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第二章「親の態度で子どもも変わる」

子どもと読書―その(3)

 

私は退職後に「エッセイ教室」にかよっていたことがある。退職後ヒマになったにもかかわらず、私自身があまり本を読まなくなってしまったことを踏まえて、本をよく読むようになった養護施設の少年の例や私の娘の場合などと対比しながら、「いつか読書する日―子どもが本に向かうときの不思議」と題して問題提起のつもりで書いた。エッセイ教室には「生徒同士」による参加者の合評の時間があるのだが、そこには牢名主のような古参の女性がいて必ずリードする。「この教室には先生が二人いる」とぼやく会員もいた。




元校長先生のブログ-子どもと読書―その(3)




また、むかし「問題傾向の子どもは、後ろの座席に座りたがるんじゃないか」と秘かに語り合った中学校の職員室での会話を思い出す。大学の授業でも同様であり、大人の世界でも同じだったのである。この教室でも常にいちばん後ろの席に座る人が数人いて、講師や他の会員が発言中であっても、「そんなのおかしいわよ」「それって間違ってるんじゃない?」などボソボソと時にははっきりと否定的見解を言う。面と向かって言われるならともかく、後方から頭越しに不規則発言として非難されるのは、極めて不愉快である。


古参の彼女も常にいちばん後ろの席に座って酷評する。私の文章に対して、「知らない本の名前ばかり並んで!」と吐き捨てるように言うではないか。自分の知らない作品名が出てきたりすると何か不都合でもあるのだろうか。古典的名作や、数百万部のベストセラーなども例示されているのに、他の参加者は、私の文章の中に自分が読んだことのある本が含まれていても、古参の彼女に対しては何も言えない。情けないことに入会したばかりだった私も、「こんなに売れてる本を知らないなんて、とんでもないエッセイ教室ですね」と反論もできず、「知らない本の名前ばかり並んで!」というこの見当違いの批評には、かなりまいった。




少年が読んだ本の軌跡を綴ったのが主眼だから、少年の心の成長を否定されたようなトラウマに陥り、(その他の理由もあるが)エッセイ教室を退会するきっかけとなってしまった。どんな本だっていいではないか。読書に対する子どもの進歩成長を、大人はあたたかく見守るべきなのである。


その教室の講師からのコメントは「人が生きていて、窒息しそうなほど息苦しくなった時、風通しをよくしてくれるものが必要です。読書、本(書物)はその手段の一つになれます。(本を読まなくなった)加藤さんは今、満ちたりた日々でいらっしゃるのでは?」というものだった。だが、実は私はそのころ、やりたい仕事をやれず悶々としており、決して満ちたりた生活ではなかったのである。だから講師からのこの的はずれな推察によるコメントにも、「えぇ?」っと納得し切れない気持ちを引きずることになる。


とは言え「窒息しそうなほど息苦しくなった時」人は本に向かう。それは否定できない。小学校4年生で不登校になりかけた女の子が、魔女の出てくるファンタジーが好きだと聞いたので、『リュンノールの庭』『ブルーローズの謎』(松本祐子)などを持っていったところ、すっかり気に入って作者に手紙まで書く。作者から心遣いの返信をもらい、返信のお手紙が支えとなって、その4年生の女の子が元気回復したという例にも接している。息苦しい生活を読書が解放してくれたと言えるだろう。『苦役列車』で芥川賞を受賞した西村賢太氏の、貧しさという言葉だけでは語れないほどの壮絶な生きざまを読んでみると、本が彼の人生を救ったと言っても過言ではあるまい。


しかしここに、順風満帆な生活でも旺盛な読書量を誇る子どもたちがいることにも着目しなければなるまい。中学生にもいるが、木内昇という女性直木賞作家などはその典型であろう。大学では体育会のソフトボール部に属しながら、「小説を貪り読んだ」と言っているし、小学校時代には、「うちには本が一冊しかなかった。図書館にはじめて行ったとき、天井まで本がある光景にまず打ちのめされた。なにを読むべきかわからなかったから、装丁で選んで片っ端から読んだ。(中略)いつでも、どこでも、ひとりで愉しめる。しめた、これはいい遊びを見つけた、というのがその頃の感覚だったと思う。未だにこの感覚はあまり変わっていない。」と書いている。(『文芸春秋』


「風通しをよくしてくれる」からだけ読むとは限らない。読書を「これはいい遊びを見つけた」と表現したのは、私の理想に近い名言である。面白いから読む、楽しいから読む。サッカーのボールを蹴るのと同じように、キャッチボールをするのと同じように、生活の楽しみの一部として読む。「朝の読書運動」もそうなればいい。


先生も親も一緒になって本を楽しみ、大人はそこに同格として子どものそばにいるのがいいのではないか。「本を読めって、言ってるんですけどねぇ」それは、本を読まない親の(あるいは教師の)言い訳に過ぎないのである。



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