原理講論和訳研究194
「予定論」の最初のところで、

「古今を通じて、予定説に対する神学的論争は、信徒たちの信仰生活の実践において、少なからぬ混乱を引き起こしてきたことは事実である。それでは、どうしてこのような結果をもたらしたのかということを、我々は知らなければならない。
聖書には、人生の栄枯盛衰や、幸不幸はもちろん、堕落人間の救いの在り方から、国家の興亡盛衰に至るまで、すべてが神の予定によってなされると解釈できる聖句が多くある。この例を挙げれば、ロマ書八章29節以下に、「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」とある。また、ロマ書九章15節以下には「『わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ』。ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである」と言われ、ロマ書九章21節には、「陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか」と言われた。それのみならず、ロマ書九章11節以下に、神は胎中にいるときから、ヤコブを愛し、エサウを憎んで、長子であるエサウは次子であるヤコブに仕えるであろうと言われた。
このように、完全に予定説を立てることのできる聖書的な根拠が多くある。しかし、我々は、このような予定説を否定する他の聖書的な根拠も多くあるということを忘れてはならない。例を挙げれば、創世記二章17節に、人間始祖の堕落を防ぐために、「取って食べてはならない」と警告されたのを見れば、人間の堕落は、どこまでも、神の予定からもたらされたものではなく、人間自身が、神の命令に従わなかった結果であるということは明らかである。また、創世記六章6節には、人間始祖が堕落してしまったので、神は人間をつくったことを悔いて嘆息なさったという記録があるが、もしも、人間が神の予定によって堕落したとすれば、神御自身の予定どおりに堕落した人間を前にして、嘆かれるはずはないのである。また、ヨハネ福音書三章16節に、イエスを信ずれば、だれでも救いを受けると言われたが、このみ言は、すなわち、滅ぼされるように予定された人は一人もいないということを意味するのである。
だれでもよく知っている聖句、マタイ福音書七章7節に、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」と言われたみ言を見れば、すべてのことが神の予定のみによってなされるのではなく、人間の努力によっても左右されるということが分かるのである。もしすべてのみ旨の成就が、神の予定によってのみなされるのであれば、何のために人間の努力を強調する必要があるであろうか。ヤコブ書五章14節に、病んでいる者は祈ってもらうがよいというみ言があるのを見れば、病むことも、また、治ることも、やはり、みな神の予定のみによってなされるのではないということが分かる。もし、すべてのことが、神の予定の中で、避けることのできない運命として決定されるのだとすれば、人間は苦労して祈祷する必要もないであろう。
従来の予定説をそのまま認めれば、祈祷とか、伝道とか、慈善行為など人間のすべての努力は、神の復帰摂理にとって何らの助けにもならないし、全く無意味なことといわなければなるまい。なぜならば、絶対者たる神が予定されたことであれば、それもやはり、絶対的であるがゆえに、人間の努力によっては、変更できないからである。
このように、予定説をめぐって賛否両論があり、そしてそのどちらも、自説の正しさを裏付ける聖書の文字的な根拠が十分にあるのである。」

という訳文があるが、ここに掲載した文の最後のところを問題にする。すなわち、
「このように、予定説をめぐって賛否両論があり、そしてそのどちらも、自説の正しさを裏付ける聖書の文字的な根拠が十分にあるのである。」
である。この訳文のハングル原文を忠実に訳すと、
「このように、予定説を巡って賛否両論がすべて立てられることができる聖書の文字的な根拠が不十分であるために、これに対する教理の論争は避ける道がないのである。」
となる。
原理講論和訳研究193
「予定論」の最初のところで、

「古今を通じて、予定説に対する神学的論争は、信徒たちの信仰生活の実践において、少なからぬ混乱を引き起こしてきたことは事実である。それでは、どうしてこのような結果をもたらしたのかということを、我々は知らなければならない。
聖書には、人生の栄枯盛衰や、幸不幸はもちろん、堕落人間の救いの在り方から、国家の興亡盛衰に至るまで、すべてが神の予定によってなされると解釈できる聖句が多くある。この例を挙げれば、ロマ書八章29節以下に、「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」とある。また、ロマ書九章15節以下には「『わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ』。ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである」と言われ、ロマ書九章21節には、「陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか」と言われた。それのみならず、ロマ書九章11節以下に、神は胎中にいるときから、ヤコブを愛し、エサウを憎んで、長子であるエサウは次子であるヤコブに仕えるであろうと言われた。
このように、完全に予定説を立てることのできる聖書的な根拠が多くある。」

という訳文があるが、ここに掲載した文の最後のところを問題にする。すなわち、
「このように、完全に予定説を立てることのできる聖書的な根拠が多くある。」
である。この訳文のハングル原文を忠実に訳すと、
「このように、完全予定説を立てることができる聖書的な根拠は多くある。」
となる。

原理講論和訳研究192
「予定論」の最初のところで、

「古今を通じて、予定説に対する神学的論争は、信徒たちの信仰生活の実践において、少なからぬ混乱を引き起こしてきたことは事実である。それでは、どうしてこのような結果をもたらしたのかということを、我々は知らなければならない。
聖書には、人生の栄枯盛衰や、幸不幸はもちろん、堕落人間の救いの在り方から、国家の興亡盛衰に至るまで、すべてが神の予定によってなされると解釈できる聖句が多くある。この例を挙げれば、ロマ書八章29節以下に、「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」とある。また、ロマ書九章15節以下には「『わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ』。ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである」と言われ、ロマ書九章21節には、「陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか」と言われた。それのみならず、ロマ書九章11節以下に、神は胎中にいるときから、ヤコブを愛し、エサウを憎んで、長子であるエサウは次子であるヤコブに仕えるであろうと言われた。
このように、完全に予定説を立てることのできる聖書的な根拠が多くある。しかし、我々は、このような予定説を否定する他の聖書的な根拠も多くあるということを忘れてはならない。例を挙げれば、創世記二章17節に、人間始祖の堕落を防ぐために、「取って食べてはならない」と警告されたのを見れば、人間の堕落は、どこまでも、神の予定からもたらされたものではなく、人間自身が、神の命令に従わなかった結果であるということは明らかである。また、創世記六章6節には、人間始祖が堕落してしまったので、神は人間をつくったことを悔いて嘆息なさったという記録があるが、もしも、人間が神の予定によって堕落したとすれば、神御自身の予定どおりに堕落した人間を前にして、嘆かれるはずはないのである。また、ヨハネ福音書三章16節に、イエスを信ずれば、だれでも救いを受けると言われたが、このみ言は、すなわち、滅ぼされるように予定された人は一人もいないということを意味するのである。
だれでもよく知っている聖句、マタイ福音書七章7節に、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」と言われたみ言を見れば、すべてのことが神の予定のみによってなされるのではなく、人間の努力によっても左右されるということが分かるのである。」

という訳文があるが、ここに掲載した文の最後のところを問題にする。すなわち、
「…すべてのことが神の予定のみによってなされるのではなく、人間の努力によっても左右されるということが分かるのである。」
である。この訳文のハングル原文を忠実に訳すと、
「…すべてのことが神の予定のみによってなされるのではなく、人間の努力によって左右されるということが分かるのである。」
となる。

原理講論和訳研究191
「復活論」の「第三節 再臨復活による宗教統一、(三)再臨復活による非宗教人の統一」において、

「いかなる宗教も信じないで、ただ、良心的に生活して他界した霊人たちも、再臨復活の恵沢を受けるために、各々彼らに許されている時機に、みな地上に再臨するのである。そして、彼らも良心的な地上人をして、再臨主を信じ侍って、そのみ旨を完成するように協助するようになるのである。マタイ福音書二章2節以下の記録によれば、イrエスの誕生のとき、占星術者(東方博士)たちが、イエスを訪ねてきて敬拝して贈り物をささげたとあるが、これはこのような例に属するものといえる。」

という訳文があるが、その最後の文を問題にする。
「マタイ福音書二章2節以下の記録によれば、イエスの誕生のとき、占星術者(東方博士)たちが、イエスを訪ねてきて敬拝して贈り物をささげたとあるが、これはこのような例に属するものといえる。」

この部分のハングル原文を忠実に訳すと、
「マタイ福音書二章2節以下の記録よれば、、イエスの誕生のとき、占星術者(東方博士)たちが、イエスを探して来て敬拝して侍ったことはこのような例に属するものといえる。」

原理講論和訳研究190
「復活論」の「第三節 再臨復活による宗教統一、(三)再臨復活による非宗教人の統一」において、

「いかなる宗教も信じないで、ただ、良心的に生活して他界した霊人たちも、再臨復活の恵沢を受けるために、各々彼らに許されている時機に、みな地上に再臨するのである。そして、彼らも良心的な地上人をして、再臨主を信じ侍って、そのみ旨を完成するように協助するようになるのである。」

という訳文があるが、その最後の文を問題にする。

「そして、彼らも良心的な地上人をして、再臨主を信じ侍って、そのみ旨を完成するように協助するようになるのである。」

この部分のハングル原文を忠実に訳すと、
「そして、彼らも良心的な地上人をして、再臨主を探して侍って、そのみ旨を完成するように協助するようになるのである。」

原理講論和訳研究189
「復活論」の「第三節 再臨復活による宗教統一、(二)再臨復活による他のすべての宗教の統一」において、

「既に、終末論で論じたように、今まで同一の目的を指向してきたすべての宗教が、一つのキリスト教文化圏へ次第に吸収されつつある歴史的事実を、我々は否定することができない。それゆえに、キリスト教はキリスト教だけのための宗教ではなく、過去歴史上に現れたすべての宗教の目的までも、共に成就しなければならない最終的な使命をもって現れた宗教である。それゆえに、キリスト教の中心として来られる再臨主は、結局、仏教で再臨すると信じられている弥勒仏にもなるし、儒教で顕現するといって待ち望んでいる真人にもなる。そして彼はまた、それ以外のすべての宗教で、各々彼らの前に顕現するだろうと信じられている、その中心存在ともなるのである。
 このように、キリスト教で待ち望んでいる再臨のイエスは、他のすべての宗教で再臨すると信じられているその中心人物でもあるので、他の宗教を信じて他界した霊人たちも、彼がもっている霊的な位置に従って、それに適応する時機は各々異なるが、再臨復活の恵沢を受けるために、楽園にいる霊人たちと同じく再臨しなければならない。そして、各自が地上にいたとき信じていた宗教と同じ宗教をもつ地上の信徒たちを、再臨されたイエスの前に導いて、彼を信じ侍らせることによって、み旨を完成するように、協助せざるを得なくなるのである。」

という訳文があるが、この最後の文章を問題にする。すなわち、

「そして、各自が地上にいたとき信じていた宗教と同じ宗教をもつ地上の信徒たちを、再臨されたイエスの前に導いて、彼を信じ侍らせることによって、み旨を完成するように、協助せざるを得なくなるのである。」

という文である。この訳文のハングル原文を直訳すれば、

「そして、各自が地上にいたとき信じていた宗教の地上信者たちを、再臨なされたイエスの前に導いて、彼を信じて侍って、み旨を成し遂げるように、協助せざるを得ないのである。」

となると思う。


原理講論和訳研究188
「復活論」の「第二節 復活摂理、(四)再臨復活から見た輪廻説」において、

「神の復帰摂理は、その全体的な目的を完成なさるために、各個体を召され、その各個体に適合した使命を分担させてこられた。そして、人間がこの使命を継続的に彼と同一の型の個体へと伝承しながら、悠久なる歴史の期間を通じて、その分担された使命分野を漸次完遂するように導かれたのである。」

という訳文があるが、その二番目の文の訳を問題にする。すなわち、

「そして、人間がこの使命を継続的に彼と同一の型の個体へと伝承しながら、悠久なる歴史の期間を通じて、その分担された使命分野を漸次完遂するように導かれたのである。」

という文である。この文章のハングル原文を直訳すれば、

「そして、人間はこの使命を継続的に彼と同一な型の個体へと伝承しながら、悠久な歴史の期間を通して、その分担された使命分野を漸次的に完遂してきたのである。」

というように、主語が「人間」となっている。

原理講論和訳研究187
「復活論」で「第三節 再臨復活による宗教統一、(二)再臨復活による他のすべての宗教の統一」において、

「既に、終末論で論じたように、今まで同一の目的を指向してきたすべての宗教が、一つのキリスト教文化圏へ次第に吸収されつつある歴史的事実を、我々は否定することができない。それゆえに、キリスト教はキリスト教だけのための宗教ではなく、過去歴史上に現れたすべての宗教の目的までも、共に成就しなければならない最終的な使命をもって現れた宗教である。それゆえに、キリスト教の中心として来られる再臨主は、結局、仏教で再臨すると信じられている弥勒仏にもなるし、儒教で顕現するといって待ち望んでいる真人にもなる。そして彼はまた、それ以外のすべての宗教で、各々彼らの前に顕現するだろうと信じられている、その中心存在ともなるのである。」

という訳文があるが、この最後の文について考える。

「それゆえに、キリスト教の中心として来られる再臨主は、結局、仏教で再臨すると信じられている弥勒仏にもなるし、儒教で顕現するといって待ち望んでいる真人にもなる。そして彼はまた、それ以外のすべての宗教で、各々彼らの前に顕現するだろうと信じられている、その中心存在ともなるのである。」

この部分であるが、ハングル原文を直訳すると、以下のようになると思う。

「それゆえに、キリスト教の中心として来られる再臨主は、結局、仏教で再臨するものとして待ち望んでいる弥勒仏にもなるのであり、儒教で顕現するものとして待ち望んでいる真人、一方ではまた、多くの韓国人たちが待ち望んでいる正道令にもなるのである。そして、彼はそれ以外にすべての宗教でそれぞれ彼らの前に現れるだろうと信じている、その中心存在にもなるのである。」


原理講論和訳研究186
「復活論」の「第二節 復活摂理、(四)再臨復活から見た輪廻説」において、

「神の復帰摂理は、その全体的な目的を完成なさるために、各個体を召され、その各個体に適合した使命を分担させてこられた。そして、人間がこの使命を継続的に彼と同一の型の個体へと伝承しながら、悠久なる歴史の期間を通じて、その分担された使命分野を漸次完遂するように導かれたのである。
 復帰摂理は個人から出発して、家庭と民族を経て、世界を越え、天宙まで復帰していくのである。それゆえに、個人に任せられた使命は、たとえ部分的なものであっても、その型は個人型から始まって、家庭と民族と世界の各型へと、その範囲を広めてきたのである。聖書でその例を挙げれば、アブラハムは個人型または家庭型であり、モーセは民族型であり、イエスは世界型であった。
 ところで、地上で自分の使命を完成できずに去った霊人たちは、各々自分たちが地上で受けもったのと同じ使命をもった同型の地上人に再臨して、そのみ旨が成就するように協助するのである。このときに、その協助を受ける地上人は、自分自身の使命を果たすと同時に、自分を協助する霊人の使命までも代理に成し遂げるのである。ゆえに、この使命を中心として見れば、その地上人の肉身は、彼を協助する霊人の肉身ともなるのである。このようになれば、その地上人は彼を協助している霊人の再臨者となるので、その地上人はしばしば彼を協助する霊人の名前で呼ばれるのである。このようなわけで、地上人はしばしば、霊人が輪廻転生した実体のように現れるようになるのである。」

という訳文があるが、この最後の文をとりあげる。
「このようなわけで、地上人はしばしば、霊人が輪廻転生した実体のように現れるようになるのである。」
の和訳についてである。
ハングル原文の直訳は、
「ここにおいて、その地上人はしばしば、その霊人が輪廻転生した実体のように現れるようになるのである。」
となる。


原理講論和訳研究185
「復活論」の「第二節 復活摂理、(四)再臨復活から見た輪廻説」において、

「神の復帰摂理は、その全体的な目的を完成なさるために、各個体を召され、その各個体に適合した使命を分担させてこられた。そして、人間がこの使命を継続的に彼と同一の型の個体へと伝承しながら、悠久なる歴史の期間を通じて、その分担された使命分野を漸次完遂するように導かれたのである。
 復帰摂理は個人から出発して、家庭と民族を経て、世界を越え、天宙まで復帰していくのである。それゆえに、個人に任せられた使命は、たとえ部分的なものであっても、その型は個人型から始まって、家庭と民族と世界の各型へと、その範囲を広めてきたのである。聖書でその例を挙げれば、アブラハムは個人型または家庭型であり、モーセは民族型であり、イエスは世界型であった。
 ところで、地上で自分の使命を完成できずに去った霊人たちは、各々自分たちが地上で受けもったのと同じ使命をもった同型の地上人に再臨して、そのみ旨が成就するように協助するのである。このときに、その協助を受ける地上人は、自分自身の使命を果たすと同時に、自分を協助する霊人の使命までも代理に成し遂げるのである。ゆえに、この使命を中心として見れば、その地上人の肉身は、彼を協助する霊人の肉身ともなるのである。」

という訳文があるが、この最後の文をとりあげる。
「このときに、その協助を受ける地上人は、自分自身の使命を果たすと同時に、自分を協助する霊人の使命までも代理に成し遂げるのである。ゆえに、この使命を中心として見れば、その地上人の肉身は、彼を協助する霊人の肉身ともなるのである。」
である。
霊人の使命までも代理に成し遂げるのである。ゆえに」などの語句は、和訳者が挿入したものである。
原文を直訳すれば、以下のようになると思う。

「このときに、その協助を受ける地上人は、自分自身の使命も成し遂げていくと同時に、自身を協助する霊人の使命を中心として見れば、その地上人の肉身は彼を協助する霊人の肉身になることもあるのである。」