東京発みちのく行き高速バス慕情 第5章~平成元年・田沢湖行レイク&ポート号と能代行ジュピター号~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

平成元年の8月上旬のこと、大学の部活から解放された僕は、さあ、思う存分に羽根を伸ばすぞ、と気持ちを切り替え、21時30分に横浜駅を発車する夜行高速バス「レイク&ポート」号に乗りこんだ。


その愛称の通り、港町横浜を発った後は、22時25分発の浜松町バスターミナルを経由して、翌朝、秋田県の横手、大曲、角館に停車した上で田沢湖駅を終点としている。
今でこそ、横浜と東京の2大都市を経由する高速バスは数多く存在するけれども、そのはしりは、平成元年に登場した品川発横浜経由伊賀上野・名張行きの夜行高速バス「いが」号で、「レイク&ポート」号は、その2番手であった。
平成2年には、品川と弘前を結ぶ夜行高速バス「ノクターン」号が、横浜駅を起終点にして浜松町に停車する系統の運行を始めているが、「いが」号も「ノクターン」号も、東京と神奈川に鉄道とバスの路線網を持つ京浜急行が運行しており、首都圏側を相模鉄道が運行を担当する「レイク&ポート」号は、神奈川県の事業者が都内でも乗降扱いをする、当時としては珍しい例であった。


「いが」号と「ノクターン」号は横浜駅東口バスターミナルを利用しているが、「レイク&ポート」号は西口の一般路線バス乗り場から発車する。
駅から離れるほどにコンコースの人の姿が減り、閑静な雰囲気になる東口のYCATに比べれば、西口は多くの人々が行き交い、路線バスがひっきりなしに出入りして、ごった返している。

発車時刻の5分前に姿を現したのは、相模鉄道と共同運行をしている羽後交通のバスであった。
乗り場では、バスを待つ人々の何人かが、ほう、といった表情で足を止め、横着けされた「レイク&ポート」号に眼を向ける。
それもそのはずで、羽後交通がこの路線に投入したのは「ボルボ・アステローペ」と呼ばれるスーパーハイデッカー車両で、国産のバスに比べて無骨な欧州風の相貌と相まって、ひときわ目立つのだ。
スウェーデンのボルボ社が、通常は後部に設置することが多いエンジンをホイールベースの間に置くセンターアンダーフロア構造のシャシーを製造し、車体の後部に余裕が生まれたため、富士重工が後部を2階建てにしたボディを架装したバスが、「ボルボ・アステローペ」である。
後部の2階建て構造の1階は喫煙室を兼ねたサロンになっていて、バスとは思えない空間の余裕が感じられる。
後にJRバス関東や西日本JRバスも高速バスとして用いることになるのだが、初期には渋谷-酒田線、赤羽・大宮-酒田線、浜松町-新庄線、横浜・浜松町-田沢湖線、東京-羽後本荘線、そして仙台-酒田線といった東北の長距離路線だけが「ボルボ・アステローペ」を採用しており、東北のバス会社は豪勢だなあ、と感心したものだった。



どの路線も、共同運行する他社は国産のバスを使用しているので、「ボルボ・アステローペ」に当たる確率は2分の1と言う計算になる。
実際に乗車するまでは、どちらのバスが来るのだろう、出来ることならば「ボルボ・アステローペ」に巡り会いたいものだ、と、籤を引く時の祈るような心持ちで過ごしていたから、ついている、と思う。


「レイク&ポート」号が開業したのは平成元年のことであるが、「ボルボ・アステローペ」を最初に高速バスに投入したのは、前年に開業した渋谷と鶴岡・酒田を結ぶ「日本海ハイウェイ夕陽」号を運行する庄内交通である(「日本海ハイウェイ夕陽号で行く庄内の旅~ボルボアステローペで関越道を走った夢のような一夜~」)。
「日本海ハイウェイ夕陽」号も、渋谷を発って練馬ICから関越自動車道に入るまでの一般道の区間を冗長に感じたものだったが、「レイク&ポート」号も、横浜駅を出発して首都高速道路横羽線で浜松町バスターミナルに行き、再度首都高速に戻って東北自動車道に向かう旅の前奏曲は、何とも間怠っこしい。


横浜では3分の1程度の乗車率だったが、浜松町で瞬く間に席が埋まる。
夏休みで故郷へ帰省するのであろうか、学生らしい無口な若者から、錆びた声を辺り構わず響かせるおじさんたちまで客層は様々だった。
発車してしばらくの間は話し声がやむことはなく、それまで取り澄ましたような空気が漂っていた車内が、いっぺんに別のバスのような賑やかさを呈した。
今夜は知り合い同士で乗っている人が多いのかとも思ったのだが、

「わしは横手の出だが、何処まで行ぐかね?」
「おう、オレは大曲だども、横手の農協の○○さんどごにはよぐ行ぐべ。そっちは今年の作付けはどうよ」
「作付けよりも、おめえ、今度の消費税って奴がどうなるか、さっぱり売り上げが読めねえだ」
「そりゃ幾らなんぼでも、税金がかかったって、食いモンを買い控えはしめえさ。輸入品だって掛かる税だでや」

などと言う会話を耳にすれば、どうやら行きずりの1人旅の客の間でも構わずに話が弾んでいる様子である。
故郷の会社のバスに乗れば、もう、帰り着いたような気分になるのであろうか、地元での立ち話を聞いているかのようであった。

欧州製のバスはサスペンションが固めで、路面の継ぎ目の間隔が短い首都高速では、ぽんぽんと跳ねる暴れ馬に乗っているかのような乗り心地である。
それだけに、川口JCTから東北道に入りさえすれば、走りがびしっと安定し、速度がぐいぐいと上がっても揺らぎすら感じられなくなる。


東北道に入り、消灯後に乗客が寝静まった頃合いを見計らって、僕は、後部の狭い階段を降り、サロンでしばらくくつろぐことにした。
いくら背の高いスーパーハイデッカーと言えども、限られたバスの車高を上下に2分割したのであるから、サロンの床は低く、シートに座れば、追い抜いていく乗用車と似たような高さである。
黒光りするアスファルトの路面が、窓のすぐ下を凄まじい勢いで流れていくのが見え、吸い込まれそうな錯覚に陥る。
慌てて視線を上に転じれば、横浜や東京では気づかなかった星々が、夜空一面に瞬いていた。

僕は、星座を実際の天空に当てはめることが苦手という無粋な人間であるけれども、七夕の伝説で知られる彦星がわし座のアルタイル、織姫がこと座のベガであり、はくちょう座のデネブが天の川を跨ぐ夏の大三角形を成していることや、赤く輝くアンタレスがサソリ座といった程度の知識はある。
アンタレスが輝いているはずの南天の空は、首都圏の明かりで淡く白んでいて、天の川や夏の大三角形も、何かと照明が多い高速道路を走るバスの窓から識別することはなかなか至難の業であるが、時に、深みのある暗がりがハイウェイを包み込み、ハッとするほど星々が鮮やかに見える瞬間がある。
時々星空を遮るように、雑木林や丘陵の真っ黒なシルエットが、暗い車窓を横切っていく。
いつしか首都圏を出て、関東平野の田園地帯に差し掛かっていた。

ハイウェイをひた走るバスの窓から満天の星空を広く見渡す時、地上の全てを塗り潰している闇を通じて、地球の丸さが感じ取れるような、壮大な心境になる瞬間がある。
高速バスは星を目印に航海をしている訳ではないけれども、大昔の船乗りも、僕と同じように、旅の途上にあることへの充足感や前途への期待感、そして幾許かの怖れで胸をいっぱいにして、夜空を見上げていたのかもしれないと思う。


アステローペは、ギリシャ神話に登場する天空を治める神アトラスの娘、プレアデス7姉妹の1人の名前から名付けられている。
プレアデス星団が地中海で見られる時期が、5月の中旬から11月の初めにかけての航海の支障が少ない季節であることから、プレアデスという言葉の起源は出航を意味すると言われ、高速バスに用いられる車種の名として誠に相応しい。

ギリシャ神話において、プレアデス姉妹が最も印象深く語られているのは、ギリシャ随一の狩人であるオリオンに追いかけ回される場面であろうか。
この時のオリオンは、7姉妹の全員に恋しながら、曙の女神エオスとも付き合っているというドン・ファンぶりで、オリオンに会いたいがために、エオスは早々に仕事を引き上げてしまう始末であった。
夜明けの時間が短くなったことを不審に思った、狩りの女神アルテミスが、東の果てに建つエオスの宮殿まで様子を窺いに来たことで、オリオンとアルテミスは運命的な出会いをする。
2人が恋に落ちるまでに時間はかからなかったのだが、アルテミスの兄アポロンはオリオンの粗暴な性格を嫌い、またアルテミスが純潔を司る処女神であることを理由に、2人の仲を認めようとはしなかった。
兄の諫言を受け入れない妹に業を煮やしたアポロンは、オリオンに毒サソリを放ち、海へ逃れて頭だけを波の上に出しているオリオンを指差して、

「アルテミスよ、弓の達人である君でも、遠くに光るあれを射ち当てることは出来まい」

と挑発する。
あまりに距離が離れていたために、それがオリオンとは思いもしなかったアルテミスは、

「私は確実に狙いを定める弓矢の名人。容易い事です」

と弓を引き、放たれた矢はオリオンに命中する。
オリオンは、恋人の手にかかって命を落としたのである。
オリオンが浜に打ち上げられて、初めて真相に気がついたアルテミスは、大いに悲しみ、最高神ゼウスに懇願する。

「オリオンを空に上げてください。そうすれば私が銀の車で夜空を走る時にオリオンに会えるのですから」

ゼウスもその願いを聞き入れ、オリオンは星座となって天空に昇り、月に1度会いに来るアルテミスを楽しみに待っているとされる。


また、オリオンは星座になった後もサソリを恐れ続け、サソリ座が西へ沈むまでは決して東から顔を出さず、サソリ座が東の空に現われると、西に姿を消すのである。
一方、オリオンに追いかけ回されたプレアデス7姉妹も、その死後にゼウスの手で星座となり、オリオン座は未だにプレアデス星団を追いかけて夜空を回っているとも伝えられているから、何とも大らかである。
まだ追いかけ回すつもりなのか、サソリから逃げたり恋人と会ったり、星になっても忙しい男だと苦笑してしまうのだが、古代ギリシアの詩人ヘシオドスは、その叙事詩の中で次のように語っている。

そしてもし嵐の海を渡ろうという望みが汝を捕らえたとしても
プレアデスが強大なオリオンを避け
深い霧の奥に潜り
激しい風が荒れ狂うなら
汝の船を暗紅色の海に出してはならぬ
しかし我が言のとおり忘れずに地を耕すのだ

プレアデス星団がオリオン座を避けて西にある時期、つまり春の夕刻は、1年を通じて畑を耕すのに最も適した頃合いであるとされている。


エジプト文明からメソポタミア文明期にかけて、星々を結んで星座を描く風習を始めたのは羊飼いたちであるという伝承を聞いたことがある。
ならば、暇つぶしに夜空を見上げていた彼らの想像力とは実に驚嘆すべきもので、僕ら現代人とは比べものにならないロマンチストだったのだな、と思う。

「レイク&ポート」号は、途中、東北道の上河内SA、国見SA、前沢SAで運転手交替のために停車するが、乗客が降りることが出来る開放休憩は設けられていない。
遠く離れた見知らぬ土地でバスを降り、夜空を見上げることは夜行高速バス旅の醍醐味であるけれど、降りられないと言われればやむを得ない。
夜半にしばしば眼を覚ました僕は、その都度、後部サロンへ出掛けては星空を見上げたものだった。
みちのくの奥深く進むにつれて、漆黒の空はいよいよ深く澄み渡り、星々の輝きも増していった。


「レイク&ポート」号は岩手県の北上江釣子ICで東北道を降り、国道107号線で奥羽山脈を横断して、早朝6時15分に横手バスターミナルに到着する。
横手からは国道13号線を北上して、7時ちょうどに大曲バスターミナル、国道105号線に乗り換えて7時35分に角館営業所と、秋田県東部の内陸の街を結び、国道46号線で終点の田沢湖駅前に滑り込んだのは8時10分のことであった。

高速道路を降りて一般道を揺られたり、途中停留所で乗客が降りていった記憶が殆ど残っていないので、早暁からはぐっすりと寝入ったのだろう。
夏の東北の朝は早く、停留所に着くたびに開け放たれる前方の仕切りカーテンから、眩しい陽射しが暗い車内に差し込んで来たことだけは、かすかに覚えている。

11時間の長旅を終えてバスを降り、大きく身体を伸ばしながら見回せば、田沢湖駅前はあっけらかんとして、長距離夜行バスの起終点であることが似つかわしくないほどに鄙びた山間の田舎駅だった。
田沢湖駅まで乗り通した乗客は2~3人に過ぎず、角館あたりを終点にしても良かったのではないか、などとつれないことを思ったのだが、真夏の東北の山中で迎えた朝は実に清々しく、「レイク&ポート」号にここまで連れて来て貰って良かったと考え直した。


路線バスに乗り換えて足を伸ばした田沢湖は、濃い緑の木々が敷きつめられた山々を翡翠色の湖面に映し、静かに水を湛えている。
この神秘的な湖がどのように形成されたのか、その原因は未だに明らかではなく、隕石によるクレーター説まで唱えられたことがあったと聞く。
実際には、140万年前から180万年前の噴火によるカルデラであるとの説が有力らしいのだが、直径6km、水深423.4mにも及ぶ我が国第1位の深さを誇る湖の容積に匹敵する噴出物が、いったいどこへ排出されたのかは解明されておらず、山中にぽっかりと口を開けたその形状は、巨人が石でも叩きつけた凹みのように見えないこともない。

湖畔には、金色に輝く辰子像がひっそりと建てられている。
辰子は類いまれな美貌の娘であったが、歳とともに衰えていく若さと美しさをいつまでも保ちたいと願うようになり、院内岳の大蔵観音に百夜の願掛けに通いつめて、山奥の泉の場所を教えられる。
お告げの通りに泉の水を口にした辰子は、飲むほどに激しい渇きを覚え、いつしか、その姿は龍に変じていた。
自分の身に起きた報いを悟った辰子は、田沢湖に身を沈め、そこの主として暮らすようになったのだと言う。


田沢湖駅に戻った僕は、盛岡発秋田行きの特急列車「たざわ」に乗って西へ向かった。
夏休みを迎えようとしている時期であるためか、列車は大層混雑していて、僕は途中の大曲までデッキで過ごす羽目になった。
まだ秋田新幹線が開通していなかった時代であるが、田沢湖から秋田までは1時間10分程度で着いてしまう。
田沢湖線は、初めて秋田を訪れた際に弟と揺られた懐かしい道筋であるけれど、どうして目先を変えて、秋田と田沢湖を結ぶ路線バスを選ばなかったのだろう。
当時の時刻表を見れば、田沢湖駅前を8時35分発から14時40分発まで、4本の路線バスが、角館と境を経由して所要2時間5分で秋田駅まで運転されている。
適当な時刻のバスがなかったのかもしれないけれど、この日、時間はたっぷりとあったのだ。


秋田駅からはJR奥羽本線の下り列車に乗り換えた。
秋田から、五能線を分岐する東能代までは1時間足らずで着いてしまう。
特急に乗車したのか、それとものんびりと鈍行に揺られたのか、記憶は曖昧であるけれど、各駅停車ならば1時間半から2時間程度である。
こちらにも秋田と能代を結ぶ一般道経由の急行バスが走っていたはずで、平成5年に廃止され、平成14年に秋田自動車道経由の高速バスとして復活することになるのだが、一方で秋田-田沢湖線は平成8年に途中の境止まりとなって直通便は廃止されてしまったから、もう乗ることは出来ない。
未乗のバス路線を差し置いて月並みな鉄道を選ぶとは、この日の僕はどうかしていたのだと思う。


米代川と雄物川から流れてきた土砂の堆積により、それまでは離島であった寒風山まで砂洲が伸びて、陸繋島の男鹿半島が形成され、双方の砂州の間に残った海跡湖が八郎潟である。日本海に沿って奥羽本線を北へ進めば、左手に八郎潟干拓地が見えてくる。
かつては琵琶湖に次ぐ我が国で2番目の面積を誇っていた湖だったが、果てしなく広大な水田が広がる現在、その面影はない。
江戸時代から小規模な干拓が行われてはいたものの、昭和32年に、干拓事業の先進国であるオランダの技術協力を受けて、食糧増産を目的とした大規模な干拓工事が始まり、20年の歳月と850億円もの費用を投じて、約1万7000haの干拓地が昭和52年に竣工したのである。

田沢湖の辰子伝説には続きがあり、辰子と同様に、人間から姿を変えられた八郎という龍が、八郎潟に住んでいた。
八郎は辰子に惹かれ、辰子もその想いを受け容れて、2人は田沢湖で暮らすようになったため、主のいなくなった八郎潟は年を追うごとに浅くなり、主の増えた田沢湖はますます深くなったそうである。


一説によると、辰子も八郎も、岩魚を食べ、水を鯨飲するうちに龍に変じてしまったとも伝えられている。

岩魚で思い出すのは、児童文学作家である松谷みよ子氏の作品「龍の子太郎」である。
僕の故郷である信州に伝わる民話を中心に、秋田の民話など日本各地に伝わる民話を組み合わせた童話で、子供の頃に夢中になって、繰り返し読み込んだ覚えがある。

呑気で暴れん坊の太郎は祖母と2人暮らしで、両脇に3つずつの鱗の形をしたあざがあり、いつも、村の子供たちから「龍の子 龍の子 魔物の子」と囃したてられていた。
祖母が急斜面の小さな畑で転び、腰を痛めた際に、

「いつなんどき、ぽっくり逝ってしまうか分からないから」

と、太郎の母親について語り始める。
祖母の娘である太郎の母親たつは、太郎を身籠もりながら夫を亡くし、身重で当番の山の仕事に出掛けた際に姿を消してしまう。
探しに行った祖母は、大きな沼で龍の姿になったたつと出会い、何としてもお腹の子を産むので育ててほしいと言われ、ある日、木の枝で編んだ巣のような入れ物が川を流れてきて、中に太郎の姿を見つける。
太郎は手に持っていた水晶のような玉、実は龍と化したたつの目をしゃぶりながら成長するが、盲目の龍となったたつは、太郎が3歳の頃に、遠い北の湖へ行くと言い残して去る。
太郎は、近くの池に棲む白蛇に、龍の居所を知る老女の居所を教わり、9つの山を越えて母親を探す旅に出て、道中、多くの人々と出会い、様々なことを学んで成長していく。
目的の湖に辿りついた太郎は、たつと出会い、悪阻で何も口に出来なった時期に山で飯炊き番を任されて、捕まえた3匹の岩魚を全て食べてしまったことで、龍にされたのだと聞かされる。


「おかあさんはたまらなくおなかがすいてきた。さっきも言ったように、その頃のおかあさんは、なにひとつのどへとおらず、水を飲んでも吐き出すようなありさまだった。それが、どうだろう。そのいわなの香ばしい匂いを嗅ぐと、気も狂うほどおなかがすき、食べたくなってきたのだよ。
1匹ぐらいならいいだろう、みんなが食べるとき、わたしが食べんでいればいい、おかあさんはとうとう、いわなを口へいれた。そのうまいこと……、はらわたへ浸み通るとは、あのようなことを言うのだろうか。生まれてから、本当に初めてと言っていいそのうまさ、見る間に1匹、きれいに食べてしまった。ところが、こうして1匹食べると、もう、どうにも我慢ができない。2匹食べ、3匹食べ気がついたときには、いわなは1匹も残っていなかった……。するとどうだろう。のどの奥で火が燃えているように、口の中がかっかっと火照って、のどが乾いてきた。おかあさんは手桶の水をごくごく飲んだ。飲んでも飲んでも、のどは焼けつくように乾いてくる。おかあさんはたまらなくなって、谷川へ駆け下りると、水へ口をつけ、ごくごくごくごく、飲みに飲み続けた。すると、急に体中の血が、どっと逆に流れたかと思うと、くらくらとして……おかあさんはそれっきり、気を失ってしまったのだよ。
気がついたとき、おかあさんの姿は恐ろしい龍にかわり、いつの間にできたか、それも知らない、深い沼に住んでいた……。そのとき、おかあさんは思い出したのだ。3匹のいわなを食べた者は龍になる、という言い伝えを……」

母親が岩魚を夢中で食べる描写は、最も子供心に残った一節で、龍になってしまうと言う結末の恐ろしさもさることながら、岩魚とはそんなに美味しいものなのか、と大いに食欲をそそられた記憶があるから、僕も余程の食いしん坊である。
川の水まで飲み干してしまうような喉の渇きという感覚も、我が事のように実感として心に刻み込まれたのは、塩漬けの魚が食卓に並ぶことが多い信州の出身だったからであろうか。

太郎は長い旅を続けるうちに、祖母や村の人々が広く平らな土地で幸せに暮らせるようになって欲しい、そのために山を崩して湖の水を全て海へ流し、平らな土地を作りたい、と願うようになっていた。

「おらの国は、まんず、山、山、山ばかり。みんな、立っているのがやっとのところに畑を作って生きている。おら、昔はそれが人間の暮らしだと思っていた。 でも、今は違う、そればかりが人間の暮らしじゃない。土地さえあればうまい米もつくれるし、もっともっと、楽しい暮らしも出来るんだってことが……おら、旅をしているうちに分かってきた。おら、思った。おら、今まで、食っちゃね、食っちゃねするばかりだったども、やっと今、自分がなんのために生きているのか分かった、ってな。おかあさん、お願いだ。この湖をおらにくろ。おら、山を切り開いて水を流し、ここに、見渡すかぎりの田圃を作って、山の人たちを呼び集めたい。そして、みんなが、腹いっぱい食える暮らしを作りたい。せば、もうおかあさんのように悲しい思いをする人はいなくなるんだ」

たつにとっては、生きて行くために必要な湖がなくなってしまうことになるのだが、

『たとえわたしはそのためにどうなっても……。わたしはそれでいい、この子の願いに力を貸してやろう。自分の事しか考えることができなくて龍となったわたしの、それは、たった1つのつぐないなのだ』

と決意する。

「龍の子太郎、おまえの気持ちはよくわかったよ。おかあさんは今日はじめて、龍となったことを嬉しいと思った。なぜなら、おかあさんのからだは、どんな鉄よりも堅いのだよ」
「じゃあ、おかあさんが、自分のからだを山へぶつけて、山を切り崩してくれるんか……。おら、そこまで考えなかった。おら、たったひとりででも、山を切り開こうと思っていた。やるとも、おかあさん、やるとも!」

という母子のやりとりから、手強い山に挑む中で、たつの身体から血が流れ、吐く息が炎となって山肌を焼く場面までは、今でも涙なくしては読むことが出来ない。
何という凄絶な、そして純粋な母親の愛情であろうか。

たつの言葉遣いは、母の口調とよく似ているように思えてならず、幼かった僕は、いつしかたつの言葉を母の声に置き換えて「龍の子太郎」を読み進めていたことを、今でもよく覚えている。


昼夜を跨ぐ太郎と母親の挑戦にも関わらず、山はびくともしなかったのであるが、そこへ、以前に太郎が助けた鬼が雷を集めて馳せ参じ、共に山を砕く場面には、思わず喝采を叫びたくなった。
ついに山が裂け、水が流れ出て、湖の底から平坦で肥沃な土地が現れたのである。
太郎が傷ついたたつの傷口をさすり、その涙が龍の目にかかった時、

『龍の姿は、みるみる優しい女の人の姿に変わり、閉じられた目は開いて、そこに龍の子太郎のおかあさんが現れたのです。

「ありがとうよ、龍の子太郎」

おかあさんは、龍の子太郎の手を握りしめて泣きました。

「おまえがわたしを人間にしてくれたのだよ。もしおまえが来てくれなかったら、わたしは、日もささない、暗い水底で、自分を責め、あるときは恨みの声をあげながら、一生うごめいていただろう。
わたしは、いつもおまえを待っていた。おまえが強く、賢い子になって、わたしを救ってくれるだろう、と夢見ていた。だけど、おまえは、わたしが考えていたより、もっと強く、賢くなってきてくれたのだ。おまえの勇気が、わたしを引き上げ、人間に戻してくれたのだよ……」』

テレビの人気番組だった「まんが日本昔ばなし」のオープニングに描かれていた龍に乗った子供のシーンは、「龍の子太郎」がモチーフであると思うのだが、「龍の子太郎」そのものを放送した回はないようである。
代わりに、昭和54年にアニメとして映画化され、「キューポラのある街」でメガホンをとった浦山桐郎が監督し、たつを演じる声優に吉永小百合が起用されている。


松谷みよ子氏は、自身の子育ての経験を踏まえた「ちいさいモモちゃん」をはじめとする絵本や小説など、多くの児童文学を執筆する傍ら、民話研究室を主宰し、全国の民話や民間伝承を採集する活動にも長年取り組んでいた。
松谷氏が民話採訪の旅に出た折りに、長野県で「信濃の民話」をまとめ、更に秋田、和歌山を巡りながら「民話とはこれほどまでに土地に生まれて生きた人々の喜びや悲しみがこめられているものだったのか」との思いを抱いたと記している。

数々の伝承の中で松谷氏の心を最も惹きつけたのは、信州に伝わる小泉小太郎の伝説だったという。
昔、信州に満々と水を湛えた湖があり、小泉小太郎は、この湖の水を落として田畑を拓こうと、母龍の背中に乗って山を崩し、この時に現れたのが安曇野で、流れ出た川が犀川であるとされている。

3匹の岩魚を食べれば罰として人の姿を失う、という伝承は、秋田に伝わる八郎太郎伝説が基となっているらしく、子供心にも強く印象に残ったのであるが、松谷みよ子氏は、食べ物は平等に分け合わねばならないと戒めた貧しい山村の掟を表したものと解釈している。


列車の車窓から雄大な干拓地と化した八郎潟の夕景を眺めながら、秋田や信州だけに限らず、山ばかりの我が国で、貧しさに屈することなく、血の滲む思いで農地を切り開き、営々と米作りに携わってきた先人たちに、改めて思いを馳せた。
太郎とたつが身を挺して行ったことを、現代の日本人は、八郎潟において知恵と技術力で成し遂げたのである。
暗くじめじめとしている感は否めないけれど、僕らの国の民話に登場する人々は、色恋沙汰や闘争ばかりに明け暮れているギリシャ神話の神々に比べて、何と人間臭く、生活感に溢れていることだろうか。

はるばる秋田まで来て、幼い頃に読んだ童話や故郷について考えることになろうとは思いも寄らなかったけれど、東能代駅で五能線に乗り換えて能代駅に降りた時には、長かった夏の日も、とっぷりと暮れていた。


能代からは、鷹巣、大館、花輪を経て池袋まで行く夜行高速バス「ジュピター」号を利用して帰る予定であった。
「ジュピター」号と言えば、「レイク&ポート」号と同じく平成元年の運行初日のセレモニーに多くの住民が集まり、秋北バスの社長が、

「日頃お世話になっている地域の皆様への恩返しとして路線開設を決定しました」

と挨拶したことが、様々な書籍で紹介され、バスファンの間の語り草になっている。


「ジュピター」号の発車時刻は20時30分であった。
「レイク&ポート」号で午前8時過ぎに田沢湖駅に降り立ち、「ジュピター」号で能代を後にするまでの12時間あまりをどこでどのように彷徨っていたのか、田沢湖や八郎潟における断片的な記憶を除けば、全く覚えていない。

能代駅から、少しばかり離れた場所にある能代バスステーションへ向かって、真っ暗な街並みをとぼとぼと歩いた。
灯が全くなく、人影もまばらな暗い夜道は、鉄道駅とバスターミナルの間を移動しているはずであるのに、とても街の中心部とは思えなかった。
地図アプリを備えたスマホなどがなかった時代に、よく迷わずたどり着いたものだと思う。
途中、1軒の酒屋だけがぽつりと店を開けていて、木戸の外に漏れ出す煌々とした照明を目にして、訳もなくホッとした記憶がある。


古びた佇まいの能代バスステーションを定刻に出発した「ジュピター」号は、21時10分発の二ツ井操車場、21時30分発の鷹巣営業所、22時発の大館バスターミナルと、奥羽本線に沿う国道7号線で日本海岸を離れて東の山中へと足を踏み入れ、国道103号線に右折して花輪線の鹿角花輪駅前に22時45分に寄ってから、鹿角八幡平ICで東北道に乗る。

深夜の奥羽山脈を行く車窓は漆黒の闇に塗り潰されているが、米代川に沿う国道の曲がりくねった道路をものともせず、軽やかに飛ばしていくバスの走りっぷりは、その愛称に違わず、ホルストの交響曲「惑星」の第4楽章「木星」を思い起こさせる。
太陽系の諸惑星を描写した曲と誤解されがちな「惑星」であるが、発表当初の原題は「大オーケストラのための7つの曲」で、占星学に興味のあったホルストは、人間の運命を司る星辰の「気」を管弦楽で表現しようと考えたと言われている。
「木星」は「快楽の神」との副題が付けられ、ローマ神話における神々の長「Jupiter」に捧げられた6本のホルンが奏でるアレグロの晴れやかな3つの主題で始まり、中間部はアンダンテにテンポを落として、親しみやすい民謡風の第4主題が荘厳に奏でられる。
祭典の華やかな気分が満ちあふれる曲風に、初演のリハーサルでは、「木星」の演奏が始まると廊下にいた掃除婦たちがモップやバケツを持ったまま踊り出したというエピソードも伝えられている。


この第4主題に吉元由美が歌詞をつけ、平原綾香が歌ったことで我が国でもよく知られ、ホルストが住む英国でも「祖国よ、私は誓う」と名付けられた合唱曲になって第2の国歌として親しまれているという。
我が国の歌手が自曲にクラッシックのメロディーを盛り込んだ例としては、さだまさしの「男は大きな川になれ」における交響詩「モルダウ」や、九州新幹線のテーマソングになった池田綾子の「僕たちのTomorrow」に組み込まれた「アベ・マリア」などが思い浮かぶが、「木星」に歌詞を当てはめるという発想に、平成15年の発表当時はとても驚いたものだった。


この旅の時代に平原綾香の「ジュピター」は発表されていないけれども、「惑星」の第4主題の旋律が最も印象的に使われている別の例として、僕は、富田勲氏のシンセサイザーによる演奏を筆頭に挙げたい。
昭和51年に発表された富田氏の「惑星」には、独自のストーリーが組み込まれている。

「ある惑星から地球を目指してロケットが飛び出す。その長い宇宙の旅路で火星、金星とめぐり、やっと地球へと近づいて着陸態勢に入ったのだが、宇宙船は難破し、着いたのは全く次元の異なる世界、土星だった。その後も幾つかの星を回るが、彼らは永遠に地球にたどり着くことはなかった」

富田氏による「木星」の第4主題は、宇宙船の乗組員たちの地球に対する切ない思いを表す旋律として使われ、地球に着陸する際の歓喜だけでなく、旅立ちの時やラストでも、母なる星への賛美と憧憬を繰り返し歌い上げていた。

太陽系の遙か彼方の星のことを歌いながら、確かに「木星」の曲調には故郷や祖国を連想する厳粛さが感じられ、「ジュピター」号が行くみちのくの山河にもよく似合っている。


山間部をあまりに走らせ過ぎたためであるのか、大館を過ぎたあたりで、前方の席に座っていたお婆さんが、気分がすぐれない旨を交替運転手さんに訴えた。

「うーん、ひどいのなら降りて貰うしかないんだけどなあ」

と答える運転手さんの声が聞こえ、灯1つ見られない窓外に目をやりながら、そんな殺生な、と思う。
「ジュピター」号が走る秋田県北東部の区間は、峻険な地形を縫うカーブが多い道のりであるから、酔う人が出てもおかしくはない。
このように寂しげな山中に放り出されたら、それこそたまったものではなく、お婆さんも情けなさそうに黙り込んでしまったが、その後は心なしかバスの走りが穏やかになったようである。



ふと、僕の母も車には弱かったな、と思い出した。

長野と飯田を結ぶ「みすずハイウェイバス」が昭和63年に開業した当時は、長野自動車道がまだ部分開通の時代で、長野市から松本の手前の明科ICまで、犀川に沿って曲がりくねった国道19号線を使って筑摩山地を越えなければならなかった。
飯田の親戚の家に出掛ける所用があり、帰路に「みすずハイウェイバス」を利用した母のことが気掛かりで、終点の長野県庁停留所に迎えに行くと、案の定、降りてきた母は蒼白な顔をして足元がふらふらと覚束ない様子だった。

「迎えに来てくれたんだ。ありがとう」

と弱々しく言う母の後ろで、運転手さんが、

「いやあ、19号に降りてから飛ばし過ぎたかなあ」

と頭を掻いていた。

「ジュピター」号のお婆さんは、東北道に入ってバスの走りが安定してからは症状も軽くなったのか、翌朝、池袋駅西口に到着した時には元気な足取りに見受けられた。
ひとまず安堵しながらも、僕は、信州で1人暮らしをしている母の元へ、この日のうちに帰省しよう、と心に決めていた。


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