第三章「学校に関わりを」
第四章に入る前に
コラム3・差別のあいまいさ
「男子児童にも○○さん」?―その(1)
市民公募委員も含めて「心の教育推進委員会」なるものが設置された。その会議の席上市民公募委員の一人が「そのやり方では片手落ちなのではありませんか?」と意見を述べた。するとすかさず、指導室長という立場の教育委員会事務局の人が「ただいまの発言には差別用語が含まれていました」と発言する。それ以上は何も言わない。
「あぁ『片手落ち』を指しているんだろうな」と私は推察したが、その市民公募委員は何のことやら全く自覚のないまま議事は進行していく。おそらく指導室長の意図は、本人に訂正や反省を促そうとするのではなく、「議事録から削除せよ」という意味合いで言ったのではなかったか、と思われる。もっと悪く言えば、「上」からの指示によって、「リストに載っている差別用語」が使われた場合、注意を喚起しなければならないという、義務感による一種の「アリバイ作り」ではないのかと疑った。「片手落ち」がどのように、なぜ差別なのか、その前にその言葉が本当に「差別語」なのかという検証は、一言もなされなかったからである。
私は、「片手落ち」という用語が差別語かどうか、疑義を持っている。賛否両論読んでみると、「片手・落ち」でなく「片・手落ち」の論もあり、「手」は「手段・方法」を指すという見解に納得する気持ちも生じている。
もし仮に「片手落ち」が差別語であると譲ったとしても、誰かが、「なぜそれが差別語なんですか?」と問いかけたら、役所の人は、「リストに載っているから」と答えるのだろうか。こうして検証や論議のないまま、教育の世界でも「言葉狩り」が進んでしまうのではないか。
それでいて学校では、受験の際に「滑り止め」という言葉を平気で使う。生徒も親も先生でさえもが使う。だが私見では、これこそ差別を含んでいる言葉と思われてならない。
まず、「滑り止め」とされた学校に失礼である。その学校を低く見下した言い方ではないのか。次に、「滑り止め」とされたその学校にも入れない子どもがたくさんいることに目を向ける必要がある。「他の子が滑り止めと言っている学校にも入れない自分」と考える子どもの心を、少しは慮る必要があると思う。
中学校校長時代に私は、教員にこのことを訴えた。先生たちはほぼ了解し、進路相談の三者面談などでは決して「滑り止め」という表現は使っていない。

