原理講論和訳研究89

「堕落論」の「(四)善悪の果」において、

「我々は既に、善悪を知る木が、完成したエバを比喩したものであるという事実を明らかにした。では、善悪の果とは何をいうのであろうか。すなわち、それはエバの愛を意味するのである。果木が、果実によって繁殖するように、エバは、神を中心とするその愛をもって善の子女を繁殖しなければならなかったにもかかわらず、実際には、サタンを中心とする不倫な愛をもって悪の子女を生み殖やしたのである。」

という訳文の中に「果木」という訳語が使われている。
これは、ハングルで「과목」と記されて語句を訳したものである。
確かに、この「과목」は漢字語であって、その漢字は「果木」である。
しかし、日本語訳としては「果樹」。
和訳文にはこの「果樹」を使ったほうがいいのかも知れない。
原理講論和訳研究88

「堕落論」で「善悪の果」との語句がでてくるが、原語では「선악과」である。
これは漢字語で「善悪果」と書く。
しかし、この「과」は「接尾辞」(=接尾語)であって、日本語に訳すなら「~の実」であろう。
よって、ここは「善悪の実」とした方がいいのかもしれない。
何故なら、「果」という漢字の読みの中に「み」はないから。

来る天一国元年天暦7月17日(陽 8.23) "文鮮明天地人真の父母様天宙聖和
1周年追慕式”が開催される予定です。
この期間、全世界食口達が一つの心で真の御父様を思って, 真の御父母様に約
束することを誓って決意し、"真のお父様聖和1周年追慕100日特別活動"を下記
のように実施しますので誠心をつくして同参して下さい。

    - ---- 下記 -----

真の御父様聖和 1周年追慕100日特別活動

1. 目的
 ・真の御父母様の伝統とみ言を相続し、絶対信仰,・絶対愛,・絶対服従
  の生を  生きて行くことを誓う.
 ・Vision2020の勝利のために訓読家庭教会を拡散して定着させる.
 ・新種族メシア使命達成のために伝道活動に専念する.

2. 概要
 ・主題 : Vision2020実体天一国定着!
 ・期間 : 天一国元年天暦4月6日~7月17日(陽暦5.15~8.23)
 ・目標 : 100:10:1 (100日特別展も活動期間中、10人の原理修練生
      を輩出して, 1人の伝道及び祝福候補者を作る)

以上
原理講論和訳研究87
「堕落論」の「第一節 罪の根、(三)天使の堕落と人間の堕落、(2)人間の犯罪」のところで、

「 創世記二章25節を見れば、罪を犯す前、アダムとエバは、裸でいても恥ずかしく思わなかった。しかし、彼らが堕落したのちには、裸でいることを恥ずかしく思い、無花果の葉をもって下部を覆ったのである(創三・7)。」

と訳されている。この「下部」という訳文を問題にする。
原文直訳は「下半身」である。
原理講論和訳研究86
「堕落論」の「第一節 罪の根、(三)天使の堕落と人間の堕落、(2)人間の犯罪」のところで、

「創世記二章25節を見れば、罪を犯す前、アダムとエバは、裸でいても恥ずかしく思わなかった。しかし、彼らが堕落したのちには、裸でいることを恥ずかしく思い、無花果の葉をもって下部を覆ったのである(創三・7)。もし、善悪の果というある果実があって、彼らがそれを取って食べて罪を犯したのだとすれば、恐らく彼らは手か口を隠したはずである。なぜかといえば、人間は恥ずかしい所を隠すのがその本性だからである。」

と訳されている。この「恥ずかしい所」という訳文を問題にする。
原文直訳は「過ち」である。
(天一国元年3月23日、陽暦5月2日)
皆さん、今朝は何を感じましたか?自分から変わらなければ、と感じませんでしたか?新しい歴史がスタートしたので、あなたの覚悟と決意が昨年と変わらなければならないのですが、今、どんな覚悟で生活していますか? 皆さん、基元節ビデオを見て何を感じましたか? 神の願いであり、希望であった人間始祖アダムとエバが堕落して以来、六千年という長い歴史が流れてきました。聖書から知られるのが六千年です。本当はそれよりも長いのです。皆さん祝福を受けた家庭には、おそらく皆、子女がいるでしょう。子女を産んで 『ただ、生まれたあとは自然に育ってくれるだろう』などと思う親はいないでしょう。精誠込めて、自分よりも良い人間になることを願う心は、世間の親も統一家の祝福家庭の親たちも同じだと思います。
皆さんは、原理のみ言を通して教育を受けた人々です。真のお父様が聖和なさるまで生涯をかけて教育し、皆さんを真の人間として育てるために苦労されました。皆さんは真の父母様と天の前に負債が多いのです。 統一家の一世が責任をすべて果たすには、お父様のみ言に従って皆さんが天の父母様の願いを果たすにはどうすればいいですか?皆さんだけが祝福を受けるのではなく全七十億人類が祝福を受ける位置に導かなければなりません。周辺、つまり氏族‧民族‧国家‧世界を考えるとき、最初に祝福された皆さんは、天の父母様が願うその日を実現するための環境を造成しなければなりません。どういうことかわかりますか?数十年の間、皆さんは真の父母様の精髄を受けて育った立場です。それなら、天の前に報いる生活をしなければなりません。
氏族メシヤの使命を果たさなければなりません。皆さんが必ずしなければならないのは環境創造ですよ。それができたならば、その圏内にいる人々は、摂理歴史の流れが全てわかります。先の者があとの人々の前に尊敬される位置に立たなければなりません。今この時代、この瞬間を生きている皆さんが新たに繰り返し行動し、実践躬行しなければなりません。讒訴を受ける位置、責任を果たせない位置、環境創造に失敗した位置に立つとするなら、どうしますか?そうなれば、天が与えようとする祝福は皆さんに与えられません。米国の使命は長子国家だ、と最後にお父様が立てましたね?長子は子供だけれど、どこか親と似たところがあるのです。親の前に孝子になって、兄弟たちの前に尊敬される人にならなければなりません、米国はその責任をなしていますか?名前を持って、責任が与えられたという、それだけでは天国に届かないのです。百%教えてくださり見せてくださったのに、それを実践躬行できなかったらどうしますか?恥ずかしい存在になります。
お父様がラスベガス摂理を考えられたのは、米国が責任を果たせていないことを知って自ら先頭に立って、米国が責任を果たすことができる位置に立てて下さるために苦労されたのです。それを皆さんは知っていますか?お父様はラスベガスをシン•シティ(sin city)と言われました。すべての罪の都市と。そうではないですか。なぜここに摂理を展開されたのでしょう?動機がどうであれ、現在ラスベガスの立場を見ると、ここに展開されたすべての文明の環境は、世界に通じる文化を持っているのです。昔のローマ帝国の時代 『すべての道はローマに通ず』と言いました。大英帝国時は 『日が沈まない国』と言いました。このラスベガスが世界に通じることができる環境になっています。それをお父様は知っておられました。ここを変えて、天の側に回すと究極的な世界の復帰が可能圏に入ってきます。ここの文化は、すべての世界の人々が集まることができる賭博もありますが、コンベンション文化システムにもなっているでしょう。ホテルもある都市で、数十万を収容することができるという話ですね。これは驚くべき環境です。
このような環境の都市はここしかありません。ここに住んでいる人も多いけれど、流動人口が素晴らしいですよね?人々はここに来ながら、それぞれ自分の国の利益を考えています。しかしここでは、皆さんがそれらの人々の一つ一つの縁を結んで伝道した場合どのようになりますか?世界に知られます。ここに来る人々は、それぞれの国で財政的にもすべての面で地位のある人々です。天の時のために準備された都市と言うことができます。外的世界的に悪いイメージを持っている都市でもありますが、内的に私たちがそれを消化して復活させると全体を生かすことができる街になります。米国が責任を果たせなかったことをラスベガスからできるようになります。 お父様は四年間、全力投球されました。皆さんが生きていく目的は何ですか? 『ただこのように生まれたのだから、何とか食べて人生を生きて、天国に行くか 』、これは通用しません。皆さんはいずれにせよ、最初に召された人々です。召された人々には責任があります。まず、先に知った人はまだ知らない人を教育しなければならなりません。それが伝道ですよ。
考えてみれば、皆さんが今、伝道した人が『天地人真の父母様が少し前までは生きておられ摂理をされたが聖和された。私が1年早く知っていたら、数ヶ月早く知っていたら…人類の願いであり、天の希望であった方が来られ、私がお目にかかることができなかったなんて、私が会えなかったなんて』と、 どれだけ嘆くでしょう。その人が皆さんをどれだけ恨むでしょうか。 皆さんは基元節ビデオをよく見なければなりません。人類の歴史がはじまって以降、天が願い、人類が願ったその日を皆さんは迎えました。皆さんが実感して、死生決断の心で生活して欲しいと思います。恥ずかしくない祖先にならなければなりません。新しい歴史の新しい時代にあなたは先祖の隊列に立っていると言いましたね?皆さんが最高の先祖になるのか最下位の祖先になるのかは、皆さんにかかっています。あなた方が環境造成しなければなりません。 皆さんの肉体は永遠ではありません。年が若くても、老いていても皆、霊界に行きます。いかに良く生きているか、ということも重要ですが、素晴らしく死ぬことが重要です。素晴らしく死ぬことのできる場所は、責任を果たす場所です。それを考えるなら、皆さんの毎日の生活が天の前に約束して感謝の気持ちで出発する死生決断です。何の資格もない私を信じて、先祖の位置に立て下さる父母様の愛の前に死生決断するでしょう?これまで親孝行できなかった天の前の多くの負債を返さなければなりません。 蕩減のない世界を創るために真の父母様は、一生かけて苦労してきました。限りなく申し訳ないという言葉では足りないほどの負債があるのです。それを皆さんが実感、痛感して生活することが死生決断です。自分で感じなければなりません。そのためにはまず、教会が発展しなければなりません。教会が発展するには、食口が増えなければならないでしょう?それは伝道でしょう。皆さんが負債を返していくことのできる道は伝道する道しかありません。皆さんが伝道をすれば、我々が必要とする全てのものがついて来るということを知らなければなりません。
教会が金の卵を胸に抱かなければなりません。金の卵はお金ではありません。貴重な子孫、貴重な人材、天が必要とする人材を生み出す使命を果たさなければなりません。それが伝道です。今、皆さんも一つになって環境創造を広げていかなければなりません。この都市(ラスベガス)は、使命を受けて隣の都市、隣の州まで出て行って、大きな狼煙(のろし)を上げなければなりません。最後に、皆さんが悔いのない人生を生きるようお願いします。
原理講論和訳研究85
「堕落論」の「(一)生命の木と善悪を知る木、(2)善悪を知る木」において、

 「神はアダムだけを創造したのではなく、その配偶者としてエバを創造された。従って、エデンの園の中に創造理想を完成した男性を比喩する木があったとすれば、同様に女性を比喩するもう一つの木が、当然存在してしかるべきではなかろうか。これが生命の木と共に生えていたと記録されている(創二・9)善悪を知る木であったのである。従って、善悪を知る木というその木は、創造理想を完成した女性を象徴するものである。ゆえに、それは完成したエバを例えていった言葉であるということを知ることができるのである。
 聖書に、イエスを「ぶどうの木」(ヨハネ一五・5)、あるいは「オリブの木」(ロマ一一・17)に例えられているように、神は人間堕落の秘密を暗示なさるときにおいても、完成したアダムとエバとを、二つの木をもって比喩されたのである。」

との訳文がある。この「例えられて」は、「譬えられて」か「喩えられて」としたほうがいいのではないか。
もちろん、「比喩されて」と訳してもよい。

上記掲載の講論本文のうち、
「聖書に、イエスを「ぶどうの木」(ヨハネ一五・5)、あるいは「オリブの木」(ロマ一一・17)に例えられているように、神は人間堕落の秘密を暗示なさるときにおいても、完成したアダムとエバとを、二つの木をもって比喩されたのである。」
のところのハングル原文を直訳しておけば、
「聖書では、イエスをぶどうの木(ヨハネ一五・5)、あるいは、オリブの木(ロマ一一・17)として比喩している。このように、神は人間堕落の秘密を知らせるにおいても、完成したアダムとエバを二本の木として比喩なさったのである。」
となる。
原理講論和訳研究84
「堕落論」の「霊的堕落」のところで、

「神は天使世界を創造されてから(創一・26)、ルーシェル(明けの明星という意、イザヤ一四・12)に天使長の位を与えられた。それゆえに、あたかもアブラハムがイスラエルの祝福の基となったように、ルーシェルは天使世界の愛の基となり、神の愛を独占するかのような位置にいたのであった。しかし、神がその子女として人間を創造されたのちは、僕として創造されたルーシェルよりも、彼らをより一層愛されたのである。事実上、ルーシェルは、人間が創造される以前においても、以後においても、少しも変わりのない愛を神から受けていたのであるが、神が自分よりもアダムとエバをより一層愛されるのを見たとき、愛に対する一種の減少感を感ずるようになったのである。これは、ちょうど、朝から働いた労働者が、自分が働いただけに相当する労賃を全部受けとったにもかかわらず、遅く来て少し働いた労働者も自分と同じ労賃を受けとるのを見て、自分が受けた労賃に対する減少感を感じたという聖書の例え話(マタイ二〇・1~15)と同じ立場であったということができる。」

という文章がある。「例え話」と訳されているところは原文では「예화」で、これは漢字語である。
韓国語辞書では、「예화」;「例話、たとえ話」となっている。
そして、広辞苑では、「例話」〔れいわ〕:「例として引合いに出す話。たとえばなし」)とのこと。
例え話」ではなく、「例話」がいいのではという、ただそれだけ。

原文は「例話」となっているが、取り上げている「ぶどう園の労働者」のはなしは、「たとえばなし」であって、「たとえ話」とか「譬え話」とした方がいいのではないか。つまり、「たとえばなし」と「れいわ」を区別するということ。

以下は参考です。
■広辞苑
「たとえ」[譬え・喩え]:「①たとえること。他の物事になぞらえていうこと。②同じような例」
この広辞苑では「例え」という言葉は掲載されていない。
「たとえばなし」[譬え話]:「ある事物にたとえていう話。寓話」
■明鏡国語辞典
「たとえ」:「①〔譬・喩〕たとえられた語句や事柄。たとえ話。②〔例〕同じような例」

ただ、新聞では①の意でも「例え」と書くとのこと。
原理講論和訳研究83
「堕落論」の「第一節 罪の根」の「生命の木」において、

「しかしながら、創世記三章24節に明示されているように、神が回る炎の剣をもって、生命の木の前に行くアダムの道をふさいでしまわれたので、これが取り除かれない以上、人間は、生命の木の前に出ていくことができないのである。従って、使徒行伝二章3節に記録されているように、五旬節の日に、聖徒たちの前をふさいでいた舌のごとき炎、すなわち火の剣が分かれて現れたのち、初めて聖霊が降臨し、全人類が生命の木であられるイエスの前に行き、彼に接がれるようになったのである。」

という訳文中の「舌のごとき炎」は、原文では「「火のような舌」となっている。
原理講論和訳研究82
「堕落論」の「第一節 罪の根」の「生命の木」において、

「聖書のみ言によれば、堕落人間の願いは生命の木の前に行き、生命の木を完成するところにあるという。すなわち、箴言一三章12節を見れば、旧約聖書において、イスラエル民族も生命の木をその願望の対象として眺めていたし、黙示録二二章14節の記録を見ると、イエス以後、今日に至るまでのすべてのキリスト教信徒たちの願望もまた、ひたすらに生命の木に至ろうとするところにあるということが分かるのである。このように、堕落人間の究極的な願望が、生命の木であるということを見れば、堕落前のアダムの願望も、生命の木であったに相違ないのである。なぜかといえば、復帰過程にいる堕落人間は、元来堕落前のアダムが完成できなかったその願いを、再び成就しなければならないからである。」

という訳文中の「旧約聖書において、イスラエル民族も」のところは、
原文に忠実に訳せば「旧約時代においてのイスラエル民族も」となる。