はい、前の記事に関して、ご質問をいただきました。
「暗性優位の瞑想では真理は開示されません」
とは、どの様なことかとご質問を頂いたので、ご参考にして頂きと思います。
それはここと
ここをご覧くださるように(^^)
なぜブッダは瞑想の達人と言われるのか?
お釈迦様の教えが決定的に他のヨーガ修行者と異なった点は、
- 悪業の断滅・・・・タマスの軽減
- 善業の増大・・・・積徳
の2つを瞑想修行の前に持ってきたことなのです。
それを更に補完するために
- 懺悔・・・・前世を含む既存の悪業の浄化
- 頭陀行・・・積んだ功徳を減らさない
ということを徹底させました。
南方系の修行者の方で、「頭陀とは、即、乞食托鉢のことではないか?」と疑問が来たことがありますが、正しくは清貧です。
凡そ以下の通り
- 乞食托鉢(少量でも我慢、気に入ら無くてもそっちの方が功徳が減らず、悪業が落ちる)
- 一日一食
- 柔らかい寝具で寝ない、道端や墓場、僧苑の地べた。僧坊の板の間等で寝る。
- 惰眠を貪らない
- 聖黙法談
- 禁欲
- 持ち物は杖、托鉢椀、上下の糞掃衣のみ
そして、サマディの準備で経行(ウォーキング)を恐らく毎日10キロは歩いたと考えます。
清貧と坐法はかなり苦行だと思います。
加えて家族とも縁を切っているので、修行中にかなり情が出て、新婚の男性や病気の親、幼い子どもが居るなどの場合、やはり逃げ出す出家者も珍しくは無いそうです。
性欲に関しては、修行仲間の尼僧を強姦したとか、獣姦したとか記録があります。
禅宗の経行、テーラワーダの経行
禅宗では経行(きんひん)を眠気覚ましという位置づけで説きますが、わたしは全く違う見解です。
室内をノロノロ歩く宗派や、さっさっと早く歩く方法の宗派がありますが、それでは本来の狙いからは遠いと。
また、テーラワーダでは「歩行瞑想」と言っていますが、それも本質では無いと思います。
あるいは坐禅ばかりの運動不足解消とかね。
サマディに入れるようになれば、本当の意味が明らかになりますよ(^^)
あのね、適度な疲労で座れば、スムーズにサマディに入れるのね。
また、かなり気が上昇するのです。
あれもこれも、結局早く成就するために、お釈迦様によって工夫された知恵によります。
(あら、今の仏教は全然違うこと言ってるわ)と感じたのでこのブログを書いています^^;
曹洞宗の経行の風景
部屋の中をそぞろ歩き。
適度な疲労から、行き過ぎて苦行に至ったのでは?
でね、これは想像なんだけど、この・・・
適度な疲労が
↓
肉体の疲労、
↓
肉体の酷使、
↓
苦行
それから数百年後に「肉体の苦行」という風に伝達していって、あんな風な苦行林のような概念が出来たのではないか?と、これは直感で直ぐに来ました。
なんで苦行の必要性があるかと言うに、肉体をいじめるほど、精神が先鋭になると信じられていたそうね。それで伝統に従って、それがどうなのか?とお釈迦様はご自分でお試しになられたと。
根拠はないんだけど、ただの直感^^;