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戸惑う子どもたち

フツーの家にあるネグレクト その1

 

コーヒーショップで煙草を吸いながら本を読んだり、仕事をしたりすることがある。その日私は、文庫本を片手にのんびりコーヒーをすすっていた。そこへ3人連れの客が入ってきた。60代くらいの祖母と見受けられる女性、30代とおぼしき母、その息子らしき男の子との、3人連れである。




元校長先生のブログ-フツーの家にあるネグレクト その1



まず気になったのは、小学校5、6年生だろうか、男の子を連れて喫煙席に座ったことだ。気のきいた親(または祖母)なら、子どものためを思って煙モウモウの喫煙席は避けるにちがいない。子どもを喫煙席に座らせること自体が、まずどうなのか。


私に極めて近い席だったため、会話が聞こえてくる。隣の町の小学校で、PTAのお役を何か担っているのだろう。「○○くんのお母さんは……」「○○の会議ではねぇ……」などと子どもの母親にあたる人が主導してしゃべる。祖母にあたる人は、「そうだよねぇ……」「そういうときはさぁ……」などと相槌を打っている。


ところが、母親も祖母も、一度も子どもの方を向かない。存在を無視しているかのようである。子どもは手持ち無沙汰になって上を向いたり店内を見回したりしていたが、さすがに身が持たず、ポケットからゲーム機を取り出す。これはもう、一種のネグレクトではないかと思われる。


が、このあと私をもっと愕然とさせる事態が起きた。母は祖母とひとしきり話しこんだあと、


「あんた、何イジケてんだよ!」と男の子の頭を叩くではないか。母と祖母が子どもを無視していたから、子どもは所在なく「いじけて」しまったのである。そこが全く理解できていないのだ。男の子の悲しげな眼が忘れられない。こうして、非行少年や引きこもりの子どもが生まれる?そんな連想を抱くのは考え過ぎだろうか。

 

小学校2年生の教室での会話である。ある男の子が、ここ数日元気がない。先生は心配して尋ねてみる。


「おなかでも痛いの?」「うぅん」と首を横に振る。「風邪でも引いたのかしら?」「うぅん」とまた否定する。「朝ごはん食べてないの?」ようやく「うん」とうなずき、元気のない理由がやっと分かった。しかし


「じゃあお母さんが病気なの?」と尋ねるとこれも「うぅん」という否定の返事が返ってくる。「お母さんは朝どうしてるのかしら?」と問うと、「寝てる」と言う。


 この子の母親は、いわゆる専業主婦である。忙しいからとか病気だからとかいうわけではない。朝ごはんを食べない子が増えていることが大きな話題になり、「早寝早起き朝ごはん運動」なども提唱され、その重要性が説かれるようになってきたが、子どもの意志ではなく、親の都合による「欠食」も多いのだ。もはやこれも、ネグレクトと言える。児童虐待の始まりと言ってもよい。


 子どもがごはんを食べずに学校に来ることが、成長期の身体の発達にどれほど悪影響を及ぼすか、言うまでもない。その上問題なのは、「かまってもらえない」子どもの心への影響である。


 中学生が万引きをして警察に引き渡された。生徒を引き取りに行くのは、本来は保護者だから、警察は家に連絡する。ところが、警察に出向くことを拒否する親がいて、仕方がないので教師が出向くことになる。私自身も何度か経験がある。こうした親の責任放棄によって、子どもはどんな気持ちを抱えるか。


この例は極端に見えるかもしれないが、フツーの家の、日常のちょっとした親の言動の中にネグレクトは内包されているのではないか、と思える。「加えられた傷」は目に見えるが、「かまってもらえない傷」は、痛めつけられていながら他人には見えない。


昭和50年代から60年代にかけて、中学校では校内暴力を含む「荒れた学校」が増えた。少年院に送られた生徒の面会に行ったこともある。事件を起こした「ツッパリ少年」たちは、みな心にうっ屈を抱えていたと思う。「無視されることがいちばん頭に来る」と彼らは言う。この声を受け止めねばなるまい。


「忙しい。疲れている。」等々の親の事情もあるだろう。しかし、どんな家庭でも、ほんの少しの工夫や努力があれば、「かまってもらえない子ども」は減っていくにちがいない。


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