原理講論和訳研究118
「堕落論」の「第五節 自由と堕落、(三)自由と堕落と復帰」において、

「天使は、人間に仕えるために創造された。従って、人間が天使に対するのは、どこまでも人間の自由に属する問題なのである。しかし、天使から誘惑された当時のエバは、いまだ知的、あるいは心情的に、未完成期にいた。従って、エバが天使の誘惑により、知的に迷わされ、心情的に混沌となって誘惑されたとき、彼女は責任と実績を追求する本心の自由によって生ずる不安を覚えたのであるが、より大きい天使との愛の力によって、堕落線を越えてしまったのである。エバがいかに天使と自由に対したといっても、取って食うべからずと言われた神の戒めのみを信じて、天使の誘惑の言葉に相対しなかったとすれば、天使との非原理的な愛の力は発動し得ず、彼女は決して堕落するはずがなかった。それゆえに、自由が、エバをして、天使を相手とし、堕落線まで引っ張っていったことは事実であるが、堕落線を越えさせたものはどこまでも自由ではなくして、非原理的な愛の力であったのである。」

という訳文がある。この冒頭にある
「天使は、人間に仕えるために創造された」
について考える。原文により忠実に訳せば、
「天使は、人間の側近くに仕えるように創造された」
となると思う。なぜなら、「시종」というハングルが使われているから。
それは漢字語で「侍従」を意味する。
原理講論和訳研究117
「終末論」の「第二節 救いの摂理、(三)人類歴史はすなわち復帰摂理歴史である」のところで、

「人間の本心がいかに善を指向して努力するとしても、既に悪主権の上におかれているこの世界においては、その善の実相を見ることができなくなってしまっているので、人間は時空を超越した世界に、その善の主体を探し求めなければならなくなった。このような必然的な要求によって誕生したのが、すなわち宗教なのである。このように、堕落によって神を失ってしまった人間は、宗教をつくり、絶えず善を探し求めて、神に近づこうとしてきたので、たとえ宗教を奉じてきた個人、民族、あるいは国家は滅亡したとしても、宗教それ自体は今日に至るまで、絶えることなく継続してそのまま残ってきたのである。それでは、このような歴史的な事実を、国家興亡史を中心として、検討してみることにしよう。」

とある。lこの「悪主権の上」は「悪主権の下」の誤訳であろう。韓国語版原理講論は「悪主権の下」となっているから。
原理講論和訳研究116
「堕落論」の「第五節自由と堕落、(二)自由と人間の堕落」において、

「前項で詳述したように、自由は原理を離れてはあり得ない。従って、自由は自らの創造原理的な責任を負うようになるし、また、神を喜ばせ得るような実績を追求するために、自由意志による自由行動は、善の結果のみをもたらすようになる。それゆえに人間は決して自由によって堕落することはできないのである。コリントⅡ三章17節に「主の霊のあるところには、自由がある」と言われた。我々は、このような自由を、本心の自由というのである。
 アダムとエバは、神から善悪の果を取って食べてはならないという戒めを受けた以上、彼らは、神の干渉なくして、もっぱら本心の自由によって、その命令を守るべきであった。従って、エバが原理を脱線しようとしたとき、原理的な責任と実績を追求するその本心の自由は、彼女に不安と恐怖心を生ぜしめ、原理を脱線しないように作用したのである。また、堕落したのちにおいても、この本心の自由は、神の前に帰るように作用したのであった。」

との訳文がある。この中の
原理を脱線しよう」、「原理を脱線しないように
と訳されたところの原文を直訳すると、
原理を離脱しよう」、「原理から離れないように
である。
原理講論和訳研究115

「終末論」の「第一節 神の創造目的完成と人間の堕落、(一)神の創造目的の完成」において、

 「既に創造原理において詳細に論述したように、神が人間を創造された目的は人間を見て喜ばれるためであった。従って、人間が存在する目的はあくまでも神を喜ばせるところにある。」

との訳文がある。この中の「あくまでも」との表現は原文にはない。和訳者が挿入した強調語句である。
原理講論和訳研究114
「堕落論」の「第五節 自由と堕落、(二)自由と人間の堕落」において、

「前項で詳述したように、自由は原理を離れてはあり得ない。従って、自由は自らの創造原理的な責任を負うようになるし、また、神を喜ばせ得るような実績を追求するために、自由意志による自由行動は、善の結果のみをもたらすようになる。それゆえに人間は決して自由によって堕落することはできないのである。コリントⅡ三章17節に「主の霊のあるところには、自由がある」と言われた。我々は、このような自由を、本心の自由というのである。
 アダムとエバは、神から善悪の果を取って食べてはならないという戒めを受けた以上、彼らは、神の干渉なくして、もっぱら本心の自由によって、その命令を守るべきであった。従って、エバが原理を脱線しようとしたとき、原理的な責任と実績を追求するその本心の自由は、彼女に不安と恐怖心を生ぜしめ、原理を脱線しないように作用したのである。」

と訳されているところがある。その中の「原理を脱線しようとしたとき」を問題にする。
原文に忠実に訳すと、「原理を離脱しようとしたとき」である。

同様に、「原理を脱線しないように作用した」は「原理から離れないようにした」である。
原理講論和訳研究113
「堕落論」の「第四節 人間堕落の結果、(六)堕落性本性」のところで、

「第二には、自己の位置を離れるということである。ルーシェルは、神の愛をより多く受けるために、天使世界においてもっていたと同じ愛の位置を、人間社会においても保とうとして、その不義なる欲望によって、自己の位置を離れ、堕落したのであった。不義な感情をもって、自己の分限と位置を離れるというような行動は、みなこの堕落性本性の発露である。」

との訳文がある。この文の中の「人間社会」を問題にする。
原文直訳は「人間世界」となっている。「天使世界」に対して「人間世界」と表現しているのであろう。
原理講論和訳研究112
「堕落論」の「第四節 人間堕落の結果、(四)善神の業と悪神の業」において、

「善神というのは、神と、神の側にいる善霊人たちと、天使たちを総称する言葉であり、悪神というのは、サタンと、サタンの側にいる悪霊人たちを総称する言葉である。善と悪とがそうであるように、善神の業と悪神の業も、同一のかたちをもって出発し、ただその目的のみを異にするものなのである。
 善神の業は、時間がたつにつれてその個体の平和感と正義感を増進せしめ、その肉身の健康をも向上させる。しかし、悪神の業は、時間がたつにつれて不安と恐怖と利己心を増進せしめ、また健康をも害するようになる。それゆえに、このような霊的な業は、原理が分からない人にとっては、それを見分けることが非常に困難であるが、時間が経過するに従って、その結果を見て、その内容を知ることができるのである。しかし、堕落人間は、神もサタンも、共に対応することのできる中間位置にあるので、善神が活動する環境においても、悪神の業を兼ねて行うときがある。また悪神の業も、ある期間を経過すれば、善神の業を兼ねて行うときがときたまあるから、原理を知らない立場においては、これを見分けることは難しい。今日において多くの聖職者たちが、これに対する無知から、善神の働きまでも悪神のそれと見なし、神のみ旨に反する立場に立つようになるということは、実に寒心に堪えないことといわなければならない。霊的な現象が次第に多くなる今日において、善神と悪神との業の違いを十分に理解し、これを分立することができない限り、霊人たちを指導することはできないのである。」

と訳されているところがある。この最後の部分の「霊人たち」は、原文直訳では「霊通人たち」である。

原理講論和訳研究111
「堕落論」の「第四節 人間堕落の結果、(四)善神の業と悪神の業」において、

「善神というのは、神と、神の側にいる善霊人たちと、天使たちを総称する言葉であり、悪神というのは、サタンと、サタンの側にいる悪霊人たちを総称する言葉である。善と悪とがそうであるように、善神の業と悪神の業も、同一のかたちをもって出発し、ただその目的のみを異にするものなのである。
 善神の業は、時間がたつにつれてその個体の平和感と正義感を増進せしめ、その肉身の健康をも向上させる。しかし、悪神の業は、時間がたつにつれて不安と恐怖と利己心を増進せしめ、また健康をも害するようになる。それゆえに、このような霊的な業は、原理が分からない人にとっては、それを見分けることが非常に困難であるが、時間が経過するに従って、その結果を見て、その内容を知ることができるのである。しかし、堕落人間は、神もサタンも、共に対応することのできる中間位置にあるので、善神が活動する環境においても、悪神の業を兼ねて行うときがある。また悪神の業も、ある期間を経過すれば、善神の業を兼ねて行うときがときたまあるから、原理を知らない立場においては、これを見分けることは難しい。」

と訳されているところがある。この最後の部分の「ときたまあるから」を問題にする。
このところの原文を見てみると、「多いので」となっている。
原理講論和訳研究110
「堕落論」の「第四節 人間堕落の結果、(四)善神の業と悪神の業」において、

「善神というのは、神と、神の側にいる善霊人たちと、天使たちを総称する言葉であり、悪神というのは、サタンと、サタンの側にいる悪霊人たちを総称する言葉である。善と悪とがそうであるように、善神の業と悪神の業も、同一のかたちをもって出発し、ただその目的のみを異にするものなのである。
 善神の業は、時間がたつにつれてその個体の平和感と正義感を増進せしめ、その肉身の健康をも向上させる。しかし、悪神の業は、時間がたつにつれて不安と恐怖と利己心を増進せしめ、また健康をも害するようになる。それゆえに、このような霊的な業は、原理が分からない人にとっては、それを見分けることが非常に困難であるが、時間が経過するに従って、その結果を見て、その内容を知ることができるのである。しかし、堕落人間は、神もサタンも、共に対応することのできる中間位置にあるので、善神が活動する環境においても、悪神の業を兼ねて行うときがある。」

と訳されているところの最後の文について考察する。
善神が活動する環境においても、悪神の業を兼ねて行うときがある。」
との文であるが、この原文を直訳すれば、以下のようになると思う。

善神の業である場合にも、悪神の業を兼ねて行なうときがある。」
原理講論和訳研究109
「堕落論」の「第四節 人間堕落の結果、(三)目的性から見た善と悪」において、

「 善と悪に対する定義は、既に、創造原理の中の「創造本然の価値」において論じ尽くした。」

と訳されているところがある。この「論じ尽くした」を問題にする。
原文を直訳したものを紹介すると、それは、「論じたところである」である。