原理講論和訳研究114
「堕落論」の「第五節 自由と堕落、(二)自由と人間の堕落」において、
「前項で詳述したように、自由は原理を離れてはあり得ない。従って、自由は自らの創造原理的な責任を負うようになるし、また、神を喜ばせ得るような実績を追求するために、自由意志による自由行動は、善の結果のみをもたらすようになる。それゆえに人間は決して自由によって堕落することはできないのである。コリントⅡ三章17節に「主の霊のあるところには、自由がある」と言われた。我々は、このような自由を、本心の自由というのである。
アダムとエバは、神から善悪の果を取って食べてはならないという戒めを受けた以上、彼らは、神の干渉なくして、もっぱら本心の自由によって、その命令を守るべきであった。従って、エバが原理を脱線しようとしたとき、原理的な責任と実績を追求するその本心の自由は、彼女に不安と恐怖心を生ぜしめ、原理を脱線しないように作用したのである。」
と訳されているところがある。その中の「原理を脱線しようとしたとき」を問題にする。
原文に忠実に訳すと、「原理を離脱しようとしたとき」である。
同様に、「原理を脱線しないように作用した」は「原理から離れないようにした」である。
「堕落論」の「第五節 自由と堕落、(二)自由と人間の堕落」において、
「前項で詳述したように、自由は原理を離れてはあり得ない。従って、自由は自らの創造原理的な責任を負うようになるし、また、神を喜ばせ得るような実績を追求するために、自由意志による自由行動は、善の結果のみをもたらすようになる。それゆえに人間は決して自由によって堕落することはできないのである。コリントⅡ三章17節に「主の霊のあるところには、自由がある」と言われた。我々は、このような自由を、本心の自由というのである。
アダムとエバは、神から善悪の果を取って食べてはならないという戒めを受けた以上、彼らは、神の干渉なくして、もっぱら本心の自由によって、その命令を守るべきであった。従って、エバが原理を脱線しようとしたとき、原理的な責任と実績を追求するその本心の自由は、彼女に不安と恐怖心を生ぜしめ、原理を脱線しないように作用したのである。」
と訳されているところがある。その中の「原理を脱線しようとしたとき」を問題にする。
原文に忠実に訳すと、「原理を離脱しようとしたとき」である。
同様に、「原理を脱線しないように作用した」は「原理から離れないようにした」である。