厳寒の知床半島で村田彦市(森繁久彌)という老人が一人で住んでいた。十月になると鱒漁師達が引き上げるので、彼らの小屋にある漁網が鼠に食い荒らされるの防ぐため猫を飼っていて、その猫の世話をするために彦一は一人で半島に住んでいるのであった。
 彼は留守番さんと呼ばれた。

 彦一はオシンコシン岬で生まれ、漁師としての一流の人間に成長した。彦一は飯屋の娘、おかつ(草笛光子)と恋に落ち、島の他の男性と争って彼女を手に入れたのであった。
 彦一とおかつは三人の子供を生み。しかし、長男は流水にさらわれて死んでしまう。次男は彦一並の漁の腕があるにも関わらず戦争にかりだされ死んでしまうのであった。
 三男の謙三(船戸順)も戦争に召集されるのであった。この時、彦一は息子を取れることで怒りをあらわにするのであった。

 戦争が終わり、謙三は無事に戻ってくる。しかし、謙三は彦一の跡をついで猟師になるのを拒み、彦一の前から消えるのであった。
 数年後、おかつが急性肺炎になってしまう。町の病院に診てもらうと彦一はおかつをそりに乗せて連れて行くがおかつは途中で亡くなってしまうのであった。

 そんな父親を慰めるために謙三は戻り、彦一の跡を継ぐのであった。
 そして、自家用の船を手に入れ、漁に出るのだが嵐にあって亡くなってしまうのであった。
 それが彦一を留守番さんにさせたのであった。

 その知床に金村冴子(司葉子)が訪れる。彼女は亡くなった謙三と婚約をしていたのであった。
 それを知った彦一だが謙三の父親と名乗らず冴子と別れるのであった。

 ある冬の日。猫が一匹小屋からいなくなったので彦一は探しに出かける。猫は海辺に面した氷山にいた。



 森繁久彌の良さを引き出せる監督の一人である久松静児監督が演出をしている。
 久松監督といえば、やはり『警察日記』である。この『警察日記』は集団劇を日常レベルの描き方で登場人物達を演出したスケッチ風の仕上がりが魅力の一つであった。
 そして、この映画は、一人、日本の北の外れに生活している男の一代記をまさにスケッチ風に描いた作品として仕上げられている。
 それだけに彦一の人生の1コマ1コマ、淡々と描かれていることで実に印象深いものになっている。
 
そして、描かれた人生には、海と共に生きてきたこと、海を戦いながら生きてきた人生、海の生活に誇りを持ってきたことが描かれていて、彦一という老人の人生に厚みを加えた物となった。
更に、その描かれた人生をみることで、この老人が季節に関係なく海と生きている姿に納得感ができ、老人と冬の風景が見事に一致していて、作品の味わいの深さを生んでいた。

 この映画は、冬の知床半島の四季の自然が実に良くと撮られている。
 特に、冬の海に生きている動物達、鳥達が撮られているシーンはまるでこの手の世界を記録したドキュメンタリー物のような気がした。
 これはまさに作品世界に四季を感じさせるものがあり知床の雰囲気を上手く感じさせる物があった。

 また、この映画は四季の季節がリアルに描かれているのも忘れられない。
 実際に、その季節ごとで撮ったのかどうかはわからないが、春なら春の情景、夏なら夏の情景、冬なら冬の情景がリアルに撮られているような気がした
 もし、これが実際の季節の時に撮られたのであれば、本作は実に丁寧に作られた作品である。
 また、仮にセットや違う季節に変わりに撮られたのであれば、それはそれで撮影技術が素晴らしいということである。

 どちらにしろ、日本の最北端の島の風景をしっかりとカメラでおさめたのであるから、この映画のスタッフ達は凄いレベルがあったということである。

 また、彦一を演じた森繁も忘れられない。
 頑固一徹な性格は、森繁が年寄り演技が絶品な人だけに、彦一を見事に演じていた
 その名演技は、見事にリアルな風景に溶け込んでいて、海と同一になっているのがよく感じられるものであった。

 この映画は二時間を少し越える映画で、現在は短縮版しかみられないそうである。
 しかし、この映画は演出の丁寧さがテンポを悪く見せていている。それを考えると、今、観れる短縮版の時間がちょうどいいというわけである
 強盗殺人で死刑の宣告を受けた梢一郎(高倉健)。しかし、彼は愚連隊仲間の剛田(田中邦衛)にだまされて利用されただけであった。

 剛田への復讐を望んでいた梢は死刑員仲間の南川剛太(郷瑛二)の脱走の誘いを受け入れ網走刑務所を脱走するのであった。
 しかし、途中、仲間割れなどがあり、生き残ったのは梢と国松邦造(菅原文太)だけであった。
 国松は梢が結んだ金が目的で付いていくが、途中でまかれてしまうのであった。

 吹雪の中、梢は剛田のいる札幌へと進んでいた。その途中で、激しい腹痛で苦しむあき(木の実ナナ)と出会う。最初は無視しようとしていたが苦しむあきを見捨てることができずに梢は彼女の看病をするのであった。
 あきの治療費を稼ぐため、梢は日雇いの除雪作業の仕事をする。しかし、仕切っている梶政(山本麟一)が日当をピンハネをした上に梢の素性を知ったため殺してしまうのであった。

 あきの所に戻った梢であるが警察が泊まっている宿に現れる。慌てた梢はあきに自分の正体をばらすのであった。
 しかし、警察は別の殺人犯佐川(小池朝雄)を捕まえにきたのであった。
 翌日、梢とあきは別れるのであった。

 剛田の居場所が函館と知った梢はそこに行く。そして、小樽で国松と再会するのであった。
 まだ、梢は国松のことを嫌っていたが、国松が癌で助からず苦しむ母親を助けるために殺したという話を聞き、彼に心をゆ許すのであった。
 そして、梢は国松から剛田が一億円の電車強盗をするのを聞き、その電車に乗るのであった。

 電車の中で梢の復讐劇が始まるのであった。



 石井輝男監督、高倉健のコンビで脱獄といえば、ヒットシリーズ『網走番外地』シリーズである。
 しかし、本作には『番外地』シリーズのような爽快感がない。あるのは、自分をだました人間へのおどおどした憎悪と、どん底の男と女の悲哀であった。

 この映画、強引かもしれないが、三つに構成されているといってもいいだろう。一つは梢らの脱獄劇。二つ目は梢とあきのどん底に生きている男と女の愛の物語。そして、三つ目は走る列車を舞台に行われる復讐劇。

 脱走劇は死刑の宣告を受けた人間達のその恐怖ゆえに精神的に狂った姿、激しい寒さの中逃げなければならない人間達が狂っていく姿。
 それはまさにゲテモノを見るような気持ち悪さが漂って描かれ、石井輝男監督のその方面の趣味がまさに全快している。
 特に、刑務所暮らしで女に飢え逃げた家で女の下着を着て女を犯そうとしたり、寒さで精神を狂わされ全裸で雪原を動き回る郷瑛二の姿は強烈であった。

 恋愛劇では他人に冷酷に生きようとしつつも、結局、同じ境遇を感じ助ける男。そして、助けてもらったために男が犯罪者であろうとも愛を捧げようとする女。
 この二人の悲哀が実に哀愁強く描かれているのである。

 そして、復讐劇は従来の東映映画の全体に見られる激しさではなく、ポイントポイントで見せられる激しさが、血みどろの戦いを強烈に残してくれるのであった。

 そして、この三つの要素を見ている時に、石井輝男監督という人が非日本映画的な監督なのかを思わされずにはいられなかった。
 舞台は日本の雪国という実に土着的な所である。しかし、画面から感じられる空気は洋画のようなものがあった。
 恋愛劇の哀愁をべたさを弱くし、かつドライというわけではない、むしろ弱く演出しているから強く感じてくる哀愁。
 復讐劇の所は日本映画アクションシーンの激しい乱闘や撃ち合いではなく、ポイントポイントで激しさ見せる作り方。
 このセンスはある意味、フランス映画っぽいやり方である。見ていて、本当に日本映画を見ている感覚が薄かった。

 よく考えれば、石井監督は東映ギャング路線では時代劇調のギャング映画に洋画のセンスをぶち込んだ人だし。また、健さんとのコンビ作『網走番外地』の非日本的な作り物である。

 さらには、青山八郎の音楽は日本的というよりも、『ゴッドファーザー』を思わせる洋画調の音楽でやっているから、非日本映画的な印象は更に強くなっているのであった。
 それだけに、この映画、いつもの東映アクション映画とは違う、静的な余韻を感じて見終えることができた。

 そして、健さんはいつものような耐える男を演じていない。
 復讐という目的を達成するためには手段を選ばない所、また行えば冷酷非情に人を殺していく姿は斬新かつ強烈であった。
 でも、その反面、自分と同じ弱い状況の人間にはやさしさを見せるという姿があった。
 このような役を任侠映画時代にやっていれば、健さんの東映時代の人気も更に長くなり、その反面、松竹などの他社出演も遅れていただろう。

 そして、菅原文太が二枚看板を見事に背負っている。文太の出番はそれほど多くはないが強烈な印象を残している。
 また、任侠路線の頃は健さんの弟分的な役であったが、この映画の頃になると文太は実録やくざ路線で東映のエース格になったということもあり、以前と違って健さんに負けないオーラを出していた。

 それは健さんと文太の二人の存在感が作品に厚みを与えているものがあった。
 それだけでも、この映画はいい映画となっているのであった。

名画座マイト館
 サラリーマンの野中陽介(阿部雅彦)は終電車の中で土屋名美(岸加奈子)を見る。そして、名美の手首に縄で絞められた後を見つけるのであった。
 その時、陽介の中で何か異常な性欲が起きるのであった。

 家に帰った陽介は妻の久子(中川みず穂)に縄で縛ることを強要するのであった。久子は脅えつつも陽介の要求を受け入れるのであった。
 そして、陽介の久子へのSM趣味の要求はまだまだ続き、久子はそれに脅える生活をするのであった。

 ところが、陽介は久子では満足をしなかった。そこで、彼は名美と再び会うために、彼女の降りた駅で待ち伏せをするのであった。
 一度は発見するのだが、陽介は名美に拒絶をされるのであった。

 しかし、翌日、名美から陽介に接近をするのであった。そして、名美と会った陽介は彼女とSMプレイを行っていくのであった。



 『天使のはらわた』でお馴染みの石井隆が脚本を書いている。ただし、村木・名美コンビではなく、野中・名美コンビである。
 でも、内容は男女が深く愛していくことで堕ちていくという石井ワールドである。
 そして、男と女が落ちていく手段がSMであった。

 落ちていく手段がSMというのが実にうまい。なぜなら、ある意味、SMプレイというのは異常性愛的なものがあるからである。その異常性愛なものにはまることで男と女が落ちていくというのは、実に作品の味の深さを強くしていった。
 石井隆も上手く取り入れたものである。

 そして、その石井ワールドを、見事、映像化したのがすずきじゅんいち監督である。
 すずき監督がこの作品を成功させているのは、SMという行為を嫌悪感ではなく、嫌悪感を通り越した、いい感じのある空気感を漂わせる作品にしたことである。
 そのために、異常性愛のSMに落ちていく男と女がそれを受け入れていく心理の過程を、SMシーンを使って、よりそれがわかるドラマなのである。

 この作品、健常者からSMに落ちていく阿部雅彦のその過程が、しっかりと描かれている。
 阿部は本作の前に出演した『ピンクのカーテン』でも、妹に性欲を感じさせられるのを抑えている兄を演じていた。その時は、抑えていた。それが本作は正反対に出しまくる役を演じている。
 また、一度は夫のSM趣味を拒絶し家を出て行きつつも、結局、夫の下に戻り愛を失いたくないためにSMの深みにはまっていく妻を中川みず穂が上手く演じてくれた。

 演技と演出が面白いSM映画である。
名画座マイト館

 禁酒時代のシカゴ。
 サックス演奏者のジョー(トニー・カーチス)とベース演奏者のジュリー(ジャック・レモン)は新しい仕事場に行くために車を借りるためにガレージを訪れていた。すると、そこでギャングの大ボス、スッパツ・コロンボ(ジョージ・ラフト)が仲間を引きれて、殺人を行っている場に遭遇してしまうのであった。
 顔を見られたジョーとジュリーはスッパツから逃げるために、女装をし女性だけの楽団に潜りこんでシカゴを逃げるのであった。

 マイアミに向かう途中、ジョーとジュリーは楽団のヴォーカル兼ウクレレ演奏者のシュガー(マリリン・モンロー)と仲良くなるのであった。
 シュガーはサックス演奏者と六回の恋愛をしひどいふられ方をし、金持ちと結婚するのを狙っていた。
 ジョーは男であるのを言えないのと、シュガーがサックス演奏者嫌いということで、彼女になかなか告白ができなかった。

 しかし、マイアミに着いたら、ジョーは女装を解き男装をし、金持ちと偽ってシュガーの気を引くことに成功するのであった。
 一方のジュリーは大金持ちの御曹司オスグッド3世(ジョージ・E・ブラウン)に惚れられ求婚をされるのであった。

 ところがマイアミに、ギャングの集会でスッパツが現れるのであった。そして、ジョーとジュリーは正体がばれるのであった。
 二人は逃げることにした。でも、ジョーはシュガーを諦めない気持ちがあり、彼女に正体をばらして別れるのであった。
 そして、二人はスッパツ達から逃げるのであった。そして、その後をシュガーが追いかけてくるのであった。



 しゃれたセンスのコメディを撮るビリー・ワイルダー監督の作品である。
 男が女装をし恋をするという奇妙奇天烈な設定が、実にコメディ映画として成功させている。
 男性であるため女性の中に入ったら、性的な食い違いが起きたり、好きな女性を口説けない姿、そして金持ちという理由で求婚されてしまったりと、女性になったことで起きてくる笑いが上手くできている。

 また、マイアミのホテルでのエレベーターを上手く使ったギャグがあったりと、こうゆう正統なギャグでも上手く笑いを入れているのはビリー・ワイルダー監督のコメディのセンスの良さを感じられる。

 そして、カーチスとレモンがマイアミでギャングに追われ始まるところからラストまでのテンポの良さはクライマックスのテンションを綺麗に盛り上げて、観ていて気持ち良さを感じるのであった。

 この映画、ジャック・レモンが脇役なので、実にのびのびとした演技と笑いで楽しませてくれている。
 オスグッドとのダンスのシーンでのやけくそまみれのダンス、彼に求婚されて金があまりにも頭の中で大きく占めているために女装をしているのを忘れ喜ぶ姿。そのくせ、ラスト近くでオスグッド迫られて困っている姿。
 これらが実に印象深く、かつ笑いを起こしている。それは本来はトニー・カーチスとマリリン・モンローの恋の行方でひきつけなければならいのに、その印象を薄くしてしまっているほどである。
 それで、レモンとオスグッドのダンスシーンは、トニーとモンローの清らかなラブシーンを交互の編集で見せられ、その二組の姿が対立でさらにおかしさを強くしていた。

 ただ、モンローに関しては、いつもセクシー演技やメイクを控えめにして、幼さがあるかわいい女性で演技をしているところがいい。
 セクシーさの印象があるモンローだが、それがないことでとても違った印象を持つことができた。
 そして、マイアミに向かう電車の中で歌って踊るところも、ノリノリでいい衝動で動いているのがわかり、そのシーンを活き活きさせているのも忘れられない。

 ノリノリの印象のある映画であるが、冒頭のギャングと警察の追跡シーンの緊迫感、ガレージでの殺人シーンの迫力。
 これらはギャング映画としても成立できるものがあった。これができるのも、エンターティナーの才能豊かなワイルダー監督の力である。

 ちなみに、この映画、当初はカラー映画で作られる予定であったが、カーチスとレモンのメイクがあまりにもケバ過ぎたので、白黒に変更された。
 正直、白黒でもゲバ過ぎるくらいであったので、白黒にして正解であった。

 東京都知事の石原の慎ちゃんが作家時代に主演した新聞記者物。



 大手メーカー社長三原準之助(三津田健)の長男健司(平奈淳司)が下校途中に誘拐される。そして、三原邸に脅迫文が送られてくる。
 そこには警察には知らせるなと書かれていたが、準之助の長女、葉子(司葉子)が脅迫文を持って警察に訪れるのであった。

 サツ回りの記者、東都日報の記者冬木明(石原慎太郎)と毎朝新聞の記者今村(仲代達矢)は葉子の訪問にと特ダネの臭いを嗅ぐのであった。
 そして、今村は小野塚捜査主任(志村喬)に単刀直入に聞くのであった。小野塚は相手にしないのであった。
 一方、冬木は一旦署を出て飲み屋に入り、そこに置いてあった雑誌の三原家の記事から葉子のことを知るのであった。そして、署に戻った冬木は、葉子が取調室で事件のことを話しているのを盗み聞きするのであった。
 翌朝の東都日報には、誘拐事件のことが見出しになっていた。

 今村はこのことで小野塚に抗議をする。小野塚は子供の命の大切さを訴え、今村に詳しいことを記事に書くのは犯人逮捕まで待ってくれと頼むのであった。
 しかし、記事のせいで身代金受け渡しの時に逮捕を狙っていた警察は捕まえることができなかった。犯人が危険を察知し現れなかったのである。
 この事件でもっと特ダネを狙う冬木は三原邸に侵入し、葉子と会うのであった。そこで冬木は葉子に犯人へ弟を返すことを訴えた手記を書かせるのであった。

 その頃、タクシーの運転手が犯人を乗せたかもしれないと警察署に現れる。そして、一緒にいた子供が健司だと知るとモンタージュを取るのであった。
 一方、記事が得られない冬木は健司が野球選手の川田(三船敏郎)のファンだと知ると川田選手に犯人に語りかける番組を放送し、それを記事にするのであった。
 ところが、今村が小野塚から聞き出し、人相写真が手配された記事を書き、冬木は慌てるのであった。
 そして、冬木は小野塚らの刑事部屋に忍び込み、犯人のモンタージュ写真を盗むのであった。

 写真を手に入れた冬木は東都日報の販売所に配り、配達員達に警察よりも先に見つけるのを指示するのであった。
 しかし、なかなか犯人が見つからないために冬木は夕刊にモンタージュ写真を掲載するのであった。
 その夜、冬木は今村と会い、自分のやり口を非難されるのであった。

 翌朝、配達員の少年が犯人の笹井(宮口精二)を発見する。しかし、本社よりも警察に知らせるのであった。
 それを知った冬木はすぐに現場に行く。しかし、もう笹井は捕まっていた。そして、健司は殺された後であった。



 技巧的な演出と撮影で、多くのファンがいる鈴木英夫監督の映画である。
 この映画は誘拐事件とその記事を得ようとする記者の物語をサスペンスタッチで演出し、次に何が起きるのかわからない作り方が映画の面白さを盛り上げている。

 また、芥川也寸志の音楽が不思議な効果を上げている。使用されている楽器が『第三の男』のテーマ』と同じせいか、曲そのものが似ている。
 そのせいだろうか、この映画日本映画っぽさを感じることがなく、洋画のように感じられる。それはこのころの東京の外れの田舎町の風景がでてくるのだが、メインテーマのせいで外国の田舎町に見えてくるのである。音楽で映像の雰囲気を変えてしまうというのもいい効果を出している。
 そして、その音楽の乾ききった感じが作品のドライな世界も盛り上げているのであった。

 そして、この映画は、後の映画でも取り上げられる、報道機関のスクープ合戦による度を越えた取材の批判も描いている。
 この映画で、石原慎太郎が演じる、冬木はまさにスクープを得るためにあらゆる手段を行っていく。
 人を騙し、盗み聞きなどを行っていき、スクープを手に入れる。その上、美談を作り上げることで更に新聞の売り上げを伸ばしていくのであった。
 そして、非難されれば、生活のためだとか人々に真実を知らせるため、と言っては自己正当をする。
時に映画の新聞記者は人々に真実を知らせるというのをかざして、正義の味方になる。しかし、この映画はそれを見方によっては、悪の方向になる報道を正当化する面があるのを主張している。
 そのため、捜査は悪い方向になり、主人公も自己満足正義のダークな男になっていく。

 また、誘拐された姉を騙して手記を書かせてお涙記事にしたり、テレビを使って人気の野球選手に犯人を説得させたりして美談を作り上げたりと、いかにマスコミというのが作り上げというものを簡単に作ることができるものであるのをさらすのであった。

 そして、その度を越えたやりすぎも個人の反論でならば正当化ができる。しかし、これが組織になればそうはいかない。
 それはいかに組織という巨大な力があるものでも世間に評価という表面は弱いということである。
 組織がそれから逃れるためには、一人を悪人にしそいつを処罰すればいいのである。儲けさせている時はその男を持ち上げ、批難されればその逆を行う。
 この映画にはそんな巨大組織のからくり図も描かれているのであった。

 本来、主人公がこのような立場になったら、人々は同情するであろうが、この主人公はそれまでさんざん非道なことをしているので観ている側には同情を一切しないようになっている。
 まるで、敵役が最後にやられる姿のようにも見えるのであった。
 ラストが共感されない主人公を主役にしたということでも、この映画は実に珍しく、しかもそれが成立しているというのも凄いことである。

 鈴木英夫監督の念を入れた演出が実に溢れ出ている。

 そして、この主人公を演じるのは石原慎太郎である。この頃は当然都知事でもなく、政治家でもなかった。まだ、芥川賞の作家であったに違いない。
でも、この映画では批難されればされるほど、強い自己主張を出してくる冬木を演じていたが、よく考えればこの冬木の姿はまさに今の石原慎太郎の姿であり、まさにそのものズバリの人をキャスティングしたものである。

 これほど、演技でなく地である自己主張キャラである石原の前では、名優仲代達矢も存在感が薄くなっている。そもそも、この映画では刑事に頼まれて記事を控えるという大人しい記者をやっているからなおさらである。
 これが、後であれば、冬木は仲代が演じているキャラになっていただろう。仲代の冷たさを感じるキャラは冬木の悪徳な所をクールに演じただろう。

 でも、この頃でも仲代達矢はそれなりに存在感が強い役を演じていたが、それを潰してしまうくらいの石原慎太郎の存在感もまた凄さを感じさせるのであった。


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