補完で 悟りと解脱の違いを明かします
えと、昨日かいた記事に関し、ちょっと補完させてください。なにぶん、時間が遅く仕上がったもので、全く推敲せずに上げてしまいました^^; 禅はお釈迦様の教えではないこと わたしの前世に関すること わたしがお釈迦様の追体験をおこしたこと 禅の僧侶よりも、悟りを得る在家が多い理由について触れたら、一度に8名の方がフォローを外されました^^;まあ、仕方ありませんねえ。慧解脱というのは 3つの明智により 四聖諦が起きる 十二縁起が展開する 無明が消滅する 三界や六道輪廻を認識する 神々に遭遇したり、前世の想起が起きるなどが起きます。これが小乗の阿耨多羅三藐三菩提です。ところが、悟り(心解脱に属します)というのは 五蘊が停止する それにより無我を経験する 執着(渇愛)の停止が起き、心の解放を経験する 一切は同一のものから派生した(無分別、非二元、梵我一如、維摩経の不二法門、万物斉同などの)ことを知る 前世に関し憶えている人もいるけど、あまり輪廻を認識しないという様な事柄が起きます。悟りと心解脱の違うポイントなお、悟りと心解脱の異なる点は悟った後、更に無常の修習により、完全に以下の十結煩悩が切れたら心解脱です。悟っただけではまだ、慢や掉挙、無明は存在しているの。色貪(芸術に惹かれたり)とか無色貪(思想や哲学に興味を持ったり)とかね。でも絶対に激怒はなさいませんチャクラ、クンダリーニとは仏教のどこに絡むのか?なお、スピ系の方が関心を持つチャクラやクンダリーニ、前世などは慧解脱のカテゴリーに属します。密教やタントラはこれを利用して、瞑想の期間を一気に短縮させます。でも逆に悟りがついていかない人をわたしは大勢見ました。麻原さん一派はそうだし、他にもヨーガの先生や、あの虹の階梯の中沢新一さんとかもそうだと思います。悟りにチャクラやクンダリーニは関わらないこのへんをよく理解されていらっしゃらない方や、あるいは禅系統の方が 修行(と、言うか苦行)は無意味である チャクラやクンダリーニなど、どうでもいい事だ マントラや信仰は不要だ 密教はヒンドゥーの混入に過ぎないなどとおっしゃいます。※苦行林に於ける苦行を「無益徒労の行」とブッダは呼んだのであって、スッタニパータには「苦行は慈雨である」と、田を耕すバラモン・バーラドバージャには応えています。お坊さんが拡めた大きな誤解は、苦行は全て無益であり、元々ホトケであると自覚すれば良いのだ。というものです。それは誤りです。ブッダは苦行林における無益徒労の行を止め、乳粥を食べて体力を回復され、そして瞑想に入りサマディを経験し、最終のシーンで解脱を達成されました。だから、サマディに糧し、利益をもたらす苦行は有るわけです。それを、何でもかでも「お釈迦様は苦行を放棄したから」として「元々、人間はホトケである。それを自覚さえすればよいのである」これを「大乗」と嘯いているのね。そして解脱に至るには八正道しか無いのに「八正道は小乗の実践だから、我々には不要なのだ」と。言っています。その上、八正道が中道そのものなのに「なんでも程々が中道だ」と言っています。が、そうではありません。元々の小乗の蔑称は「説一切有部」のことであり、その後の唯識仏教以降では、小乗とは欲界から離脱する教えをして、小乗とします。今、わたしが定義すると 小乗・・・欲界からの離脱。煩悩放棄(煩悩の引き算) 大乗・・・色界・無色界からの離脱(四無量心の足し算)という風になります。悟りの後、修行を継続すると慧解脱が訪れるそしてその修行に関して言えば、解脱の前に悟りが先に来ます。サマタ(集中)を得たら心解脱サマタを修めたあと、更にヴィパッサナー(如実知見の観照)を修習をしたら慧解脱に至ります。これが中道の教え、すなわち八正道であり、「何でもかでもほどほどがよい」という教えが中道でも無ければ、「8つの反省の視点」が八正道でもありません仏弟子が抱いた大疑問で、その後の仏弟子の多くはみんな、わたしもそうなんだけど大疑問がありまして・・・お釈迦様は「悟り」そのものは、解脱前に達成なさっていたと思います。悟ったら、そこでほぼみんな誰もが・・・(やっと自分は終わったんだ、やれやれ)普通、悟ったらほぼ誰もが自分は修行の完成に至ったんだと、確信します。SRKWブッダさんなどもそうでしょ。中国禅はまさにそれなんですね。シャンカラとかね。「中観」もそうじゃないかなとわたしは考えています。ねえお釈迦様。なんで悟って満足しないで、まだ先があると思ったの?ところがお釈迦様は、悟って満足していなかったの。まだ、修行を続けたの。これがわたしたちは不思議で仕方がありません。なんで「悟った」段階で終わりと思わないんだろう?無論、解脱と悟りの区別が判らない人は、この様な疑問自体がそもそも生じません。納得したい為に物語を作ったそこで、後の弟子たちはどう考えたかと言うと・・・実はお釈迦様は無数の過去世から最終に向かって修行を続けていて、悟りは最終でないと初めから知っていたに違いない。とジャータカそこで生まれたのがジャータカ(本生譚)という物語なんだけど。ジャータカ - Wikipediaja.wikipedia.orgまたはアシュヴァゴーシャ(馬鳴)のブッダチャリタ(仏所行讃)これはゴータマ・ブッダ、1生涯の文学です。ブッダチャリタ - Wikipediaja.wikipedia.org手塚治虫さんの「ブッダ」はこの中からエピソードを持ってきています。手塚式「ブッダ」手塚「ブッダ」は、飽くまでも手塚治虫先生の人生観による、ブッダや仏教理解なので、あれを正しい仏教観だと思ったら、もうとんでもないことになりますよ。気をつけてね。それを因として、その後、色んな仏教系新興宗教にハマったり、そのせいで更に輪廻が加算されたりと、取り返しがつかい条件(業)を生むよ。あそこで描かれているのは、神格化を排し、人生に悩める一人の古代インド哲学者を描き出したに過ぎません。ブラフマンはお釈迦様のお弟子になられたのだから、これは正反対です。「暗い暗い・・・」というのはおそらく「無明」を嘆いているのでしょう。無茶苦茶です^^;大川隆法さんはこのデタラメをお信じなっています捨身供養こうやってお釈迦様の魂は、自己犠牲を厭わず、どの生涯においても極限の功徳(布施波羅蜜)を積んで来たから、あの様な偉大な如来として完成なさったのだと。仙人様、わたしはあなたに差し出す食料を得る事が出来ません。したがって、わたしは火に入って焼かれますから、どうぞわたしを食べて、ご修行の糧となさってください。お釈迦様が最終の「如来」に向かって、多くの輪廻を修行の場として転生して来たという根拠を提示しています。そう考えないと、「悟り」で終わらなかった説明がつかないのね。「悟りは定義出来ないからこそ悟りである。定義出来たらそれは悟りではない」という誤謬ではね、そこで悟りと言われているものは何か?というと、端的に言うと色受想行識が停止した体験だと定義出来ます。「そんなバカな。悟りとはこれが悟りだと定義出来ないからこそ悟りなんだぞ」そ言う人が沢山います^^;いやいや、無我の体験と云うのは他ならぬ、この五蘊がわたしたちが認知している「我」ね。これがガラガラと崩れるの。 色・・・身体 受・・・感受 想・・・イメージ 行・・・衝動 識・・・観念・識別受想行識は(あれやこれや)頭の中の声として現れるこれが停止したその瞬間に雷が落ちたように「これだ!来た!」となります。これはSRKWブッダさんの著書を見てもちゃんとこの体験が記載されていますし、何よりネドじゅん先生がこれをとてもわかり易く親しみやすくイラストにしています。これは日本の仏教の中でも誰もやっていないので、快挙と言うしかありません。まさに福音と言えましょう(^^)「悟り」を自己の体験として簡潔に言えない指導家には就くないいでしょうか?もしね、皆さんが今後「わたしは悟りを得たい」と思ってどなたか先生に師事しようとした時ね。その先生が一言で「悟り」の状態を言えないとしたら、その人に師事しても時間と授業費の無駄です。もし、周辺知識ばかりグダグダ言う人であったら、その人物の生徒になってはいけません。やれ「悟りは誰それの本にこうある。また、他の誰それの本にはこのように記してある。また、こんな公案があり、このような公案も悟りの何たるかを示している。正法眼蔵には、いみじくも道元禅師かこう書いておる」まあ、誰とは言いませんが。彼は坐禅の方法と公案の提唱と、正法眼蔵とかの解説は得意でしょう。そして知識豊富で話術に巧みなだけであり、禅のポーズが出来るだけなのね悟りは何の知識が無くても関係ありません。却ってどの様な情報も邪魔です。それは五蘊の動きを誘発するからなのね。だから普勧坐禅儀とか正法眼蔵を読んで自分の修行の糧にしようとか、それやると却って五蘊が動き出すのね。大体、そんなもの知らない人がどんどん悟りの経験をしているんじゃありませんかね?悟りは五蘊の停止が狙いなのです。