日本海ハイウェイ夕陽号で行く庄内の旅~ボルボアステローペで関越道を走った夢のような一夜~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

「日本海ハイウェイ夕陽」号は、定刻22時20分、 昭和44年に廃止された玉電渋谷駅の面影を留める東急渋谷バスターミナルを発車した。



古びたホームに立つ人々、背後の壁に掲げられた広告やこぢんまりしたガラス張りの待合室が、ゆっくりと窓外を流れ始める。
ターミナル専用の出入路をゆるゆると下り、道玄坂上の交差点に出れば、街を彩る鮮やかなネオンが、まばゆく窓外を埋め尽くす。
歩道を多くの酔客が行き交い、渋谷の夜はまだまだこれからと言わんばかりの華やかさに溢れているが、外の喧噪は完全に遮断されている。

夜行バスの乗降口のステップを踏み締めた瞬間に、世間と隔絶されてしまった自分のことが強く意識されて、心細くなる。

現世(うつしよ)は夢 夜の夢こそまこと

不意に、江戸川乱歩の言葉が頭に浮かんだ。
日常に別れを告げ、北国への一人旅に出かけようとしているこの瞬間は、果たして夢なのかうつつなのか。
酩酊に似た感覚に、頭が混乱する。

旅と夢は似ていると思う。
それだけで生きていくことは出来ないし、いつかは覚める時が訪れる。



「日本海ハイウェイ夕陽」号は、昭和63年10月に東急バスと庄内交通バスが運行を開始した、渋谷と鶴岡・酒田を結ぶ夜行高速バスである。

愛称は、東急バスが「ミルキーウェイ」号、庄内交通が「日本海ハイウェイ夕陽」号と、事業者ごとに別々に命名されていた。
昭和62年から短期間で渋谷発の夜行高速バス網を拡充した東急バスは、自社の高速バスの愛称を全て「ミルキーウェイ」に統一していたから、共同運行会社は、それぞれ異なる愛称をつけている。

和歌山線の南海電鉄バスは「サザンクロス」。
姫路線の神姫バスは「プリンセスロード」。
松江・出雲線の一畑電鉄バスは「スサノオ」。



車体側面に描かれた「夕陽」の文字の下に、小さく「YOU & HE」とルビがふられ、そのセンスは如何なものかと首を捻ってしまうのだが、日本海と言えば海に沈む夕陽、という発想はやや短絡的でありながらも、思い浮かぶイメージは強烈である。
能登の浜辺で水平線に没していく夕陽を眺めて、その雄大さと荘厳さに強く心を打たれた経験がある。
庄内の海岸でも、同じ夕陽を見ることができるのだろうか。

だが、渋谷行き上り便の酒田発車時刻は夜更けの22時だから、夕陽が拝めるはずがない。
それでも「日本海ハイウェイ夕陽」という響きを聞くだけで、夜明けの日本海の情景を脳裏に思い描いて、旅情が掻き立てられる。
その頃に発行された高速バスを扱う雑誌や書籍などには、必ずと言っていいほど、早朝の海岸線を行く「日本海ハイウェイ夕陽」号の写真が掲載されていた。



昭和31年に東京と博多を結ぶ寝台特急列車が運転を開始するにあたって、国鉄が列車名を検討した際のエピソードを思い出す。
戦前からの伝統的な「富士」の名が候補に挙がったものの、この列車の運行ダイヤでは富士山を拝むことは出来ないはず、と却下されて、「あさかぜ」に決定したのである。
そこまで杓子定規に考えなくても、と苦笑してしまうが、愛称に対する考え方は様々なのだと思う。

「日本海ハイウェイ夕陽」号は、夜の関越道を新潟まで一気に走破して、国道7号線を海岸沿いに北上する経路をたどる。
当時、東北方面に向かう夜行高速バスが次々に開業していたが、いずれも東北自動車道を使う路線ばかりで、関越道を経由する路線は初めてだったから、強く心を惹かれた。





渋谷から関越道の練馬ICは遠い。
道玄坂から国道246号線へ出て、山手通りを渋滞につっかえながら北上し、新目白通りへ左折、高速道路に入るまで1時間程度を要したように記憶している。

山手通りは工事が多く、車線規制があったり、掘り返しては埋め直し、舗装を重ねて継ぎはぎだらけの区間が、あちこちに見られた。
もともと曲線が多い線形だから、自分でハンドルを握っていても、東京の環状道路では群を抜いて走りにくかった。
いったい何を工事しておるのかと思っていたが、そのうちに、首都高速道路中央環状線の地下トンネルを建設していることを知った。
平成27年に中央環状線が開通した後には、見違えるようにすっきりとした山手通りを見て、なるほど、と1人頷いたものである。

中央環状線の都市計画が裁可されて工事が始まったのは、平成2年とされている。
僕が「日本海ハイウェイ夕陽」号に乗車したのは、平成元年の11月の週末だった。
掘削部分を覆う鉄板をタイヤが跳ね上げる金属音が車内まで重々しく響き、座面からお尻が浮き上がるほどのバウンドがあったり、左右に身体を振られたり、とにかく揺さぶられた記憶が鮮烈なのだが、あの頃は何の工事を行っていたのだろう。



バスのサスペンションも固めだった。

「日本海ハイウェイ夕陽」号の開設に当たって、庄内交通が採用したバスは、ボルボ・アステローペである。
一般的に、バスはエンジンを最後部に設置していることが多いが、スウェーデンのボルボ社は、エンジンをホイールベースの間に置いたセンターアンダーフロア構造のシャシーを製造した。
車体後部に余裕が生まれ、後部を2階建てにしたボディを富士重工が架装して、昭和58年に販売を開始したバスが、ボルボ・アステローペである。
ベンツやネオプランに乗車した時にも感じたことだが、欧州製のバスは日本車に比してサスペンションが固めに仕上がっている。
それだけに高速走行では安定感が抜群で、乗客としては安心できる乗り心地なのだ。

トランスミッションにドイツ製のATを取り入れ、排気量10リットルの直列6気筒ターボ付きエンジンを搭載して、馬力は320PSである。
如何にもずっしりと重々しい外見であり、実際に乗ってみると、急勾配が多い中央自動車道などでは若干の力不足を感じないでもなかったけれど、他のバスに比べて燃費が良好という理由から、高速路線に投入する事業者が増えた。

ボルボ・アステローぺの試験走行に協力し、トップユーザーの栄誉を担った事業者が、庄内交通である。









車内を見渡せば、横3列独立シートがずらりと並び、2階部分に当たる最後部の座席が劇場の観客席のようにせり上がっている。
他のスーパーハイデッカーに見られるような車室中央のトイレの突起がなく、すっきりした印象を受けるのは、トイレが1階への階段を降りた場所に設けられているからであろう。

じゃじゃ馬に乗っているような乗り心地の山手通りでは難しいけれど、後で関越道に乗って走りが穏やかになったら、1階部分に設けられているサロンに行ってみようと思う。
ちなみに、共同運行の東急バスは普通のスーパーハイデッカーであるから、2分の1の確率を引き当てた訳で、ついている、と思う。



車内はほぼ満席の盛況で、殆どの乗客は、出発直後から早々とリクライニングを倒して眠る姿勢をとっている。
僕は揺れる車内で身体を横にすることが苦手で、カーテンの片隅をそっとめくりながら、外の景色に目を向けている方が遙かに楽だった。

立体交差になっている中落合二丁目の交差点で新目白通りへと舵を切ると、多少は揺れが治まった。
谷原の交差点で環八を越えると、左へカーブを描く高架を登り始めるから、ようやく下道が終わって関越道か、と期待が高まるのだが、これはフェイントで、単なる陸橋に過ぎない。
再び地平に降りた先に信号まであるから、いつも気勢を削がれたような気分にさせられる。
その先にある背の高い防音壁に囲まれた上り勾配が、正真正銘の関越道練馬ICである。

それまでのモタモタした走りっぷりが嘘のように、バスはぐいぐい速度を上げていく。
ATトランスミッションのバスに乗るのは初めてだった。
アクセルワークにシフトチェンジが引っ張られるような加速具合は、乗用車と比べれば多少ズレが生じている感触があり、マニュアルとひと味違う違和感を感じるけれど、小気味いいほど滑らかである。
揺れが治まって車体がビシッと安定する。



運転手さんが消灯を宣言するのを聞き流しながら、僕は席を立ち、後部1階のサロンを覗いてみることにした。
狭い階段を降りると、奥では、若い女性が顔を窓に向けながら煙草をくゆらせている。
一瞬躊躇したが、失礼します、と小声で挨拶して、向かいに腰を下ろした。

2席ずつ向かい合わせの座席が並ぶサロンは、天井の低さを我慢すれば、思いのほか余裕のある構造で、膝が突っつき合うようなことはない。
窓からオレンジ灯の光が鈍く差し込んで、室内を染め上げる。
バスを追い越していく乗用車と大して変わらない低さだから、ヘッドライトに照らし出された路面が案外近くに見える。

「あっ、やっちゃった」

不意に女性が小さく声を上げたので、僕は驚いた。

「火をお持ちじゃありません?」

と聞かれ、たった今、彼女が吸い終わった煙草にはどうやって火をつけたのだろう、と不思議に思いながらライターを差し出すと、女性は美味しそうに吸いつけて、照れたように微笑んだ。

「ありがと。トランクに閉まった鞄にライターを入れちゃったんだ。まさか車内で煙草が吸えるとは思わなかったんだもの。だから、さっきは別の方に火をいただいたってわけ」
「なるほど。でも『やっちゃった』ってのは?」
「ふふ。私、ヘビースモーカーだから、2本目は1本目の煙草から点けようと思ってたんだけど、慣れないことするもんじゃないわね。ぼんやりしてたら、ついつい消しちゃって」
「豪快すぎます。それじゃまるでおっさんっすよ」
「だよね」

不意に女性の表情が暗く沈んだような気がしたから、僕はたじろぎながら慌てて言葉を継いだ。

「酒田までですか?」
「ううん、鶴岡。あなたは酒田なのね。旅行?」

このバスに乗りたくて出かけてきたマニアです、とは言いづらかった。

落ち着いた雰囲気が漂い、ほっそりとして笑顔が素敵な女性である。
当時の僕より年上だったろうか。
時折、ふっと黙り込んで窓を見つめる横顔に浮かぶ翳りが、ついつい気になってしまう。
栓を開けた缶ビールが1本、飲み物掛けに置かれていることに気づいた。
僕も飲み物を持ってくれば良かったと後悔しながらも、何となく意気投合して、煙草2~3本分ほど楽しくひそひそ話を交わしたのだが、内容は全く覚えていない。

このままいつまでも夜更かししたい気分だったが、最後に、僕はもう1個持ってますから、とライターを進呈すると、嬉しそうに輝いた彼女の笑顔だけは、今でもはっきりと脳裏によみがえる。



階段を昇れば、客室はすっかり明かりが落とされて暗闇に覆われていた。

夜半にふと目を覚ましてカーテンをめくると、暗がりの中に、黒々とした海原と、砂浜に押し寄せる波濤が白く浮かび上がった。
バスはとっくに高速道路を降りている。

「日本海ハイウェイ夕陽」号は、関越道を終点の新潟黒埼ICまで一気に踏破してから、国道7号線を170kmも走らなければならない。
もう日本海側まで来たのか、と驚きながらも、吸い込まれるような眠気には勝てず、僕は再び目を瞑った。

周りがざわざわする気配に否応なく起こされると、何人かの降車客が一斉に立ち上がって網棚の荷物を下ろしたり、上着を羽織ったりしながら通路をすり抜けていく。

腕時計を見ると午前6時を回ったところで、バスは鶴岡駅前に到着していた。

降り場はショッピングモールの前だったが、開いている店は1つもなく、街は夜の底で眠りについたままである。
街灯に照らされながら、トランクルームに上半身を突っ込んで荷物を取り出している運転手さんを囲む人々の一群に、昨夜の女性の姿を探してみたが、もう行ってしまったのか、見当たらなかった。

鶴岡の街を後にしたバスは、刈り入れが終わって黒々と土が剥き出しの田圃が朝焼けに染まる庄内平野を、更に北上していく。
うつらうつらと過ごした時が流れ、すっかり夜の帳が払われた酒田駅前に到着したのは、定刻7時30分より少し早めの時間だった。



酒田からの旅程は決めていなかった。
庄内の地に降りたのは初めてだったが、特にこれと言った用事があるわけではない。
羽越本線の列車に揺られて更に北を目指すことも一案だったが、僕は東へ向かうことに決めた。
日本海から太平洋まで東北を横断するという行為に、何となく浪漫を感じたのである。

しかも、ぴったりの長距離バスが登場したばかりだった。
平成元年8月に開業した酒田・鶴岡と仙台を結ぶ高速バスである。
庄内交通が「夕陽」、宮城交通が「SSライナー」と、こちらも運行事業者ごとに愛称を決めていた。





発車時刻の7時45分の数分前に酒田駅前に姿を現した庄内交通のバスは、「日本海ハイウェイ夕陽」号と同じボルボ・アステローペであった。
座席は夜行便と異なる横4列シートで、しかも定員制の自由席である。
1人の客が支払う運賃が3000円にも満たないような路線に、よくぞ高価な外車を投入したものと思う。

「日本海ハイウェイ夕陽」号を降りたまま、乗り場で待っていた僕は、運良く最前列左側の席に座ることができた。
これから4時間、この特等席で景色を楽しむことが出来るのだから、心が弾む。

どやどやと乗り込んで来た10人くらいのおじさんの団体が、僕の席を取り囲むように最前列右側と2~3列目を占めた。
朝からビールを片手に賑やかで、なんとなく居心地が悪い。
おじさんたちも、左右の最前列席に座りたかったのかもしれない。
温泉がどうのこうのという会話が聞こえるから、連れ立って作並温泉にでも行くのだろうか。

未明に通ったばかりの国道7号線を鶴岡まで戻ると、半分以上の座席が埋まった。



かつて、仙台と庄内地方との間には、陸羽西線から仙山線に入る急行「月山」、あるいは陸羽東線に入る急行「もがみ」といった直通列車があった。
やがて「もがみ」が廃止され、「月山」も庄内から山形止まりとなって、直通列車は消えてしまったのである。

「夕陽」号が開業した当初は山形自動車道が建設途上だったから、仙台まで終始一般道を使い、4時間もかかるもどかしい経路であるが、乗り換えが不要な直通バスは人気があるようだった。
高速道路の延伸に伴い酒田-仙台線も順次時間短縮と増便を果たして、現在では所要3時間、1日7往復が運行されている。

早朝便で仙台に行き、携帯を片手に買い物をして最終便で戻る女性たちのことを、マスメディアが「ショウナイガールズ」と名付けるほど、この路線は若い女性層に浸透したと聞く。
宮崎から高速バスで福岡に遊びに行く女性たちを、路線の愛称にちなんで「フェニックス族」と呼ぶ社会現象が九州で見られたが、庄内地方でも、高速バスは新しい文化を創り出したのである。

仙台行き「夕陽」号は、鶴岡から国道112号線に舵を切り、いよいよ本州横断に乗り出していく。
この道は六十里越街道と呼ばれ、出羽国の内陸部と庄内を結ぶ唯一の陸路として開削された古道で、出羽三山詣でや修験の道としても知られている。



車窓左手には出羽三山が連なっているはずなのだが、低く垂れ込めた雲に、中腹から上の山陵が隠れてしまっている。
向かって左が羽黒山、右が月山と湯殿山に連なる山々である。

羽黒山は、月山の北西山麓に位置する標高414mの丘陵で、独立峰ではない。
北陸道を奥羽に向けて都落ちする源義経一行が、越後の直江津までは羽黒山伏が熊野に参って下向するところ、直江津から先では熊野山伏が羽黒に参るところと、身を偽ることにしたのは有名な話である。
地形としては最も平凡に見える羽黒の名が、どうして出羽三山の修験者を表すことになったのだろうと思う。

見渡す限りの田圃が広がる庄内平野も、いつしか先すぼみになって、左右にそびえる山塊がぐいぐいと押し寄せてくる。
平地が尽きると、国道は赤川に沿う狭い谷間で湯殿山の南麓を回り込む険しい山道に変わる。

「夕陽」号が走るのは、昭和56年に開通したバイパスの月山道路で、山形道の未開通区間を補う高規格道路である。
ダム湖であるあさひ月山湖を過ぎると、これ以上は付き合ってられません、とばかりに赤川から離れ、峻険な峰々をトンネルで貫いていく。
河川が作り出す緩やかな傾斜を利用した古来の道とは異なる、近年の道路の造り方である。
それでも、周囲ののしかかってくるような山々を見上げれば、旧道を上り下りした昔の人々の難儀が偲ばれる。

断続するトンネルの中でも、最長は2620mの月山第一トンネルで、上を行く旧道の峠の頂上は、大越と呼ばれている。
このトンネルは標高1504mの湯殿山の南麓を貫いているが、湯殿山そのものが、北方にそびえる標高1984mの月山に連なっているため、この名前が付けられたのであろうか。



月山の山頂は万年雪で覆われ、氷河期には、アイスキャップと呼ばれる氷河が存在していた可能性もあるという。
出羽三山を訪れた松尾芭蕉は、

『雲霧山気の中に氷雪を踏んで登ること八里、更に日月行道の雲関に人かとあやしまれ、息絶身こごえて、頂上にいたれば日没して月顕わる』

と「奥の細道」に記している。
芭蕉が月山に登ったのは1689年6月、新暦で言えば7月であった。
数百年前も、真夏にもかかわらず多量の残雪が見られたことになる。

出羽三山の信仰や修験道で中心的な地位にあったのは、最も奥まった位置にある最高峰の月山であるが、僕は、どちらかといえば湯殿山に神秘的なイメージを抱いていた。
古来より、湯殿山については「語るなかれ、聞くなかれ」と言われ、芭蕉も、

『総じてこの山中の微細、行者の法式として他言することを禁ず。よって筆をとどめてしるさず』

と書くだけにして、

『語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな 』

と一句詠んでいる。

庄内と仙台を結んだ急行列車の愛称ばかりではなく、湖やダムの名前など、国道112号線沿線には月山の名が溢れているが、より近い湯殿山の名前が少ないように思えるのは、語るなかれという言い伝えが影響しているのだろうか。



「奥の細道」とともに、僕が湯殿山に興味を持つきっかけになったのが、SF作家小松左京氏の「続・妄想ニッポン紀行」だった。
湯殿山滝水寺金剛院大日坊を訪れた小松氏は、以下のように記している。

『中は薄暗い。
煤けた天井から、色褪せた千羽鶴が無数に垂れ下がり、その間に大提灯がぶら下がる。
その奥に須弥壇があって、本尊大日如来がまつられてある。
暗い中に、煤けた金色の仏像、灯明が瞬き、仏具が配置され──という雰囲気は、地方寺院に毎度の事であるが、左手の地蔵尊から右手へ視線を移して、ぎょっとした。
巨大な黒光りする大黒天の像が小槌を振り上げている。
俵を履き、袋を担ぎ、頭巾をかぶったその姿はおなじみだが、その顔は強く口を結んで笑っていない。
振り上げた打ち出の小槌も、福を振り出すそれではなくて、眼前の何かを叩きつぶす武器のように見える。
ミイラは御本尊の裏手に回った所にあるというので、正面の壇の裏へ、廊下を伝って行くと──果たして真如海上人即身仏は、とがった帽をかぶり、美々しい衣を着て、正面本尊と背中合わせの位置に座っていた。
変色した両手を前に揃え、うつ向けの顔にくぼんだ眼窩と、なかば開かれた虚ろな口が、笑っているように見える』
(中略)
『この異様さは、いったい何と言ったらいいであろう。
「血の池権現」がある。
「飯綱権現」がある。
「愛染明王」はぎらぎらと眼を輝かし、「御滝不動」は赤い口をあけ、「御裏三宝荒神」は忿怒邪悪の相を示し、「波切不動」に至っては、全身鱗がはえて青黒く毒々しく塗りたくられた上、下半身はとぐろを巻く蛇竜であり、渦巻く白波からすっくと立って、眼をむき、真っ赤な口を開いて鋭い剣先にガブリの所は、仏というよりは、さながら怪獣である。
こんな仏が、壇の裏をめぐる回廊に、ミイラを中心にずらりと配置されている光景は──真言密教諸仏の奇怪さを、少しは知っているつもりの私も、圧倒されて声も出ない有様だった。
これは果たして「日本のもの」か?──もしそうだとしたら、「日本的」という概念は大幅に訂正されなければならぬ』



大日坊は、先程通過してきたあさひ月山湖の北方に位置する。

僧侶が土中の穴に入って瞑想状態のまま絶命し、ミイラと化したものが即身仏である。
背景にあるのは入定という概念で、端的に言えば悟りを開くことなのだが、死を永遠の生命の獲得とする考えとも言われている。
山形県内には庄内地方を中心に8体もの即身仏が安置されている。

「奥の細道」と「妄想ニッポン紀行」を読んだのは中学から高校にかけてのことで、出羽三山を、特に湯殿山を訪ねてみたい、と強く思うようになった。

しかし、仙台行きの長距離バスに乗っている身としては、出羽三山に寄るわけにはいかない。
国道112号線のように鉄道とは無縁の地域を走ると、バスファンで良かったと感じるのだが、長距離バスで困ってしまうのは乗降制限で、発地からの行程の前半部分が乗車専用とされている路線が多いから、思いつきの途中下車ができない。
その点、航空機にも似た乗り物と言えるだろう。
山形と鶴岡、酒田を結ぶ「112特急バス」ならば、途中下車ができるのかもしれない。



紅葉の季節はとうに過ぎ、黒くくすんだ葉だけが木々に残る晩秋の分水嶺を踏み越えて、月山湖から流れ出る寒河江川に沿う谷間の幅が少しずつ広くなれば、山形盆地である。

「夕陽」号は寒河江市を過ぎ、東根市郊外の水田地帯の中に設けられた山形空港に立ち寄る。
ここで初めて降車が許され、庄内地方から空港へのリムジンバスのような役割を果たしているのだが、ガランとしたガラス張りのターミナルビルでの乗降客は1人もいなかった。

この空港には思い入れがある。
平成2年4月に全機退役したボーイング727型旅客機が最後に運航されたのが羽田-山形線で、僕はわざわざ乗りに来たのである。



ボーイング727型機は、垂直尾翼の上に水平尾翼を乗せたT字翼を持ち、尾部に3発のエンジンを集中搭載して、主翼の後退角も深く、いかにもスピード感を強調した独特の外見に、僕は魅せられていた。

昭和30年代後半に、運輸省が、国内線用ジェット機は同一機種を採用するよう通達を出し、国内3社がボーイング727を選択したことが、我が国における同機のデビューであった。
我が国での導入機数は、全日空が43機、日本航空が20機、日本国内航空が2機である。
ボーイング727は、日本航空ではダグラスDC-8とコンベア880に次ぐ3機種目のジェット旅客機だったが、全日空と日本国内航空にとっては初めて採用したジェット旅客機であり、国内線における本格的なジェット機時代の幕を開けた機種とも言える。

橋幸夫と吉永小百合が歌うイメージソング「そこは青い空だった」が発売されたり、桜木健一が全日空の操縦士役を務めるテレビドラマ「虹のエアポート」にもボーイング727が登場したり、僕にとっては、ボーイング727は全日空の飛行機というイメージが強い。

あちこちの路線に就航して一時代を築いたボーイング727であるが、僕が飛行機に乗れるようになった頃には就航路線も少なく、なかなか乗る機会に恵まれなかった。
ボーイング727が退役するという噂を耳にして、僕が羽田から山形行きの搭乗券を手にしたのは、「夕陽」号の旅の1~2年ほど前のことである。

平成4年に山形新幹線が開業する前でも、東京から山形まで航空機を利用する客は、それほど多くなかった。
わずか40分ほどの飛行を終え、山形空港に着陸してからの降機の際に、エアステアと呼ばれる機体尾部の引き込み式のタラップを使ったことが印象的で、まるで貨物機のようだと思ったものだった。

帰路も飛行機で折り返したから、遙々山形まで来ても空港以外は何も見聞していない。
羽田からの客が瞬く間に姿を消し、無人の到着ロビーから、とぼとぼと出発ロビーへ向かう僕の姿を、警備員さんが胡散臭そうにじろじろ見ていたことを思い出す。

待ち時間をどう過ごそうかと途方に暮れるほど、閑散としたターミナルビルの様子は、「夕陽」号で通過した時も、全く変わりがなかった。



山形盆地を後にした「夕陽」号は、国道48号線に乗り換えて再び山越えに挑む。

「続・妄想ニッポン紀行」で、仙台空港に編集者のY君と降り立ち、山形へ向かおうとする小松氏が、タクシーの運転手と交わす会話がある。

『「柴田から笹谷街道を山形へ抜けてくれないか?」

と言うと、運転手は首を捻った。

「さあねエ、笹谷越えは、道が悪いでねえ──それに、ラジオ聞いとったら、山形の方は、もう降り出したつうから、これから山越えにかかって日が暮れて、雨になった日にゃ──まだチェーンは用意してないし……」
「それじゃ、仙台の北の古川から、鳴子峠を越えて、赤倉を回って、尾花沢へ出るのは?」
「今からですか?」

と運転手は時計を見て首を捻る。

「勘弁してくれんですか?やっぱ、道が悪いし、時間はかかるし……」
「作並から関山峠を抜けて、天童へ出るのが一番道がいいし速いですよ」

とY君が口を出す。

「まあいいや──じゃ、関山峠を越えてくれ」

フロントガラスにポツリと小さな花形に広がった水滴を見て、私は首をすくめた。

「本当は、柴田からの笹山越えこそが、律令期の東北幹線道なんだがね──ここから夜にかかって、雨に降られたら、有耶無耶の関跡だって見られんだろう」
「何です、有耶無耶の関ってのは」
「古代東山道にあって、陸奥国と出羽国の国界を扼した関所さ──もっともこれには異説があって、出羽の海岸沿いを、酒田市から北上する国道7号線の、山形、秋田の県境大師崎にある関跡こそが、有耶無耶の関跡だとも言う。東山道の東北部にあったのは確からしいが、どっちがどっちだかわからない」
「まさにウヤムヤになってる訳ですね」

と地図を見ながらY君はクスクス笑った。

「それにしても、ここから4号線を北上して古川市から鳴子峠を越えて、尾花沢へ出たいってのは、どういうきちがい沙汰です。とんでもない遠回りの山道ですよ」
「きちがい沙汰たあ何だ。前半のコースは違うが、鳴子越えして尾花沢へ出るのは、芭蕉が歩いた道だぜ。松島から平泉へ回ったあと、一関へ南下して、鳴子の湯を越え、尿前の関で関役人にごてつかれて、ようよう越える──山形側に越えた最初の村落堺田で、山中にふりこめられて詠んだ句が……」
「ああ、あの、馬のションベン水薬、オラ、とか何とかいうやつですか?」
「ガキの歌じゃないよ。げっそりさせるね、まったく」

大山をのぼって日既に暮れければ、
封人の家を見かけて舎りを求む。
三日風雨あれてよしなき山中に逗留す。

蚤虱 馬の尿する 枕もと

このあたりに来れば、どちらを向いても芭蕉の影が落ちている』

これは昭和30年代の描写である。
当時は「夕陽」号がたどる国道48号線が最も整備された道路だったようなのだ。



僕のような余所者は、古くからの街道で、現在では山形自動車道も通じている笹谷越えがメインルートのように思ってしまいがちである。
国道286号線笹谷トンネルが開通したのは昭和56年4月と比較的早いものの、高速道路の建設はそれより遅い。
昭和63年10月に村田JCT-宮城川崎ICの間が、平成2年10月に宮城川崎IC-笹谷ICの間が、平成3年7月に関沢IC-山形北ICの間が順次開通し、高規格で造られていた笹谷トンネルが山形道に編入されて全通したのは、平成10年7月のことである。

山形新幹線の開業前に、奥羽本線福島-米沢間に残っていたスイッチバックの駅を訪ねた折りに、山形から仙台へ抜けるバスを利用した時は、まだ山形道が全通していなかったことを思い出す。



国道48号は、最上川の支流である乱川に沿って山地へ分け入っていく。
平野が尽きると、重畳たる山塊の懐をひたすら走り続ける。
羊腸のごとく曲がりくねった道路沿いには、 時折、山肌を荒々しく削った採石場が現れるだけで、 集落すら見当たらない。
よくぞ、このような地形に道を切り開いたと思う。

それでも、国道112号線よりはどことなく明るい風景で、木漏れ日が車内を照らし出す。



関山峠を越えて東西に通じる道は、江戸時代に仙台藩が東半分を整備し、作並宿・熊ヶ根宿・愛子宿を置いたことが始まりである。
ただし関山峠を馬で越えることはできず、山形へは、南回りの笹谷街道が主であったという。

明治の初めに山形県令になった三島通庸は、福島と米沢の間に立ちはだかる栗子峠に萬世大路を開削した工事でも知られる「土木県令」であるが、関山街道の整備にも力を注ぎ、その最大の事業は県境を貫く関山トンネルの建設だった。
火薬の爆発事故で多くの犠牲者を出しながらも、明治15年に落成している。
横浜港から塩釜港まで船で運ばれた荷が馬車で山越えできるようになり、結果として、最上川水運の衰退を招くことになる。

大正9年には仙台と作並温泉の間にバスも運行されるようになった。
今でも、仙台と天童・新庄を結ぶ「特急48ライナー」が頻繁に行き来している。



関山峠を越えて、家々がぽつりぽつりと姿を現すようになると、間もなく作並温泉街が見えてくるが、「夕陽」号は見向きもせず、一目散に急坂を駆け下りていく。

「ここにも停まってくれりゃあええのになあ」

と、後席のおじさんがつぶやいている。

前後に車の量が増えて、このままでは渋滞しそうだと心配になる頃合いを見計らうかのように、バスは愛子バイパスへ進入する。
そのまま仙台西道路で青葉山の丘陵を突き抜けて、賑やかな仙台市街地へ飛び出していく。
幾つも連なるトンネルの合間から広瀬川が垣間見え、杜の都に来た実感が湧いてくる。

「夕陽」号で東北を横断する4時間の旅は、予定通り正午前には幕を閉じた。

あおば通りの停留所でバスを降りてから、初めて、1度も後部サロンに出かけなかったことに思い当たって、勿体なかったかな、と苦笑した。



数年後に、庄内で2週間を過ごすことになった。
余目町にある自動車学校に、合宿免許を申し込んだのである。

順調に本免路上試験をパスして東京へ帰るにあたって、平成4年に開業した「日本海ハイウェイ夕陽」号赤羽行きを使ってみることを思いついた。
庄内から山形道と東北道を通り、大宮、浦和、川口を経由して赤羽に向かう、渋谷発着とは別系統の新路線である。

一緒に合宿免許を取った友人が、面白そうだと同行することになったのだが、彼はマニアでも何でもないから、

「どうして酒田駅から乗りたいの?鶴岡駅の方が近くて安いじゃない」

などと注文が多くて閉口する。
彼は、翌日に東京の免許センターに本免試験を申し込んでいたから、車内で勉強するという。

「だって、バスの後ろがサロンになってるんでしょ?僕は、そこで一晩過ごすよ」



どうやら、庄内交通のボルボ・アステローペのことを僕が吹聴したらしい。
だが、後部サロンがない共同運行会社の国際興業バスに当たる可能性もあるぞ、と釘を刺すと、

「えー?それは困るよ。騙されたことになるよ」

と駄々をこねるから、そこまで面倒見切れるかと内心突き放しながらも、発車時間を迎えた鶴岡庄交モールにボルボ・アステローペが姿を現した時には、胸をなで下ろした。

さっそくサロンへ向かうと、各座席の頭上に設けられている読書灯と変わらない小さな明かりだけだったが、彼は全く気にせず教本を開いた。
渋谷発のバスのサロンは、もう少し明るかった記憶があるのだが。

翌朝に到着した大宮駅では、彼も自分の席に戻っていたから、少しは仮眠を取ったのだろうが、終点の赤羽駅からそのまま免許センターに直行してきちんと合格したと言うのだから、その馬力には脱帽の他ない。



バスは、深夜の国道112号線を内陸部へ向かっている。
僕は、消灯後も、教習を無事終えた安堵感と軽い興奮で、なかなか寝つけなかった。

一緒に合宿した十数人の仲間は気さくな人間ばかりで、楽しい思い出がたくさん詰まった2週間だった。

忘れがたいのは、仮免を取得した翌日のことである。
丸1日教習を休みにして、教習所がマイクロバスを出すから、観光したい行き先の希望を出すように言われ、僕は合宿仲間に、出羽三山のミイラを提案したのだ。
みんなも快く賛同してくれて、教官が運転するマイクロバスで、鶴岡市大網にある真言宗智山派注連寺と、滝水寺大日坊を巡ったのである。



注連寺は、国道112号線を北に逸れ、段々畑の畦道のような狭い急坂を登った傾斜地にある。
バスを降りれば、森閑として鳥の声だけが遠くに聞こえる山村の風景に、心が洗われた。
来て良かったと思う。

作家の森敦が滞在し、注連寺と、周辺の七五三掛地区を舞台にした小説「月山」で芥川賞を受けたことでも知られている。
出羽三山が女人禁制だった時代には、「女人のための湯殿山参詣所」として大いに賑わったという。

ひっそりとしたたたずまいの本堂に足を踏み入れると、最初に圧倒されるのは、天井一面に描かれた絵画である。
無数に並ぶ円形の小絵画の中央に、大きな絵画がはめこまれている。

飛ぶ龍が睨みをきかせている様を迫力ある筆致で描いた、村井石斎画伯による「飛天の図」。
合掌した手を描いた木下晋画伯の「天空の扉」。
水を象徴として結界を作り出したという満窪篤敬画伯の「水の精」。
久保俊寛画伯の「聖俗百華面相図」。
十時孝好画伯の「白馬交歓の図」。

どこからともなく現れたモンペ姿のおかみさんが、朴訥な口調で説明して下さった内容によれば、千年残る天井画を描いてほしいとの依頼に応えて、現代画家が腕を競ったものだという。

ぎしぎしと軋む床を靴下で踏みしめ、ひんやりとした感触を味わいながら回廊を回り込むと、恵眼院鉄門海上人の即身仏が、厨子に納められて安置されていた。
僕らは固唾を飲んで、言葉もなく立ち尽くした。



次に訪れた大日坊の即身仏と仏像群も、暗記するほど読み込んだ小松左京氏の記述と寸分違わぬ迫力で、僕の胸を衝いた。

木の皮や実を口にしながら命をつなぎ、経を読み、瞑想するうちに、腐敗の原因となる脂肪が燃焼され、筋肉が消費され、皮下脂肪が落ちて水分が少なくなる。
生きながら箱に入り、土中に埋めさせて、節をぬいた竹で箱と地上を繋いで息を継ぎ、読経をしながら鈴を鳴らす。
鈴の音が途絶えれば、入定である。
死を前提にした、想像を絶する苦行である。

伝染病の流行や飢饉などが発生した折りには、民衆の救済を祈願し、その苦しみに成り代わって即身仏になったとも伝えられる。
科学技術や医学が未熟で、病や自然との闘いが今より遥かに厳しく、祈るより他に術がなかった時代の人々のことを思う。

一方で、大日坊に安置された真言密教諸仏の異様な造形を持て囃した当時の東北の人々には、娯楽に乏しく厳しい時代を生き抜いた力強さと逞しさを感じるのだ。

死を永遠の生命と捉え、入定を果たした聖人や、極楽浄土を願った民衆は、苦悩が絶えない自らの人生や、生きにくい現世を、はかなき夢と考えたのだろうか。

現世は夢 夜の夢こそまこと

庄内から夜を徹して走り込んできた夜行高速バスから、早朝の赤羽駅に降り立つと、長かった旅路が、まさに、うたかたの夢のように感じられる。

夜の夢こそまこと、などという心境に陥って、幽冥境を異にした世界を彷徨うことなく、きちんと元の現実に戻って来られたことに、胸をなで下ろす思いだった。



ボルボ・アステローペは、その後の排出ガス規制に適合できず、平成13年5月に輸入と生産が打ち切られた。
「日本海ハイウェイ夕陽」号も、平凡なハイデッカー車に置き換えられている。

平成11年に渋谷発着系統と赤羽発着系統が統合され、首都圏側の停留所が渋谷・池袋・大宮に整理されて、関越道は通らなくなった。
平成21年からは、新宿西口高速バスターミナルから東京駅・秋葉原駅・上野駅を経由する系統が新設され、庄内への旅は一層便利になっている。

それでも、後部サロン室でくつろぎながら、関越道で夜明けの日本海を目指した贅沢な一夜は、僕にとっては貴重な記憶である。

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