菩提心と法施の功徳

 

もう一年以上の読者の皆様はどうか法施の功徳をお積みになってください。

ブログやTwitterやインスタグラムなどのアカウント持ってたら法施してください。

 

 

法施は解脱に直結する功徳なので、解脱を希求なさるならばぜひ法施なさってね。

  • 財施・・・財的に豊かになります。現世の暮らしで困らなくなります。
  • 無畏施(安心施)・・・縁の有る方の不安や苦悩を和らげてあげると安らぎの社会に身を置く現象が現出。
  • 法施・・・真理との縁を強く持ちます。
 
 
これと四無量心が善業です。
 
 
 
十善戒も善業ですよ。(十戒の逆のこと)
 
 

 

  十善戒

 

  1. 生き物に暴力や恐怖を与え無いで慈しむ
  2. 与えられたもので満足し、それ以上貪らず、気前よく施す
  3. 異性を性欲の対象と見ないで、誰とでも友人として接する
  4. 嘘をつかず真実を語る
  5. ダジャレ・ジョークを離れ、心の籠もった思いやりの言葉を語る
  6. 悪口を発せず、よいところを見る
  7. 仲違いする陰口から離れ、人々が和合するような事を語る
  8. 貪りを離れ、全ては与えられたものと見る
  9. 瞋りから離れ、自身の慈愛を育てる
  10. 真理を否定しない。真理に適った言葉を発し、ブッダや如来を称賛する。
 
 
 
 
 
 

 

  菩提心

 

菩薩の心、ボーディチッタね。
 
それを
「上求菩提・下化衆生」と一口に言います。
衆生を教化するには、自分自身が阿耨多羅三藐三菩提を求め続けることが不可欠であると。
 
「衆生は自分自身に他ならない」それが悟りの結論なのだから、他に対し四無量心を実践することは、自分を救うことなのだと。
 
 
 
 
 

 

  乾屎橛

 

「ホトケとは何ですか?」
「乾屎橛(かんしけつ:クソ掻きベラ)である」
古代の中国では排便後、ヘラでお尻の穴を掻いたので、当時では厠にヘラが常備されていました。
 
「やだな。はぐらかさないで、ちゃんと答えてくださいよ ^^; ホトケとは何ですか?」
「庭のコノテガシワである」
 
コノテガシワ(児の手柏)
 
「????」
 
 
これは疑団を起こすようにわざと言っているんだけど、梵我一如の状態です。
ホトケというよりも、「悟った状態」のことね。
 
 
 
ネドじゅん先生が、ナオキマンさんと対談している時、ナオキマンさんが
「ワンネスって、僕もネドじゅんさん何ですか?」
「ええ、ナオキマンさんは顎の長いわたしなんですよー(^^)」
みたいな返答をしています。
 
 
 

 

  「悟り」は解脱ではない

 

これと同じ事を言ってんの。
つまり、クソカキベラも庭のコノテガシワも、お前さんも、ワシも全ての一体感を実感しているのが、悟りの状態であると。
 
 
これが無我であり、同時に梵我一如を言ってます。
しかし、解脱は更にその先ね。
無明が破壊され、四聖諦が起きます。
 
 
 
 
んー、面白い事に禅のお坊さんで、梵我一如を否定なさる方を見ます。
「無我(今までの自我の消滅)」と矛盾しないのにね・・・^^;
 
父母未生以前の本来の真面目とか、仏性とか言うのは「梵」のことなのよ。
 
 
大海の波浪は是れ常有にも非ず、常非にも非らざるが如し

ある時。

小さな波はいつものように大きな波を見つめ、嘆息した。

「ああ、僕はなんてちっぽけな波なんだろう・・・」

 

大きな波が来て言った。

「君は自分が波だと思って嘆いているけど、わたしたちの本質はこの大いなる大海なのだ

君がそれに気づくと、もう君は苦しむ必要は無いんだよ・・・」

 
 
 
 
 
 

 

  梵我一如と梵天は別の概念

 

その際、混同しちゃいけないのは、「梵天」と「梵我一如」の梵は別の概念だと云うことなのね。
混同しているのは日本のお坊さんとスマナサーラ師でして。
 
 
ちょうど野口五郎岳というのが飛騨山脈の中部に存在するんだけど、これと歌手の野口五郎さんを同じだと見る過ちと同じなのね^^;
 
野口五郎さん
 
 
 
 
 

 

  衆生は、とりも直さず自分に他ならない

 

なので、「衆生を苦悩から解放するお手伝いをしたい!」と強烈に希求することは、自分を解放するカルマの形成にほかならないと。だから法施なのね。
 
自分の瞑想がトントンと進むから。
善業が瞑想に与える効果と言うのは、単に人に対し親切にするだけでも喜びが湧きませんか?
実感しますよね?
 
それを沢山集めて瞑想に入る。
いい瞑想にならないはずがない。
 
 

 

 

 

 

 

  陥穽に注意

 

そこで注意してほしいのは、だからと言って「別に偉い人になった訳では無い」んだと。
自尊感情を排除してね。
 
 
自尊感情が起きたら、自他の区別が生じたので菩提心には成りませんね。
元の木阿弥と言いましょうか、逆の結果が自分に生じますよ。
 
 
それこそ最上級ホテルの従業員の方か、三波春夫さんのように「お客様は神様です」という気持ちが大切です(^^)
 
 
功徳を積ませていただいている。悪業を落としてくれる。あなたがた無くしては、わたしは修行が進みませんと。
 

 

 

 

 

 

  「わたしは業論者である」

 

お釈迦様は御自分を「わたしは業論者である」と断言なさいます。
 
つまり、善業をなせば悟りや解脱に近づき
悪業をなせば、苦悩が訪れ、六道の引力に引かれ、最悪、破滅や激苦地獄へと行くのだと。
 
だから無常世界の力学は「業の法則である」と、したがって
 
 
「善業をなし悪業を断滅しましょう」。と
 
 
七仏通戒偈がそうだよね
 
諸々の悪をなす莫れ。
自ら進んで善を行え。
その実践によって、己を浄化せよ。
それが諸仏の教えである。
 

 

 

 

 

 

 

  戒定慧の実践によって解脱する

  • 清貧・・・持ってる功徳を減らさない
  • 持戒・・・悪業の断滅
  • 懺悔・・・五蘊の浄化
  • 功徳・・・善業の増大
  • 四念処・・・正しいトランス
これらは八正道や六波羅蜜のエッセンスです。

 

 

 

 

 

  在家の五戒と出家の十戒

 

悪業のうちわけ

 

五戒と十戒の意味を説いてくださいね。なるべく心がけて生活するようにと。
 
死後天界に至る在家の五戒
  1. 不殺生・・・地獄を切る
  2. 不偸盗・・・餓鬼を切る
  3. 不妄語・・・動物を切る
  4. 不邪淫・・・人間のカルマを切る
  5. 不飲酒・・・阿修羅を切る
 
解脱に向かう出家の十戒
  • 正思惟・・・①貪②瞋③癡から離れ、その逆を心がける。気前よく施すなどね。
  • 正語・・・・④嘘、⑤二枚舌、⑥悪口、⑦綺語(ダジャレ・ジョーク)を離れ、真実を語る
  • 正業・・・・⑧暴力、⑨偸盗⑩性行為を絶つ

 

 

 

 

 

  縁起の法

 

そして縁起の法を説いてね。

  1. 無明・・・・涅槃が完全に見えない状態
  2. 行・・・・・涅槃の時の幸福や安らぎを求める「衝動」迷子が親を探すような心情です
  3. 識・・・・・「行」を背景に、是非の識別を起こす
  4. 名色・・・・四大と心の働きを集合させる
  5. 六処・・・・4に基づき眼耳鼻舌身意が形成される
  6. 触・・・・・他の存在と接触が起こる
  7. 受・・・・・好悪とそのどちらでもない中間の感情が生起(この辺から貪瞋癡が形成)
  8. 愛・・・・・愛着から渇愛に至る
  9. 取・・・・・愛着したものに囚われが生じ、がんじがらめになる
  10. 有・・・・・無常世界に登場する準備が全て整う
  11. 生・・・・・いよいよ誕生
  12. 四苦八苦などの苦悩

 

無知・・・楽しみを求める心情で動物や神々に転生する要素です

無明・・・涅槃が認知出来ない状態で、完全な暗室に居る状態

 

このように全く違う概念ですが、「無明とは道理に暗いという意味で、無知のことである」と発言する学者さんやお坊さんの大勢いることね。

 

 

 

 

 

 

 

  躊躇する事はない

 

でね、自分が「解脱していないから」「まだ、悟っていないから」と言って躊躇する必要はありません。

お釈迦様はどんどん、学んで理解した教えを弟子に説かせましたよ。

 

そうするうち(自分はここが足りて無いな)と気づくし、他に話す事が自分の理解の強化に繋がります。通常の学習もそうだよね(^^)

 

 

「きっかけを与えてあげなさい」と。

 

 

弟子たちよ聞け、私は一切の束縛から自由になった。 


そして君たちもまた自由となった。

神々と人々の安穏と利益のために、また世間への哀れみのため、
君たちは出かけるがよい。 

二人して同じ道を行くな。

初めも善く、中も善く、終わりも善く、道理と言葉とが
備わった教えを説くがよい。

 この上なく完全で、清らかな行ないを人々に示せ。 


世間には心の眼がそれほど覆われていないが、

教えを聞くことができないため堕落している人々がいる。

教えを聞けば彼らは真実に気づくであろう

 

 

よよよ・・・わたしはこのお釈迦様の言葉を(とても有り難い!)と感じて、もうこんだけで有り難くて泣けてしまうんです。感謝しかありません。

なので、なるべくこのお釈迦様の意思を、この世界の隅々にお届けさせて頂きたい気持ちでいっぱい。

 

 

 

 

 

 

 

 

  写経と法施

 

あ、そうだ

「写経」と言うのは、元々法施で行った名残なんです。

今で言えば、リブログに相当します。

 

(わたし上手く言えないかな?言葉が不安です^^;・・・と。

 

それじゃあ・・という事でお経を書き写して、どうぞこれ読んでね。と、配ったの。

 

 

グーテンベルクの活版印刷が無い頃はヨーロッパでも聖書の写経をして配っていたの。

ただ、文盲率が非常に高くて、文字を読める人はとても少なかったのね。

 

 

いい?

だから今、心経を写経しても、それお寺に納めているでしょう?

それじゃ意味を理解してないのね。

 

 

書道の練習にしかなってないか、心が落ち着くとかね。それならお茶飲んでブレイクタイムするのと変わりません。

 

 

つまり功徳を積むという意味では、全く目的に適っていません。

 

でも、歴史的文化の名残でまだ続けています。