第二章「親の態度で子どもも変わる」
コラム2・教育長と教育委員長
「教育委員会に訴えてやる!」というようなセリフが、テレビドラマや映画などにも出て来る。この場合の「教育委員会」とはどこを指すのか。当たり前じゃないか、市区町村の「役所」でしょ!と言われそうだ。確かにその通りではあるのだが、しかし「教育委員会」とは本来は役所内の事務的部署を指すわけではない。
「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」によって、各都道府県・各市区町村には、5~6人(場合によっては3人)の「教育委員」がいる。「人格が高潔で、教育、学術及び文化に関し識見を有するもののうちから、地方公共団体の長が、議会の承認を得て任命」する。その5~6人(場合によっては3人)の教育委員の集まりが「教育委員会」なのである。都道府県・市区町村等、それぞれの重要な教育施策を決めたり確認したりするための要の位置にある。教育委員にそれを委ねるのは、教育の政治的中立や地域住民の意向の反映が目的とされる。その委員の中から互選された代表が「教育委員長」である。
教育委員は民間から選ばれることが多く、非常勤の職である。月に一度の定例会を開きその自治体の重要な教育施策を点検したり確認したりする。人事権はいっさい無いが、その地域で使用される教科書を採択する権限を有している。その際には、教育委員の多数決によって決定される。
ところが、一般に「教育委員会」と言ったとき、この委員さんたちを指すケースは少ないのではないか。むしろ、役所の中の教育に関する事務作業を取り扱う部署を指す場合が多いと思われる。つまり、「教育委員会」とは、「専任された教育委員たちの集まり」の意味と「日々の事務を取り扱う教育委員会事務局」の意味と、二通りの意味で使われてしまっているわけだ。
「教育委員会に訴えてやる!」と言ったとき、選任された教育委員さんたちに物申すのだろうか。そうではなく役所の中にある「教育委員会事務局」に対して訴えようとしているはずである。この教育委員会事務局を統括するのが「教育長」であり、教育長は言わば「教育委員会事務局の長」の性格を持つ常勤の職である。教員等の人事権を持ち、こちらも、議会の承認を要する。ただし、教育長は同時に先述の「教育委員」の一員でもあるから、少々ややこしい。
前埼玉県志木市長・穂坂邦夫氏に、『教育委員会廃止論』という著書がある。役所の中の「教育委員会事務局」をなくせと言っているのではなく、ここで言う「教育委員会」は「教育委員の集まり」を指し、その制度を廃止した方がよいと主張しているのである。穂坂氏に限らず、この制度に疑問を持つ人は多く、私の知り合いの自治体議員にもいる。
「教育、学術及び文化に関し識見を有するもののうち」とされていながら、本当に「識見」を持って臨んでいるのか、教育全般や学校現場のことを分かっているのか、と共に、いったい何をやっているのか見えない、という素朴な疑問も耳にする。首長や教育長の言い分を追認するだけで、本来の目的であるはずの「教育の自立性」や「地域住民の意向の反映」がかすんで形骸化してしまっているところが多い、ということだろう。一種の「名誉職」になってしまっているところもある。一般市民からは、その活動の姿が見えにくいのである。
『不良少年の夢』等を著し『ヤンキー母校に生きる』がドラマ化され、ある時期「時の人」ともなった義家弘介氏は、かつて横浜市の教育委員を務めていた。ちょうどそのころ私は、氏の事務所を訪ねお話を伺う機会を得たことがある。義家氏は「行動する教育委員」をめざし、精力的に学校現場に足を運んでいた。小学生や中学生を相手に、授業もしたという。
そんな教育委員がいてもいい。大いに期待したものだが、なぜか参議院議員に転身してしまい、「行動する教育委員」のモデルケースは立ち消えとなってしまった。義家氏への人物評は置くとしても、形骸化した制度に一石を投じることができたのにと、まことに残念である。
「教育委員って、入学式や卒業式に来賓として来る人のことですか?」と私に問いかけた教員がいる。しかも主幹級の教諭である。幹部教員としてはたいへん知識不足であり、恥ずかしい質問ではあるが、一方では、行政側の問題点もあるだろう。教員にこんな質問をさせてしまうほど、その活動の姿がよく見えない=形骸化してしまっている、ということである。PTAの役員が、来賓紹介で「教育長」のことを「教育委員長」と間違えて呼んでしまったことがあるくらいなのだから、これはやはり、誰かが何かをしなければなるまい。教員採用試験や主幹研修などに採りいれてもよいのではないか。

