人間を分類してみる。
まず、次の二つに大別する。
A「善の人間始祖」か、
B「善の人間始祖以外の人間」

A「善の人間始祖」は、「真の父母」のみである。
B「善の人間始祖以外の人間」は、更に以下に二つに分けることができる。

B‐1「善の人間始祖に侍る者」か、
B‐2「善の人間始祖に侍らない者

B‐1「善の人間始祖に侍る者」とは、「真のお母様の指示に従う者」である。
ここに分類されるのは、統一グル―プである。

B‐2「善の人間始祖に侍らない者」とは、「真のお母様の指示に従わない者」である。
「原理のみ言」、「人類一家族理想世界実現」などを語りながら、
しかし、「真のお母様の指示に従わない者」である。

「善の中心」「真理の中心」「本心の中心」である「真の父母」に「侍る」か、「侍らない」かによって分類される。
この「判別式」は、二千年前の洗礼ヨハネにおいても適用される。
彼は、イエスを証したが、イエスに侍らなかった。

原理講論和訳研究73
「堕落論」の「(六)堕落性本性」のところに、

「このような堕落性本性が生ずるようになった根本的動機は、天使長がアダムに対する嫉妬心を抱いたところにあった。それでは、善の目的のために創造された天使長から、いかにしてそのような愛に対する嫉妬心が生ずるようになったのであろうか。元来、天使長にも、創造本性として、欲望と知能とが賦与されていたはずであった。」

とある。
この「賦与されていたはずであった」の原文は「부여되어 있었다」であり、
その直訳は「賦与されていた」である。
原理講論和訳研究72
「メシヤ論」で「第二節 エリヤの再臨と洗礼ヨハネ、Ⅰ.エリヤの再臨を中心としたユダヤ人の心的動向」のところに次のような和訳文がある。

「統一王国時代において、ソロモンの堕落により、彼の神殿理想はサタンの侵入を受けるようになった。そして、成就できなかった神殿理想を再び探し立てて、実体神殿としてのメシヤを迎えさせるために、神は四大預言者と十二小預言者を遣わし、サタン分立の摂理をされた。また、神は特別預言者エリヤを遣わし、カルメル山でバアル預言者たちと対決させて、バアル神を滅ぼされたのも、このような理想実現のみ言を遮るサタンを滅亡させるためであった。しかし、エリヤは彼の天的な使命を完遂できずに昇天したので(列王下二・11)、メシヤを迎えるためにサタンを分立していく路程で、再びサタンが横行するようになったのである。ゆえに、イエスの実体神殿理想が成し遂げられるためには、前もって、エリヤが地上で完遂できなかった、サタン分立の使命を継承完遂せしめる摂理がなくてはならない。このような摂理的な必然性によって、預言者マラキは、エリヤが再臨することを預言したのであった(マラキ四・5)。預言者たちの預言を信じていたユダヤ人たちの唯一の願いは、もちろんメシヤの降臨であった。」

この最後の文の「唯一の願い」を問題にする。原文直訳は「切なる願い」である。
これらはニュアンスが違う。
原理講論和訳研究71
「メシヤ論」で「第二節 エリヤの再臨と洗礼ヨハネ、Ⅰ.エリヤの再臨を中心としたユダヤ人の心的動向」のところに次のような和訳文がある。

「統一王国時代において、ソロモンの堕落により、彼の神殿理想はサタンの侵入を受けるようになった。そして、成就できなかった神殿理想を再び探し立てて、実体神殿としてのメシヤを迎えさせるために、神は四大預言者と十二小預言者を遣わし、サタン分立の摂理をされた。また、神は特別預言者エリヤを遣わし、カルメル山でバアル預言者たちと対決させて、バアル神を滅ぼされたのも、このような理想実現のみ言を遮るサタンを滅亡させるためであった。しかし、エリヤは彼の天的な使命を完遂できずに昇天したので(列王下二・11)、メシヤを迎えるためにサタンを分立していく路程で、再びサタンが横行するようになったのである。ゆえに、イエスの実体神殿理想が成し遂げられるためには、前もって、エリヤが地上で完遂できなかった、サタン分立の使命を継承完遂せしめる摂理がなくてはならない。このような摂理的な必然性によって、預言者マラキは、エリヤが再臨することを預言したのであった(マラキ四・5)。」

この最後の文の「再臨する」を問題にする。
原文直訳は「再臨しなければならない」である。
エリヤが再臨して「サタン分立」をする。その「サタン分立」が必要不可欠なのだろうが、原文にはそれが表現されている。
原理講論和訳研究70
「第五章 メシヤ再臨準備時代」の「第三節 政治・経済および思想の成熟期、(一)民主主義、(2)アベル型の民主主義」において、

「そればかりでなく、ジェームズ二世の専制と国教強化が激しくなるに従って、オランダの総督であった彼の婿オレンジ公ウイリアム(William III 1650~1702)は、一六八八年に軍隊を率い、信仰の自由と民権の擁護のためイギリスに上陸し、無血で王位に上ったのであった。ウイリアムが王位につくや否や、彼は仮議会に上申された「権利の宣言」を承認し、議会の独立的な権利を認定し、のち、この宣言は「権利の章典」として公布され、英国憲法の基本となったのである。」

という和訳文がある。この中の「信仰の自由」は、原文では「信教の自由」である。

原理講論和訳研究69
「総序」の冒頭部分の和訳文は、自分にとってはとても格調高く感じられる。
とても素晴らしい。

下はハングル文の下に、自分の試訳を記し、その下に「日本語版原理講論」の
和訳文を掲載しておく。

인간은 누구나 불행을 물리치고 행복을 찾아 이루려고 몸부림치고 있다.
人間は、誰でも、不幸を退けて幸福を探し、成し遂げようと身もだえしている。
人間は、何人といえども、不幸を退けて幸福を追い求め、それを得ようともがいている。

개인의 사소한 일로부터 역사를 좌우하는 큰 일에 이르기까지 그것들은 결국
個人のささいなことから、歴史を左右する大きなことに至るまで、それらは結局、
個人のささいな出来事から、歴史を左右する重大な問題に至るまで、すべては結局

하나같이 보다 행복해지려는 삶의 표현인 것이다.
等しく、より幸福になろうとする生の表現なのである。
のところ、等しく、幸福になろうとする生の表現にほかならないのである。
原理講論和訳研究68
「第二節 堕落の動機と経路」の「(二)霊的堕落と肉的堕落、(1)霊的堕落」からであるが、

「被造世界は、そもそも、神の愛の主管を受けるように創造されている。従って、愛は被造物の命の根本であり、幸福と理想の要素となるのである。それゆえに、この愛をより多く受ける存在であればあるほど、より一層美しく見えるのである。ゆえに神の僕として創造された天使が、神の子女として創造されたエバに対したとき、彼女が美しく見えたというのも当然のことであった。ましてやエバがルーシェルの誘惑に引かれてくる気配が見えたとき、ルーシェルはエバから一層強い愛の刺激を受けるようになったのである。こうなるともう矢も盾もたまらず、ルーシェルは死を覚悟してまで、より深くエバを誘惑するようになった。このようにして、愛に対する過分の欲望によって自己の位置を離れたルーシェルと、神のように目が開けることを望み、時ならぬ時に、時のものを願ったエバとが(創三・5、6)、互いに相対基準をつくり、授受作用をするようになったため、それによって非原理的な愛の力は、彼らをして不倫なる霊的性関係を結ぶに至らしめてしまったのである。」

という和訳文がある。その中に「霊的性関係」とあるが、その原文を直訳すれば、「霊的な貞操関係」である。


「(2)肉的堕落」のところも同様である。

「だからこそエバは自分を誘惑した天使長と同じ立場で、アダムを誘惑したのである。アダムがルーシェルと同じ立場に立っていたエバと相対基準を造成し、授受作用をすることによって生じた非原理的な愛の力は、アダムをして、創造本然の位置より離脱せしめ、ついに彼らは肉的に不倫なる性関係を結ぶに至ったのである。」

肉的に不倫なる性関係を結ぶに至った」というところの原文を直訳すれば
肉的な不倫の貞操関係を結ぶようになった」となる。

しかし、「貞操関係」という日本語はないと思うので、これを「性関係」と訳すのは納得できる。
原理講論和訳研究67
「総序」において、

「このような観点から見るとき、我々は、人間は堕落したのだという結論に到達する。と同時に、だれしもこの結論に対しては反駁する余地がないということをもまた知るのである。人間は、このように堕落して自己破滅に瀕しているということを知っているがゆえに、邪心からくる悪の欲望を取り除き、本心から生じてくる善の欲望に従って、一つの目的を指向することによって、それ自体の矛盾性を除去しようと、必死の努力をしているのである。しかし、悲しいかな、我々は、その究極において、善と悪とがそもそもいかなるものなのかという問題を解くことができずにいるのである。例えば、有神論と無神論とについて考えるとき、二つのうちいずれか一つを善と見なせば、他の一つは悪ということになるのであるが、我々はいまだどちらが正しいかということに対する絶対的な定説をもっていないのである。いわんや、人間は、善の欲望を生ぜしめる本心というものがそもそもいかなるものなのか、また、この本心に反して悪の欲望を起こさしめる邪心というものがいったいどこから生じてくるものなのか、さらにまた、人間にこのような矛盾性をもたしめ、破滅を招来せしめるその根本原因はいったい何なのかなどという問題に対しては、全く無知なのである。」

という訳文がある。この中の「いわんや」というところを考える。
ハングル原文の「더구나」を訳したものであるが、
このハングルの意味は「その上、その上に、しかも、さらに、なお」である。
それを「いわんや」と訳している。
ところが、「いわんや」の意味は「言うまでもなく、言うに及ばず、まして」であるから、ニュアンスが違う。

和訳文中の「そもそも」は、原文にはないので、これは和訳者の誇張表現である。

和訳文中の「邪心」は、原文直訳では「悪なる心」である。
邪心」にあたるハングルは存在しており、「사심」である。
ところが、ハングル原文ではこの「「사심」を使わず「악한 마음」という語を使っている。
よって、そのまま直訳して「悪なる心」とした方がいいと、自分は思う。

和訳文中の「いったい何なのか」において、この「いったい」は和訳者の誇張表現であり、
そして、この個所の原文直訳は「どこにあるのか」である。
即ち、原文で「根本原因はどこにあるのか」と表現されているところを「根本原因はいったい何なのか」と訳している。
原理講論和訳研究66
「摂理的同時性から見た復帰摂理時代と復帰摂理延長時代」の「エジプト苦役時代とローマ帝国迫害時代」において、

「この時代を、実体的な同時性をもって蕩減復帰するローマ帝国迫害時代においても、イスラエルの選民たちが、イエスを生きた供え物としてささげる献祭に失敗し、彼を十字架に引き渡すことによって、サタンの侵入を受けるようになったので、メシヤ降臨準備時代400年のサタン分立期間を蕩減復帰するために、イエスを中心とする十二弟子と七十人の門徒、そうして、キリスト教信徒たちが、ローマ帝国において、400年の間、惨めな迫害を受けなければならなかったのである。」

と訳されているところがある。
この訳文では、「サタンの侵入を受けるようになった」の主語は、
イスラエルの選民たち」である。

ところが、韓国語原理講論の原文では
사탄의 침범을 당하게 된 메시아 강림준비시대(降臨準備時代) 400년의 사탄 분립기간
とある。その意味は、
サタンの侵犯(和訳では侵入)を受けるようになった メシヤ降臨準備時代400年のサタン分立期間
であるので、
サタンの侵犯(和訳では侵入)を受けるようになった」の主語は、
メシヤ降臨準備時代400年のサタン分立期間」である。

原文を直訳しておく。
「この時代を実体的な同時性で蕩減復帰するローマ帝国迫害時代においても、イスラエル選民たちが、イエスを生きた祭物として捧げる献祭に失敗して、彼を十字架に引き渡すことによって、サタンの侵犯を受けるようになったメシヤ降臨準備時代400年のサタン分立期間を蕩減復帰するために、イエスを中心とする12弟子と70門徒およびキリスト教信徒達が、ローマ帝国で400年の間、凄惨な迫害を受けなければならなかったのである。」

以上より、原文と和訳では意味が違ってくる。
原理講論和訳研究65
「予定論」のところで、

「このように、予定説をめぐって賛否両論があり、そしてそのどちらも、自説の正しさを裏付ける聖書の文字的な根拠が十分にあるのである。それならば、このような問題が、原理によっていかに解決できるのだろうか。予定論に対する問題を、我々は次のように分けて考えてみることにしよう。」

とあるが、ここで「十分にある」と訳されているところは、直訳は「不十分である」。
即ち、

「このように、予定説をめぐって賛否両論がすべて立てられることができる聖書の文字的な根拠が、不十分であるために、これに対する教理の論争は避ける道がないのである。」

となっている。