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読書記録、環境問題について




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『興亡の世界史 イタリア海洋都市の精神』陣内秀信 2018.10

 

 かつて、ヴェネツィア共和国は、膨大な長さの領土を有していた。それはアドリア海沿岸からギリシア近海の島々、果てはトルコの南に位置するキプロス島にまで及んでいた。その長さは2000キロにも及び、ちょうど日本列島の長さに匹敵する。
 このことはヴェネツィアが海洋貿易国家たる所以であるのだが、日本では案外見落とされているのではないだろうか。
 見落としがちになるのは、現代の交通手段の主力が自動車であることに捉われているからであろう。19世紀から20世紀にかけて、自動車社会に取り残された海洋都市国家は、近代的なビルが建てられることもなく当時の街並みをそのまま残す結果となった。

 本書では、この“取り残された”海洋都市が21世紀において潜在価値が積極的に見直されていることを紹介している。
 特に、その価値というものを、海からのアプローチ、そして海上交易の歴史という観点から解説し、いかにそれが重要で重層的なものであるかを強調している。
 

海の存在、港の存在が再度、注目されている。あるいは、経済社会を活性化させるにも、海洋都市としての文化イメージ、風景のアイデンティティが重要視されてきた。  (本書15頁)


 特に南イタリアでは、20世紀以降の経済的な落ち込みが激しい。それは21世紀の現代でも続いており、ギリシア危機に次ぐ危機的状況から抜け出ていない。
 しかし一方で、“田舎”のリノベーションが進んでおり、治安も劇的に改善されているという。スローライフやスローフード、ビーアンドビー(B&B)、アグリトゥリズモなどの考え方が普及し、田舎町の価値が見直されている。時代に取り残され衰退した海洋都市もまた同様である。
 だがこれらの価値は、大前提があってこそ見直され再利用されている。それは、歴史の積み重ねである。

 イタリアの海洋都市の歴史は、古代ローマ時代には記録からすでに確認されている。海洋都市同士が協力や争いを起こしながら同盟や併合を繰り返す。宗教的な対立や、大国の間に挟まれながら立ち位置を模索する。やがてイタリアが統一され、廃れては、新しい価値を見出して再起する。
 これらの歴史に目を向けないと、ただ風光明媚で綺麗だなぁ、で終わってしまう。下手をすると、ボロい建物だなぁなどと一瞥で終えかねない。
 田舎に限らない事だろうが、その土地の歴史を知ること、調べることは、その価値を見出すことに他ならない。
 歴史を学ぶ意義とは、本当に一言では言い表せないくらい、多様で価値があることなのだ。

 

『興亡の世界史 近代ヨーロッパの覇権』福井憲彦 2017.10

 

 15世紀も終盤の1492年、スペインにとって奇しくも2つの出来事が重なった。
 イベリア半島をイスラーム王朝から再征服するレコンキスタの完了と、女王イザベルがジェノヴァ商人コロンブスに託したインド海路探索でのアメリカ大陸「発見」である。
 奇しくも同年となった2つの出来事は、西欧主導(主観)の「大航海時代」と「グローバル化」が始まる象徴であった。

 15世紀から16世紀にかけては、スペインとポルトガルが互いに競い(戦争も行い)ながらアフリカからアジアの沿岸を占領し、独自の海上交易網を築いていく。やや遅れてオランダやイギリス、更にはフランスも加わって、植民地の獲得競争が過熱する。
 先行したスペインやポルトガルは、レコンキスタを達成したカトリック派の勢いをそのままに、海外へのカトリック派の普及に心血を注ぐ。
 対するオランダやイギリスは、宗教改革派であるプロテスタント派であったが布教は二の次として、まずは打倒カトリック派、そして資源を求めてスペインとポルトガルの拠点を奪っていく。
 一方の西欧本土では、キリスト教新旧派の対立から王位継承問題、独立戦争にフランス革命と戦乱が絶えなかった。
 19世紀になってウィーン会議をもってひとまず西欧諸国内の秩序が落ち着くと、「国民経済」の発展と科学技術の向上が相まって、西欧文明は世界のどこよりも跳躍的に「向上」した。
 この西欧文明が他の文化圏よりも優位とする歴史観は、超過加速する。「優生学」や「社会進化論」など“似非科学”の後押しが、アフリカや中南米、インドを支配した経済帝国主義を正当化する。

 以上、15世紀から19世紀にかけての「大航海時代」と「グローバル化」を見てきた。言葉では綺麗な「大航海」や「グローバル」であるが、その実体はどうもきな臭い。
 アフリカや中南米ではもはや略奪・虐殺と言える支配体制をとり、その支配地域ですら西欧本土の戦争と連動した、現地住民を巻き込んだ西欧の戦争が行なわれていた。(17世紀のアンボイナ事件では、日本人商人も巻き込まれている。)まさに戦争の「グローバル化」である。

 けれども当時の人々にとっては「先行き不透明」な世界の中にいたのであり、これらの歴史は全く予想外なことであった。
 今の時代を生きる者が、なぜこんなことを起こしたんだと疑問に思っても、当時の人々はそれが良かれと思っていたのかもしれないし、当人でさえも何故こんなことになったか疑問だったかもしれない。
 まさか遠く離れた「新大陸」で母国と同じ敵国と戦争をするとは。まさか新国家アメリカが誕生するとは。まさか略奪した金銀を大量に持ち帰ったばかりに経済が破綻するとは。

 「先行き不透明」な時代を生きるというのは、何も「現代」を生きる人間だけではない。そもそも、例えば16世紀に生きる人々にとって、その時代は「現代」だったのだ。
 そんな当たり前の視点が、歴史学においては、つい忘れがちになっているやもしれない。
 

 帝国主義とは、金融資本の活動ゆえではなく、金儲け目当ての投機的な行動のゆえでもなく、軍事至上的な軍部や政治家の地政学的判断でもなく、あるいはそれら個々の要因だけではなく、文明化の使命を善意からになおうとした市民、さらには問題解決を切望していた当時の労働大衆までをも引き込んだものだったのである。  (本書307頁)


 19世紀に啓蒙主義が花開いてなおも、帝国主義に依存する経済社会。その歪みや矛盾は、科学技術の向上と相まって、20世紀には予測不能な2度の世界大戦へと近代国家を突入させることとなった。
 21世紀に入っても、優生学論者が跋扈する。彼等は良かれと思っているらしい。だがその結末は20世紀に於て幾度もの悲劇をもたらしたことを我々は知っている。いや、知らない人や、知ろうとしない人もいる、と付言するべきか。
 歴史とは、“過去の失敗”ではないだろうか。「先行き不透明」な現代だからこそ、過去の因果に未来を重ね合わせる。
 本書も含めて、歴史書を紐解くことは現代を生きる上で必須である。


 

『興亡の世界史 地中海世界とローマ帝国』本村凌二 2017.9

 

 紀元前146年、繁栄を極めた海洋国家カルタゴの市街地が、ローマ軍によって陥落し炎上した。
 この年からローマ帝国は、カルタゴに代わって地中海の覇者となる。
 だが同じく繁栄を誇ったローマ帝国にも終わりが来る。395年に帝国が東西分割され、かつての首都ローマを擁する西ローマ帝国は476年に消滅し、事実上、地中海の覇者から陥落した。

 ローマ帝国勃興からカルタゴ戦(第三次ポエニ戦争)、そして西ローマ帝国消滅までの“ローマ帝国興亡史”を扱ったのが本書である。
 特徴的なのは、著者が同時代の著述家及び歴史家の著書を引用しながら解説しているところだ。
 カルタゴの陥落を目の当たりにした歴史家ポリュビオスは、何を考えて歴史を叙述したのだろうか。

 ポリュビオスにとって、歴史とは何か。
 彼にとって歴史とは「普遍史」あるいは「世界史」であり、「歴史はたんなる物語ではなく実践に役立つ範例でもある」という(本書24ページ)。
 かつてのイリアス(トロイ)が炎上し、アレキサンドロス大王のマケドニアも瓦解したように。目の前ではカルタゴが炎上し、ゆくゆくはローマも解体してしまう。
 ポリュビオスは「今のローマ帝国」がどのような経過をたどって成立したのか、という「普遍」を見出すことにより、歴史の教訓を引き出そうとしたのだろう。

 ところで彼は、将来ローマ帝国が滅びる予感の脇で、帝国が永続することを願っていただろうか?
 それとも、どうあがいても滅亡は免れないという歴史の教訓から、帝国の永続はあきらめていたのだろうか?
 彼の著書『歴史』から読み解いてみるのも面白いかもしれない。
 しかし、大事なことは、現代のわれわれがそれらを読んで、今の21世紀の文明が、今後どうなるかを予測する事ではないだろうか。
 

古代末期を衰退や没落と考えるのではなく、人間の営みの時代として理解してみる。やはり人間というものは常に新しいことに挑戦しているのであり、そのような時代として見直すべきなのだろう。  (本書355頁)

 

 これは、現代の歴史家からのメッセージである。
 人間の営みとして歴史を理解すれば、その営みが度々繰り返されてきたことにも理解が及ぶ。
 古代ローマ皇帝の交代劇は、18世紀フランスの革命と恐怖政治、16世紀日本の戦国時代を見ているかのような場面もある。
 313年の「ミラノ勅令」に至っては、多神教世界から一神教世界への大転換を宣言したものであり、戦国時代の日本に入って来たイエズス会による宣教のインパクトを考える上でも大いに参考となる。
 そして今という時代は、社会のつながりから疎外された人々がすがったキリスト教をローマ皇帝が合法化したこの「勅令」が出された時代の背景を、慎重に検証すべきではないだろうか。


 

 

『いやでも数学が面白くなる』 志村史夫著、2019.4
『数学とはどんな学問か?』津田一郎著、2021.8


 いまこそ、大阪の政党所属議員に伝えたい──
 数学がどれだけ世の中の役に立っているか。いや、数学を知っておかないと、どれだけ世の中で生きていく上で不利になるのかを。
 もっとも、渦中の人は「数学よりも金融工学を」という本末転倒なことを叫んでいるようだから、まずご本人には金融工学よりも数学の入門からやり直してもらった方がよいのだろう。

 数学の入門書と言えば、ブルーバックスだ。その中でも、直近の2冊を読み比べてみた。
 同じ領域を解説しているはずなのだが、問題のアプローチの仕方によって、書き方が異なってくるというのも面白い。
 だから、どの入門書がその人にとって心を打つか、興味をそそられるかは、その人の趣味嗜好次第だし、その人が実際に手に取ってみないと、分からない。

 歴史が好きな人にとっては、前者の『いやでも数学が面白くなる』に興味を持ってもらえるのではないか。
 本書にはまさしく、日本史や世界史のエピソードがちりばめられている。
 「座標」を発明したデカルト、その少し後に「重力」を発見したニュートン。時は17世紀で、日本は江戸時代の前期に当たる。言い換えると、「犬将軍」綱吉の代までには、方程式をグラフに描写する方法が確立され、さらに曲線の接点を求める微分が開発されたということだ。
 また、「0(ゼロ)」を最初に発見したのは7世紀のインド人……ではない、ということも書かれており、話は古代文明にまで及んでいる。古代史好きにはたまらない記述となっている。

 一方で、英語や言葉の語源に興味がある人は、後者の『数学とはどんな学問か?』が面白いと思う。
 指数の「log(ログ)」は、logarithmの略なのだが、元はギリシャ語の「logos」から来ているという。
 でももしかしたら、「ブログ」や「ログアウト」などネット用語として使う「ログ」とも関係しているかも?という著者の邪推は、本書の内容としては蛇足なんだけれども、いや蛇足であるが故か、とても楽しい。(なお、この場合の「ログ」は、「ログハウス」と同じlogである。蛇足でした。)
 ほかにも、「tangent(タンジェント)」は「接する」という意味であり、接線は英語で「タンジェント・ライン」であるということも教えてくれる。あの「sin・cos・tan」のタンジェントである。それが分かれば、タンジェントは一体何を求めようとしているかが、すっと理解できるようになるのではないだろうか。私も高校時代に知りたかった。
 ただし、本書の序章は、如何に数学が役に立つか、または数学を学ぶ必要性について説かれているのだが、これが少々冗長というか、くどさを感じる。この文章を読んで、数学好きな人はますます数学に惚れこむかもしれないが、数学嫌いの人がその病を治せるとは思えない。読み飛ばした方がよいだろう。

 

 

 

『ブロックチェーン 相互不信が実現する新しいセキュリティ』 岡嶋裕史著、2019.1

 暗号資産で注目される「ブロックチェーン」は、概念としては単純なものだ。作成ファイルを数珠つなぎに紡ぐようにして、後に改ざんができないようにする仕組みだと言える。
 そのセキュリティを確保するにはどうすればよいか。これも、「ハッシュ」の役割さえわかってしまえば、簡単に理解することができる。

 本書はこの基本的概念を理解しやすいよう、実に明解なコツを伝授してくれる。
 最初にいきなり「ハッシュ関数」と「ハッシュ値」が出てくる。だが怯(ひる)んではいけない。この20数ページさえ諦めずに理解できるように努めれば、後は難なく読める。
 逆に言うと、最初の部分をなんとなく分かったつもりで読み飛ばしてしまえば、ブロックチェーンへの理解は閉ざされる。すべては「ハッシュ」があってこその技術だからだ。

 私もブロックチェーンについて勘違いしていたところがあった。
 暗号資産はP2P(Peer to Peer)を用いているという話を聞いたことがあった。だから暗号資産のデータは、各自のPCに分割保存されているものだと思い込んでいた。
 実際は、暗号資産の取引にかかる全てのデータを、各PCが持たねばならない。バックアップが無数にあるという利点はあるが、ファイル量の重さが難点である。
 すると、官公庁の文書を改ざんできないようブロックチェーンを用いる、という話も聞いたことがあったが、データの容量からして(現在の技術では)不可能ではないか。しかしここで、ハッシュを用いた応用が役に立つ。文書の作成日もしくは署名の部分のみ、ブロックチェーンに組み込めばいい。
 文書本体のデータをブロックチェーンに入れないとなると、あとで「消去」(「隠蔽」とか「焚書」ともいう)される懸念は残る。しかし少なくとも、「改ざん」を防ぐことはできるし、そのデータがあったという「痕跡」は残せる。これもハッシュを知った上で理解できることだ。

 ブロックチェーンの理屈自体、何ら難しいものではない。しかし、ちゃんと理解していないと、「万能な技術」または「怪しい技術」という両極端な考えに陥ってしまう。
 しかし、ブロックチェーンを理解できたところで、さらに注意が必要である。

 

 

「ブロックチェーンが信用できること」と、「システム全体が信用できること」とは別問題だ。(本書235ページ)


 結局、その技術を社会がどう使うかによるのだ。その使われ方が適切かどうかを監視するためにも、技術の基本的知識を押さえておかなくてはならない。
 まずは本書にある通り、自分のPCのコマンドプロンプトを使って、ハッシュ値を算出してみよう。同じ数値が出たとき、私は感動しちゃいました。