原理講論和訳研究65
「予定論」のところで、
「このように、予定説をめぐって賛否両論があり、そしてそのどちらも、自説の正しさを裏付ける聖書の文字的な根拠が十分にあるのである。それならば、このような問題が、原理によっていかに解決できるのだろうか。予定論に対する問題を、我々は次のように分けて考えてみることにしよう。」
とあるが、ここで「十分にある」と訳されているところは、直訳は「不十分である」。
即ち、
「このように、予定説をめぐって賛否両論がすべて立てられることができる聖書の文字的な根拠が、不十分であるために、これに対する教理の論争は避ける道がないのである。」
となっている。
「予定論」のところで、
「このように、予定説をめぐって賛否両論があり、そしてそのどちらも、自説の正しさを裏付ける聖書の文字的な根拠が十分にあるのである。それならば、このような問題が、原理によっていかに解決できるのだろうか。予定論に対する問題を、我々は次のように分けて考えてみることにしよう。」
とあるが、ここで「十分にある」と訳されているところは、直訳は「不十分である」。
即ち、
「このように、予定説をめぐって賛否両論がすべて立てられることができる聖書の文字的な根拠が、不十分であるために、これに対する教理の論争は避ける道がないのである。」
となっている。