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第四章「大人にできること」

生活保護と子どもー(3)

 

実は私も、生活保護で育った時期がある。1952年(昭和27年)、私が小学校2年生・7歳の時に、父親が死んでからの数年間である。長兄は昼間の高校から夜間の定時制に「転校」を余儀なくされ、一番下の妹がまだ3歳ぐらいの幼児だったと記憶する。16歳から3歳まで、子ども6人を母親一人で育てるためには、(母親もその4年後に病没するが)それこそ「最後のセイフティネット」に頼るしかなかったのであろう。




元校長先生のブログ-生活保護と子ども-(3)




「であろう」などと他人事のように言ったのは、小学校時代の私の記憶が極めて薄いからである。鮮明な記憶は、教科書を買うときの場面くらいしかない。そのころは教科書が今のように無償ではなく、販売店が学校にやって来て現金引き渡しによる購入であった。何年生のころだったかも定かではない。一緒に並んでいた友だちから「どうしてあんたはお金をはらわなくていいの?いいなぁ!」と羨ましがられたことを覚えている。つまり生活保護家庭では、公的補助があるため教科書代は払わなくてよかったのだ。


ただし、重要なことを付け加えておかねばならない。我が家が生活保護を受けることと引き換えに、次兄と姉は高校に進学することができなかった。生活保護家庭の子どもが高校に進学することは、「裕福」「贅沢」とみなされ、受給打ち切りの条件となっていたそうだ。しかも次兄は、中学校で3本の指に入るほどの成績だったのにである。


私自身はそれらの事実を後になって知った。生活保護という言葉さえ知っていたわけではない。「平和でのんきな小学生」と言われればそれまでだが、教科書購入の際にクラスメイトが、「あんたはタダでいいなぁ」と羨んだことに、「どうだ!いいだろう」と言わんばかりの「誇り」のような気分を持って応対していたことは確かである。貧しい生活の極度な場面をいくつも思い出すことができるが、友人の存在や学校という集団が自分を支えてくれていたのだろう。


いま、小中学生の「自己肯定感」が低下していると言われる。それはしかし、経済的貧困によるものだけではではない。振り返れば、私自身の自己肯定感を支えていたのは、「学力」か「運動能力」ではなかったかと思う。現代の子どもを見るときにも、「学力または運動能力」が自己肯定感を支えている場合が多いという点では、共通項ではないかと思われる。


もっともあの時代には、貧しい者を見下したり、貧しい者が自分を卑下して自己肯定感を喪失したりするようなことは少なかった。そういう社会的土壌があったと言えよう。映画で言えば、昭和レトロで評判となった西岸良平の漫画を原作とした『三丁目の夕日』の時代、もしくはそれ以前の時代である。


大量消費社会が世の中を変え、大人の心も子どもの心も変えてしまったのである。私たちは、「貯蓄は美徳。倹約は善。むだ遣いはいけない」と教わってきた。だが、大量消費社会においては、購買欲を高めなければ世の中の経済が立ち行かない。我々が何かを買わなければ景気も上向かないと言われる。それでいて生活保護受給者が増加し、低所得者も増えている。この矛盾の中にいる子どもたちの心を支え合える地域や学校にしたいものだ。

 


 「ゴネ得」と同じように「貰い得」という言葉があるそうだ。自給1000円で不安定な働き方をするより、何もしないで生活保護を受給した方がトクだと考える人が増えているからこんな言葉も生まれる。こうした「貰い得」のような心理と行動を生みだしてしまうのもまた、その根源は家庭教育と学校教育にあるのではないかと思われる。


 これに対して「昔は、生活保護を受けるなんて恥だという考えがあった。その恥じらいが今はなくなっている」などとするコメントをテレビで聞いたことがある。わけ知り顔の「識者」からのコメントである。


 生活保護を受給することが恥? ここに私はひっかかりを感じる。テレビのコメンテーターは「生活保護は恥を持って受給すべきだ」と、いわゆる「上から目線」で言っているように思えてならない。(このあたりのことは、精神科医の和田秀樹氏が『テレビの金持ち目線』(ベスト新書)の中で痛烈に批判している。)


かつての私たちのように、正当な受給なら恥だと感じる必要なんてないはずだ。そして親が恥を感じているなら、子どもにその感覚は伝播してしまう。子どもに負い目を持たせてはいけない。行政や地域の目が徹底的に不正受給を取り締まり、学校も地域も、正当な受給の子どもが誇りを持って成長できるようにしなければならない。


厳しい状況に置かれている子どもに誇りを持たせようとする心は、いわゆるフツーの子どもにしっかり目を向かせることに通じる。教育や子育てにおいては、特殊なケースの中に一般性・普遍性が含まれることが多いのである。非行少女や不良少年と真剣に向き合うことは、一般の児童生徒の心をつかむことにつながる。それと同じである。不登校の子どもやいじめの被害者などの心に寄り添っていれば、フツーの子どもの心にも寄り添えるようになる。そして、子どもはそういう大人の行動を実によく見ている。


大人は(特に教師は)、生活保護の子どもなど社会的弱者と言われる子どもに目を向け接することが、人間としての修行となり自己の成長の糧になると自覚しておきたい。




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【追記】

 受験シーズンである。朝日新聞夕刊に『窓』という小さなコラム欄があり、そこに次のような興味深い記事が載っている。


 「埼玉県西部にある特別養護老人ホームのホール、午後6時。中学3年生十数人が席につき、勉強をはじめた。高校受験が間近なのだ。


 見た目ではわからないが、全員が生活保護世帯の子どもである。


 埼玉県が中学生を対象に2年半前から始めた無料の学習教室で、大学生や教員OBのボランティアが、ほぼ1対1で教える。県内17ヵ所で週2~3回、600人強が通う。」


 600人とはたいへんな数である。行政もこんな計らいをしてくれるのかと、少しはホッとさせられる。ボランティアの心意気にも頭が下がる。テレビ局や報道機関は、こういう実態をこそ、もっと大きく取り上げてほしいものだ。