を頑なに守っている走りっぷりは、もどかしいほどだった。

夜は長いし、高速道路に乗る必然性もないから利用はお義理程度で、のんびり行きましょうや──

と、語りかけてくるような、昔ながらの風情を色濃く残す夜行バスだったのである。

それでも、浅草駅から先のことを全く覚えていないから、窮屈な座席でもよく眠ったのだろう。
ふと目覚めると、バスが停まっているのに気づいて、席を立った。
暖房のせいか、無性に喉が乾いて、飲み物を手に入れたかったのだ。

そこは、福島駅前だった。
時刻は深夜の3時すぎである。
休憩扱いをしているのかどうか定かではなかったけど、運転席は空で、扉が開いていたから、バスから離れなければ置いてきぼりにされることはないだろう、と思った。
東北新幹線が開通したばかりの、古い駅舎の時代だったはずだけれど、駅の様子は全く記憶に残っていない。
降りた客がいたのかどうかも定かではない。
バスは、公衆トイレの真ん前に停車していたから、用足しもできた。
暗闇の中に、明かりがいっさい落とされた福島駅の看板がかすかに見えたが、煌々と輝いていた自販機の方が印象に強い。
わずか数分の滞在時間だったとは言え、東北急行バスが、僕を、生まれて初めての福島の地に連れてきてくれたのである。

バスは、その後、国道13号線で米沢を経由して山形へ向かう。
明治9年に当時の山形県令であった三島通庸が「交通の整備が県を発展させる」として建設し、明治天皇から「萬世ノ永キニ渡リ人々ニ愛サレル道トナレ」という願いを込めて「萬世大路」と命名されたことを起源とする古き道である。
途中に掘られた栗子山隧道は866mで、明治初頭としては無謀とも思える長さであったという。
昭和36年に大改修され、旧栗子山隧道の南側で栗子峠を越える東栗子トンネル(2376m)と西栗子トンネル(2675m)は、完成当初、国内屈指の長大トンネルだった。
車窓は漆黒の闇に覆い尽くされて、そのような歴史に思いを馳せるものは何も見えなかったけれど、時折り、曇った窓ガラスを明るく染め上げる街灯に照らし出される道端は、そそり立つ白い壁に覆い尽くされていた。
バスの走行音も、路面の雪を噛む、モコモコとくぐもった音に変わった。

早朝6時過ぎ、9時間に及ぶ旅を終えて、バスはまだ真っ暗な山形のバスターミナルに到着した。
まだ眠りから覚めていない山形市内のたたずまいは、深い雪の中に沈んでいる。
僕は、まだ誰も歩いていない歩道の新雪をキュッキュッと鳴らして踏みしめながら、前の夜に乾ききった東京にいたことが信じられない思いで、駅に向かった。

現在も山形行き夜行便は、ほぼ同じ経路で運行されているけれど、平成20年に、福島駅での停車扱いは廃止された。

 


平成2年5月の土曜日の昼下がり、僕は、仙台行きの東北急行バスに乗っていた。

当時の仙台行き夜行便も、山形系統と同じく、一般道で東京、上野、浅草、北千住、新越谷、岩槻の各駅に停車し、岩槻ICから東北道に乗り、須賀川ICで降りて須賀川と郡山駅に停車。
郡山ICから再び高速に戻って、1時間足らずで福島西ICを降りて福島駅。
福島飯坂ICから三たび東北道に乗って、仙台南ICから長町駅を経由して仙台駅前に到着するという、昔ながらの経路を頑なに堅持していた。

だが、平成2年の新緑の季節に僕が乗ったのは、前年に走り始めたばかりの昼行便だった。
みちのくの車窓を楽しめる日中の便が運行を始めたと聞いて、無性に乗りたくなったのだ。

クリーム色に赤い帯のカラーリングと「EXPRESS TOHOKU」のロゴは、昔と変わりがなかったけれど、バスは、見上げるように背の高い新型のスーパーハイデッカーに代替わりしていたから、無性に嬉しくなってしまった。
しかも、僕が指定された席は最前列の右側で、前方の眺望が存分に楽しめた。
運転席との間の仕切りにはくり抜きがあって、中に足を伸ばしながら、ゆったりとくつろぐこともできた。

 


午前11時30分、浜松町バスターミナルを発車する時はガラガラに空いていたバスに、東京駅前八重洲通りの乗り場からは、20人ほどが乗りこんできた。
首都高速の高架に駆け上がってからも、渋滞につっかえながらの、ちょっぴりもどかしい旅の前奏曲となった。
荒川を渡って東京都を出るだけで、30~40分以上かかったのである。

しかし、バスの座席の高い視点から眺めれば、ごちゃごちゃと密集した東京のたたずまいが、別の街のように新鮮に見えるから、全く飽きが来なかった。
首都高速の高架から隅田川に沿った下町の街並みを見下ろし、都心を抜けて東北道に入れば、視界がいっぺんに開ける。
広大な関東平野の田園風景を、ぼんやりと眺めているうちに、左手遠方に霞んでいた奥羽山脈が、だんだんとこちらへ近づいてくる。
やがて、東北道は、那須高原に向けて標高を上げ、白河ICの手前で、福島県に入った。

 

 

 

ハイウェイは、点在する丘陵を縫うように、くねくねと身をよじらせているから、関東平野からここまで、トンネルらしいトンネルがない。
郡山を過ぎ、安達太良SAや二本松ICの先にある福島西ICの手前で、初めて愛宕山トンネルをくぐる。
爽快なハイウェイの走り心地を堪能しながらも、強く心に刻まれたのは、山々や田園の眩しいばかりに鮮やかな新緑と、真っ青に晴れ渡った空だった。

高村光太郎が「智恵子抄」で、

「智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、切つても切れないむかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしはうすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山の山の上に毎日出てゐる青い空が智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である」

と描いたままの、見上げれば吸い込まれそうな、みちのくの空だった。

病身の智恵子は、東京で思い焦がれるしかなかったけれど、僕は、こうして、東北の空の広がりと青さを、実体験できている。
なんと幸せなことだろうと思う。
大学生活も終わりに近づいて、国家試験を目の前に、臨床実習や試験勉強に明け暮れていた時期だった。
来る日も来る日も、スケジュールに追われながら無我夢中で過ごしているうちに、ふと我に返れば、これが本当に自分の生きるべき道なのか、と思う瞬間もあった。
しばらく、好きな旅に出る暇もなかった。
いや、挫けそうになる自分にハッパをかけるために自重していた、と言った方が正しいのかもしれない。

そんな折りに、本能に誘われるように出かけてきた、久々のバス旅だった。
緩やかに流れ過ぎていく、優しげな車窓風景に目をやりながら、深々としたシートに身をゆだねて、僕は、得も言われぬ安堵感に包まれていた。

これだ……これが、僕の本当の居場所だ──。

大袈裟でなく、そう思った。
別に、流浪の民や火宅の人になろうと思ったわけではない。
たとえ自分を見失いかけていても、旅に出れば、必ず取り戻すことができる、と確信できたのである。

 


仙台で1泊した僕は、仙山線で山形に抜けた。
途中、山寺駅で下車して、「閑かさや 巖にしみ入る 蝉の声」の芭蕉の句で有名な立石寺に参拝した。
体力があったなあ、と今でも思うのだが、急峻な山壁に点在する寺域の山頂までのきつい石段を、息を切らせながらもきちんと往復したのである。

山形からは、仙台系統と同時期に運行を開始した東北急行バス東京行き昼行便に乗車した。
こちらも、4年前と一新して、新型のスーパーハイデッカーに代替わりしていた。
運のいいことに、帰りも最前列の右側席で、前方の眺望が存分に楽しめた。
ただし、バスがたどったのは、懐かしい国道13号線ではなく、全線開通したばかりの山形自動車道で、村田JCTから東北道に合流する、大回りだがスピーディな道行きとなった。

 

 

東北のまばゆい新緑と、抜けるような青空を、帰路も存分に味わって、黄昏の東京に30時間ぶりに戻ってきた。
ゴミゴミした街並みの中を行く首都高速道路は、徐々に混雑の度合いを増していく。
首都高速6号向島線が、7号小松川線、そして9号深川線と合流して、車の流れが滞り、乱れがちになっていく手前で、1台のスポーツカーが右側から強引な追い越しをかけてバスの前に回り込んできたので、運転手さんが慌てて急ブレーキを踏んだ。
最前列にいる僕も、ヒヤリとした瞬間だった。
スポーツカーは更に流れの早い左車線に割り込んでいったが、その先で道路が合流に備えて1車線に狭まる手前でつっかえていた。
バスは、流れ始めた右車線を維持したままスポーツカーと並び、僅かなスキをついて、その前にすっと入り込んでしまったから、僕は心の中で運転手さんに喝采を送ったものだった。
バックミラーに映る運転手さんの顔は無表情だった。

山形からの快適だった高速クルージングを思い出す時に、必ず心に浮かぶ爽快なシーンである。

 


僕が利用した頃には名無しの権兵衛だった東北急行バス仙台・山形線にも、平成16年には仙台便が「スィート」号、山形便が「レインボー」号と愛称がつけられ、横3列シートの豪華車両もお目見えした。
一方で、平成21年2月には、夜行便の草加・岩槻・白石・大河原・岩沼での乗降が、翌22年2月には上野・浅草・北千住・新越谷での客扱いが廃止されてしまった。
点から点へ、ひたすら先を急ぐ昨今の風潮には見合わない路線のあり方だった、ということなのだろう。
何となく、一抹の寂しさを感じるのも確かである。

 

 


今や、東京と仙台・山形を結ぶ高速バス路線は、複数の事業者が入り乱れて百花繚乱である。
東北急行バスも、一時期、新宿と仙台を結ぶ「政宗」号に参入していた時期があった。

今では、東京駅と仙台の間を昼行便「ニュースター」号が2往復(週末3往復)、夜行直行便「ニュースター」号1往復・福島駅停車便「スィート」号1往復、東京駅と山形を結ぶ「レインボー」号が夜行1往復、そして東京駅から山形経由で新庄へ向かう夜行「TOKYO SUNRISE」号も登場して、様変わりしながらも原点に近い運行に戻っている。
半世紀以上を、大きな事故もなく走り続けた老舗の安心感を買って、今でも根強いファンが少なくないと聞く。

 

 

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