原理講論和訳研究81
「堕落論」の「第一節 罪の根」の「生命の木と善悪を知る木」において、

「なぜなら遺伝は、ただその血統を通じてのみなされるからである。ゆえに、ある一人の人間が、何か物を食べたなどということによって、その結果が子孫代々にまで遺伝されるはずはない。ある信徒たちは、神がそのみ言に対して人間が従順であるかどうかを試すために善悪を知る木の果を創造し、それを食べてはならぬと命令されたのであると信じている。しかし、全き愛の方であられる神が、人間に死を伴うような方法でもって、かくも無慈悲な試みをされたとは到底考えることができない。アダムとエバは、彼らが善悪の果を取って食べる日には、必ず死ぬであろうと言われたみ言のように、それを食べるときには死ぬということを知っていたはずである。それにもかかわらず彼らはこれを取って食べたのである。飢えてもいなかったアダムとエバが食物などのために、死を覚悟してまで、かくも厳重な神のみ言を犯したとは到底考えられないのである。」

という訳文があるが、その中の「全き愛の方であられる神」の原文は「愛の神」であり、
また、上記掲載の文中に「到底」という言葉が二ヶ所使われているが、原文にはない。
日本語訳は誇張された表現であることを知っておく。
原理講論和訳研究80
「堕落論」の「第五節 自由と堕落、(一)自由の原理的意義」において、

「自由に対する原理的な性格を論ずるとき、第一に、我々は、原理を離れた自由はない、という事実を知らなければならない。そして、自由とは、自由意志とこれに従う自由行動とを一括して表現した言葉なのである。前者と後者とは、性相と形状との関係にあり、これが一体となって初めて完全な自由が成立する。それゆえに、自由意志のない自由行動なるものはあり得ず、自由行動の伴わない自由意志というものも、完全なものとはなり得ないのである。自由行動は、自由意志によって現れるものであり、自由意志はあくまでも心の発露である。しかし、創造本然の人間においては、神のみ言、すなわち、原理を離れてはその心が働くことができないので、原理を離れた自由意志、あるいは、それに基づく自由行動はあり得ない。従って、創造本然の人間には、原理を離れた自由なるものはあり得ないのである。
 第二に、責任のない自由はあり得ない。」

とある。最後の「責任のない自由はあり得ない。」と訳したところのハングル原文は
「책임(責任) 없는 자유는 없다.」である。
これは、直訳すれば、「責任のない自由はない。」である。
原理講論和訳研究79
「堕落論」の「第五節 自由と堕落、(一)自由の原理的意義」において、

「自由に対する原理的な性格を論ずるとき、第一に、我々は、原理を離れた自由はない、という事実を知らなければならない。そして、自由とは、自由意志とこれに従う自由行動とを一括して表現した言葉なのである。前者と後者とは、性相と形状との関係にあり、これが一体となって初めて完全な自由が成立する。それゆえに、自由意志のない自由行動なるものはあり得ず、自由行動の伴わない自由意志というものも、完全なものとはなり得ないのである。自由行動は、自由意志によって現れるものであり、自由意志はあくまでも心の発露である。」

という訳文がある。この「あくまでも」は、原文を直訳すれば、「すなわち」である。
原理講論和訳研究78
「堕落論」の「第五節 自由と堕落、(二)自由と人間の堕落」において、

「前項で詳述したように、自由は原理を離れてはあり得ない。従って、自由は自らの創造原理的な責任を負うようになるし、また、神を喜ばせ得るような実績を追求するために、自由意志による自由行動は、善の結果のみをもたらすようになる。それゆえに人間は決して自由によって堕落することはできないのである。コリントⅡ三章17節に「主の霊のあるところには、自由がある」と言われた。我々は、このような自由を、本心の自由というのである。
 アダムとエバは、神から善悪の果を取って食べてはならないという戒めを受けた以上、彼らは、神の干渉なくして、もっぱら本心の自由によって、その命令を守るべきであった。」

との訳文がある。この「戒め」にあたるハングル原文の語句は「勧告」である。
よって、引用した訳文の最後の文章は、原文直訳を目指せば、
「アダムとエバは、神から善悪の果を取って食べてはならないという勧告を受けた以上、彼らは当然、神の干渉なくして、もっぱら本心の自由によって、その命令を守るべきであった。」
となる。
原理講論和訳研究77
「堕落論」の冒頭に、

「人間はだれでも悪を退け、善に従おうとする本心の指向性をもっている。しかし、すべての人間は自分も知らずにある悪の力に駆られ、本心が願うところの善を捨てて、願わざる悪を行うようになるのである。このような悪の勢力の中で、人類の罪悪史は綿々と続いてきた。キリスト教ではこの悪の勢力の主体をサタンと呼ぶのである。そして、人間がこのサタンの勢力を清算できないのは、サタンが何であり、またそれがどうしてサタンとなったかという、その正体を知らないからである。」

という訳文がある。この「どうして」と訳したハングル原文は、
「어떻게 해서」であるから、直訳すれば「どのようにして」である。
日本語の「どうして」の意味は「①どんなふうにして。いかにして。②なぜ。」などの意味があるが、
ここでは①の「どんなふうにして。いかにして」である。
そのことを明確にするために、ここでは直訳して「どのようにして」とした方がいいのではないか。
原理講論和訳研究76
「堕落論」の「第六節 神が人間始祖の堕落行為を干渉し給わなかった理由」において、

「神は全知全能であられるので人間始祖の堕落行為を知られなかったはずがない。また彼らが堕落行為を行わないように、それを防ぐ能力がなかったわけでもない。それでは、神はなぜ、彼らの堕落行為を知っておられながら、それを干渉し防ぎ給わなかったのであろうか。これは、今日まで人類歴史を通じて、解くことのできなかった重大な問題の中の一つである。我々は、神が人間の堕落行為を干渉なさらなかった理由として、次の三つの条件を挙げることができる。」

とあるが、最後の「次の三つの条件」を問題にする。
原文のハングルは「다음의 세 가지」であるので、
次の三つ」でいいのではないか。

「我々は、神が人間の堕落行為干渉なさらなかった理由として、次の三つを挙げることができる。」
原理講論和訳研究75
「堕落論」の「第五節 自由と堕落、(三)自由と堕落と復帰」において、

「天使は、人間に仕えるために創造された。従って、人間が天使に対するのは、どこまでも人間の自由に属する問題なのである。しかし、天使から誘惑された当時のエバは、いまだ知的、あるいは心情的に、未完成期にいた。」

とあるが、ここにある「知的、あるいは心情的に」を問題にする。
ハングル原文は「아직도 지적으로나 심정적으로나」となっているので、
これは「知的にも心情的にも」と訳すことができる。
原理講論和訳研究74
「堕落論」の「第五節 自由と堕落、(三)自由と堕落と復帰」において、

「天使は、人間に仕えるために創造された。」

との和訳文がある。この「仕える」と訳された原文のハングルには「시종」[侍從]という言葉が使われている。
この「侍従」の意味は「「君主の側近くに仕えること。また、その人」だから、
「天使は、人間に仕えるために創造された。」
を、
「天使は、人間の側近くに仕えるために創造された。」
と訳してもいいのかもしれない。
「原理が偉大である、驚くべき真理である」、
このことを私たちは確認することに投入すべきではないでしょうか。

心霊的にそれを感得できる人もいるでしょう。
そのようなことができない人は、知的に「原理が偉大である」ことを
追求しなければなりません。

その第一歩が今までのキリスト教の一般的な考え方との比較をする
ことではないでしょうか。
他と比較してその偉大さを知ることができるだろうからです。

文鮮明先生は、既成キリスト教と統一原理との関係は、
幼稚園と大学院との差以上の開きがあるのだと指摘されています。

「…そのような幼稚園児にも及ばない実力をもって博士学位を検証し、博士学位の総会長になった文総裁を「異端である」と言うことができますか。」[天聖経、第3章 人間堕落と復帰、1節人間堕落の内的意味、3.悪魔サタンは淫乱によって堕落した]

創造原理、堕落論、復帰原理で構成される「統一原理」は、
論理一貫していることを私たちは知っています。
この「統一原理」は、キリスト教で信徒を指導する神父さんとか牧師さんとかが、
説教で何らかの教訓めいたする話とはレベルが違うのです。
それは、根本を「解明」しているのです。
「原理」を明らかにしているのです。

しかし、その第一歩はどこまでも「総序」の第一文にあるのです。

「人間は何人と言えども…」

これは「人間は心情的存在である」と宣言しているのです。
このことを出発点とするという宣言です。
そこから、論理を展開して、
「神は心情的存在である」「神は心情の神である」という
神観を立てます。
そして、人間においては、「喜び」は独自的は生じないが、
このことは、実に、神においてもそうであると主張します。
これは論理的な展開です。
それは「喜び」は喜びの対象が自分と似ているときに大きくなるからです。
したがって、喜びを求める神も、自分に似せて人間を創造したのに相違ないからです。
また、啓示の書である「聖書」にもそのことが書かれているからです。
「神はご自身に似せて人間を創造された…」

したがって、「統一原理」は今までのキリスト教が教えて来た真理の内容と比較して、はるかに
高次元の真理内容を教示していると主張するのが私たちの立場ですが、
その「統一原理」の基点となる「人間は心情的存在である」との主張が、実に、
「原理講論」の最初の一文であったことにありありと認識するのに自分には
時間がかかった。

とにかく、私たちは「統一原理の真理性」をどこまでも追求して行くのです。
そして、この「原理」が神の啓示を契機として構築された、新しい真理であるかと認めるかどうかで、
神側とサタン側が分かれるのでしょう。
この「原理」こそ、「鉄の杖」なのでしょう。
これによって、堕落世界が分岐されると「原理講論」に書かれています。

自分の心を分別し、教会組織を分別し、この堕落世界を分別しながら、
真の父母様に侍るものとならなければなりません。

洗礼ヨハネはイエスがメシヤであると認識はしたが、しかし、イエスに侍ることができなったのですが、
私たちはその轍を踏んではいけません。
自分自身に戒めています。

「統一原理」の「キリスト論」は、イエスは創造主ではないと主張している。

ところが、2000年の歴史を持つキリスト教は、イエスは「主」イエス・キリストであると
表現している。その「主」とは「創造主」を意味する。
すなわち、イエスは創造主であって、この天地を創造されたのであるとの教理を
持っている。
イエスをこのように見る見方が、正統とされてきた「キリスト教アタナシウス派」である。

したがって、「原理」と「キリスト教アタナシウス派」とは教理的に対立する。

では、どちらが「正しい」のか。
どちらが正統か、どちらが異端かではなく、どちらは「正しい」のか。
「原理」が「正しい」とそのことをしっかりと主張できる自分とならなければならない。

そのためには、「講論」で展開されている論理展開をしっかりと把握しておかなければならない。
そうしてこそ、多くの人々に訴えることができるのではないだろうか。