愛するだけでは、愛は完成しない【自分を愛させる】 | 傷だらけの人生に愛を取り戻す心理学

傷だらけの人生に愛を取り戻す心理学

【3児のシンママ×遠距離恋愛×心理カウンセラー】拗らせ親子関係・拗らせ男女関係・モラハラDV・孤独感・生きづらさ、闇を抱えた人達へ。過去の傷を癒して、愛し合える幸せなパートナーシップ論。




どーもこんばんは、心理カウンセラーの奈美ですサングラス


愛するだけでは、愛は完成しない。


先輩カウンセラーのジュンコさんが、先日カウンセリングのときに私に言ってくれたこと。


めっちゃ響いた…


これ、愛されることが苦手(?)な私のために、なんで愛されることを遠慮してんの??って話してる時に言ってくれたこと。


ジュンコさんの3/30~の講座、私も受講しますグラサンハート


愛されたいばっかりで、愛することを忘れてるパターンもよくあるけど、愛するばっかりで、自分を愛してもらうこと忘れてる人もおるねんな。


わいのことや。


自分を愛してもらう。
愛させてあげる。
それは、相手の愛したい欲を満たすことにもなる。


どうせ愛されてんのはわかってる。

でも『自分の良い部分』に対してばっかりよね〜って思う、そりゃそうだ、そもそも私がそこしか見せようとしてない。

まだまだ私は闇を愛し足りない、だからなかなか見せれない。


自分が不快なものを大事な人にわざわざ見せようと思わんもんな???


だから闇の部分は、見せづらいわな、難しいわな。


昔はあんなに、どうせ愛されへん!思ってたから、暗闇に溶け込んで三角座りしてツンケンしてた頃よりはだいぶ光を浴びれてるけどな。

でもいまだに、『あっし、闇深いっす。』とは堂々と言えても、じゃあそれを堂々と出すのはできない。


闇を受け入れてはいるけど、闇を愛そうなんて、なかなか思えん。
だから当然、闇も含めて愛してもらおう、なんて…そうして欲しいけどそう思わんようにしてきただけかもしれん。




自分の良い部分だけで愛されようなんて、そんなのずっと良い子の仮面被り続けなきゃってなるやん。

無理無理そんなん、だからしんどくなるんやん。

だから私は自己犠牲はやめようとしてるんや。



一時期は

『どれだけ良い子にしようとしても上手くいかんし!何しても認めてくれへんし!なら悪い子でおっても同じやん!もう自分を抑えたくない!』

って、多分心理的にはそんな感じやったんやろうな。
暴走してたw(色んな意味で)

そうして非行に走ったこともあったけど、やんちゃしながらも良い子の仮面は脱ぎきれず(だからめっちゃ複雑な心理状態)、盗んだバイクで走り出すけどちゃんと元の場所に返すようなわけわからんやつやった、結局振り切られへんかってんな、どっちにもw


でも、結局良い子でいようとする部分が今もまだありましてなぁ、はぁ。



自分がダメだと思ってる部分、短所、弱いところ、それを愛したい人だっておるやん、まさに私がそういう人間やのに、なぜ自分はしてもらおうと思わんことに今まで疑問を抱かんかった??w



そもそも短所と長所は表裏一体。
自分の短所が、人の役に立つことだってある。
逆に自分の長所が問題を作ることも。



愛されたいっていう、誰もが当たり前に持ってる欲。
それをいつから忘れてたんやろう、私は。w

そんな欲があることさえ、気付きたくなかったんかもしれん。


別に相手をわざわざ傷付けるためではないのに、ただ自分の欲に素直でいることを、ダメだと思ってしまってたのかもしれない。


自分のネガティブなものを、相手に渡したくないから。


これも投影なんよね。


私が背負ってしまうから、相手も背負うかもしれない、って。


相手のネガティブな面に反応して、助けてあげたくて、癒してあげたくて、愛してあげたい。
確かに愛なんやけど、これも投影だったわ。



人は自分の心を映し出す鏡。
私が本当に助けて癒してあげたいのは、大好きなあの人の中に感じる、自分と同じ部分。

なんや、ほんまは私、自分のこと愛したいんやん!


それを全部自分でしなくてもいい、半分でいい、もう半分は人に愛してもらう。
それが相互依存やし、愛し合う関係。
友達関係って、これがしやすいのになぁ、パートナーシップとかになると、急に複雑化しちゃう。



自分の闇の部分だって、相手に背負わせるのは確かに重いけど、私はそうしたいわけじゃない、おんぶに抱っこしてほしい依存しすぎな時代は過ぎた、ただ自分が持ってるもの見せるだけ。

でも、受け入れて欲しかった欲がなくなったわけではない。



闇を隠すなんて、そんな私の一部を隠したまま私を愛してもらったって、そりゃモヤモヤするわな。


『ほんまのあたしはもっと闇深いのに』


だからこそ、『あえて自己嫌悪を晒す』ってことをしてみたこともある。


ただ、相手が受け入れるかどうかは相手の自由って思って。
相手がどんな反応をしても、私は受け入れる覚悟で。



期待はしない、受け入れて貰えたら嬉しいけど、相手が拒絶したからって私の価値は変わらん。

自己嫌悪も、自分の一部やから。

これも、私やから。


コミュニケーションのひとつのつもりやった。
結局自分が自分を受け入れるのは1番大事やけど、人が受け入れてくれたっていう体験も大事やしね、まぁまぁ怖かったけど、やってみて良かった。


ただ、知って欲しかっただけやから。

だからどうしてくれとかは、なかったから。



『どうせ受け入れてくれない』
そっちじゃなくて
『受け入れてくれるかもしれない』
『受け入れてくれなくても構わん』
でもまぁ
『受け入れてくれたら嬉しい』
だからその時はありがとうって言う。

受け入れてくれへんとしても、話を聞いてくれてありがとうは言う。

どうするかはもはや話す前に決めてた。


だから言えた。
良い成功体験やったと思う。


というか、もはや頭お花畑なん?ていう領域にも、おるにはおる。
そうでない時もあるけど。
闇に飲み込まれる時もあるけど。


『こんなに愛情深いあたしが、人から愛されへんわけないやん』

私が私にそう思えてるから、人に対しても思えるし、言える。

『でもあたし、ほんまに愛されちゃってもいいの?』

その問いかけには全力で

『YES!!!』を言うのも怖い自分もおる。

何を遠慮してんだか。
『罪悪感』のしわざなんだろうな。


『もうあたしは愛されてもいい?』
『もうあたしは幸せになってもいい?』


人に対しては、全力でYES!!って言えるけど、ね。
あんたは幸せになっていいに決まってるやん!って。

闇が出てきてる時、自信のない時は
『ほんまにええんですかい?』
っていう声が自分の中から聞こえる。


誰に遠慮してるんや。


答えはわかってた、気付いてた。

それを更にジュンコさんが指摘してくれて、やっぱりか…って、認めざるを得んなー!ってなった。


母親に対しての遠慮。

エレクトラコンプレックス。


私だけごめんね。
こんなに自由で、こんなに助けてもらって、こんなに幸せで。


ある意味失礼なこっちゃ、まるで母親が幸せじゃなかったみたいで。


母は、遠方の親になかなか頼れず、地元から離れて子育てしてたから、それに、昼も夜もあまりいない父やったから。
私が未就学児までは、父の友人たちと、私と妹を連れて遊んでたのは記憶にあるけど、それ以降母が個人的に遊んでるところを知らない。

ずっと、子育て、仕事。

弟が産まれてすぐ離婚してからは、1人で育児。


めちゃくちゃしんどかったと思う。
1年くらい前に知ったことやけど、あの頃の母は確かに鬱っぽかったって。
そりゃそうなるよ。


でもそれなりに幸せやったんかな?子供がおるから?
今となっては、私がいて幸せだったってこと、もう知ってる。そう思ってる。今は。
ちゃんと、ずっと、不器用なりに愛してくれてたのも、今も愛してくれてるの知ってる。


私も親やから、もし子供が私に遠慮して『ママが幸せになるまで幸せにならない』なんてことしてたら、なにやってんの!って思う。
子供が幸せなら、親は幸せなんやから。
でも同じように、私が幸せなのは、子供も幸せなの知ってる。
私が幸せなら、母さんも幸せやんな?そこにまだ少し自信が足りない。
親が幸せなら、子供は幸せ。
母さんは、今幸せなん?そんなことを考えてしまってた。


母子は癒着しやすいけど、そりゃあ元々文字通り繋がってたわけやしね。



まさか、母さんと癒着してたとは。
ずっと父さんとの問題ばっかりが浮上してたから。

私にとってのラスボスは父親やと思ってたけど、母親もやったなーw


母さんにムカつきたくないし嫌いにもなりたくない!と思ってたのは、そういうことね。ものすごく深い罪悪感があったわ。


母さんが更に幸せになるには、私が見本になってもええんやね、大人の女同士として。




『愛することで、愛される』

自分のことも。相手のことも。

愛されてしまうかもしれない、それが怖くて、愛することを避ける時もある。

それは、愛されてしまったら、それを失うのが怖くなるから。
愛される幸せと同時に、失ったことがある傷が出てくるから。


本当は失ってなかったのに。
見えてなかっただけ。
『愛がなければ視えない(みえない)』
私の好きな漫画のセリフ。


見えてなかったものを、『ある前提』で見ると、確かにあったことに気付いて、涙が出た。感謝の涙。愛情の涙。
それと、気付けなくてごめん、受け取るのが遅れてごめん、っていう罪悪感の涙。
もっと早く見えていたら…タラレバ娘になってしまう。


『その時は見えへんかってんからしゃーないやん!』
っていう今の私と
『でもでもだって!』
まるで子供の私。

大人の自分と子供の自分が喧嘩してるみたい。


もっと早く気付けたら…

これは、両親に対しても、元旦那に対しても。

とにかく家族全般に対しての罪悪感がものすごい。

あーこれ、元旦那もそうやろうなぁ…

でも、人はその時その時で、ベストを尽くしてる。
その当時の私には、それがベストだっただけ。
見えない状態だったから仕方ない、見えないなりに、もがいたんやから。



私のこの愛情深さは、間違いなく母親から貰った。


ノイローゼになりながらも、助けてくれないことがあっても、それでも私のこと見捨てなかった。

私が元旦那にしようとしてた、今でもしてるのは、そういう愛し方やわ。
これは今やっと気付けたわ。



自己犠牲が癖というか趣味というか。
そしてこうやってグルグル考えて文字に起こすことも、趣味w




愛してる人が遠ざかるのも怖いけど、それでも私は、一度愛するって決めたら、とことん愛する。
仮にその人と離れても、幸せを願い続けるって愛し方を、ずっとし続ける。
いつからこうなった?


結婚したから?
子供が産まれたから?

それは間違いなくある。


愛しにくい状態の相手でも愛そうとすることを、ずっとやってきたから。


彼のおかげも、もちろんある。



愛されなくなったとしても、私の価値は変わらんってことは知ってる、『愛されたことがある』ことは私の中から消えへんから、私がそれを覚えてる限り、この幸せは継続するんやない?


私のこと愛してくれてありがとう。
だからもう夫婦じゃなくても大丈夫やねんもん。
本気で嫌いになることはないのも知ってるから。


ただ、元旦那の父親という役割に関しては、執着してる。
子供もおるからさ。
子供とパパが遊んでるところ、見たいのよ。
私にはそれが少なかったから、あんたらがそれを見せて欲しいのよ、叶えて欲しいのよ、理想やった私の子供時代を今度こそ。


子供に対しての罪悪感でもある。
元旦那に対しても。




そして人を愛せなくなる方が怖いのは、愛されない自分より、愛せない自分の方が価値が揺らぐから。


だからなかなか、元旦那に対しても、彼に対しても、怒りを出すのは怖い。
恨みたくない、嫌いになりたくない、そうなるくらいなら離れたい。
それに私は、口撃力が高いw
だからなるべく冷静に、大人しく、良い子に振る舞おうとする。元旦那には、相変わらずキツいとこもあるけどw


こういうところも私の一部なんやけどね、雑に扱われたらちゃんと怒ったっていいのにね。

愛せない自分でいることの方が、私は傷付いてしまう、愛されないことよりも。


怒るからって愛してないわけでもないのに。



でもふと気付いた。

どのみち私から愛がなくなることはないよなって。



見捨ててしまう気分になってしまうから、見離すことはできない。それを愛せなくなったって思ってしまうから。
『愛せない自分』がいることも、受け入れる時なのかもしれん。
『今は』『愛したくないところは』愛せないことを。


常に愛そうとせんでええがな。

こんなところにも完璧主義?
全てを愛せないと意味がないと思ってた?
そんな女神様みたいな部分しかない人間おらんよ。


愛さないといけないわけじゃないのに。
愛せなくてもいいのに。


そんな自分のことはまだ、許せないんやな私は。


一時期でも父親を嫌いになったことの罪悪感、自分の傷。
それも影響してるんかな。
今後こそ、完璧に、完全に愛したかったのにって。




相互依存。
自分の欲を満たしてもらって、相手の欲を満たしてあげる。
与えて、受け取る。受け取ることで与えてる。
愛して、愛される。
愛してもらうことで愛することになる。
相互依存ってめちゃくちゃ愛まみれ。


愛してもらいたい欲も愛したい欲も、どちらも満たせるってめっちゃ幸福、それを知ってる。



相互依存。
自立しながら、依存心を出す。
依存心を背負わせるのではなく、満たし合う。


依存心だけでも、自立心だけでも、相互依存は完成しない。

愛されたいだけでも、愛したいだけでも、愛し合う関係は完成しない。



元旦那との関係で知れた。

男としての未練みたいなものではない、そんな次元ではない、でもいちいち引きずってるのは確か。

だって、深い罪悪感を抱いてるから。


罪悪感と愛情は比例する。


元旦那だろうと、愛情持ってんのは当然。
家族やと思ってるから当然。


癒着してたのがなんでか、今ならほんまによくわかるわ。

闇の部分で繋がってた。
罪悪感で深く繋がってた。
お互い同じ傷を持ってて、共鳴し合ってた。


私の闇を受け入れたのはあの人だけやと思ってた、だから私も闇を受け入れたかった。
だから離婚もなかなかできひんかったんよなー。
私にしかそんな闇見せてないなら、私にしか受け止められへんやん、って。


彼に対しても、愛情はある。めっちゃある。
でももしかしたら、私の愛すら、彼には重いかもしれん。
罪悪感の強い人は、愛されることが怖いものやから。
なら、闇の方はもっと重いんやないか?
って、彼はどうせ受け止められへんって、その程度の男やって思ってるようなもの、失礼やな。

そりゃわからんけどさ。
受け止めきれんかったとしても、誰も悪くないし。


背負わせる気は全くないけど、見せるのもマズイかなって。

そしてもし受け入れられてしまっても、怖い。
だってそんなん、依存してしまいそうやんw


はいはい、親密感への怖れね。



ただ、怖いねんな、また、元旦那との関係みたいになるのが。
色々やらかし合った方ではなくて、愛し合う関係性が怖い。



元旦那とはほんま色々あったけど、愛し合うっていう関係性でもあったから。
苦しいことも減ったけど、幸せも減ってしまったけどね。
でもまだ過去のことで苦しさはあるし、結局離婚なんて形だけのものやって知れたのは収穫。

結局、形ではなく、心が問題になるだけやった。


形も影響してるように見えるけど、結局そこでどう感じてるか?っていう、心の問題やから。







ほぁあw



私がこういうテーマよく書くのは、心の整理なのか?単なる趣味なのか?でも書いてて心地いいから、どんどん書いちゃうのかもしれない。


まじでなんか降りてきたん?てくらい、心のままに書いたけど、取り憑かれたようにスルスルっとw



『私は愛することしかできない』


そんな自分に嫌悪してるなんて、まさか、誰が気付くねん。w
だからこそ私は愛せないと意味がないなんて、これも誰でもなく勝手に私が私に理想を抱いて縛り付けてただけ。


でもその裏には、諦めと、深い深い傷があった。

『どうせ本気で欲しい愛は手に入らんから』
『だから私が愛するだけでもいいか』


ほんまに極端なヤツめw



でも一度だけ、私がほんまに欲しかったのはこれや…!って、号泣した愛を受けたことがある。


それが、どんな言動も受け入れて許して愛そうとした、家族への私の愛を、私自身に初めて向けた時。

本当に欲しい愛は、元々は外側にあったけど、それをちゃんと私は受け継いで、持ってた。
本当に欲しい愛は、私が受け継いで、私の中にあった。
外側を探しても見つからんはずや、私の中にあったんやから。


この時はじめて、自分と繋がるってこういうことか…!っていう経験をした。


でもこの愛は元々、私が両親に向けてたものでもあり、そんな愛を持ってる人間としてこの世に誕生させてくれた両親が、私を私として誕生させてくれたから持って生まれてこれたものでもあった。


両親からは、本当に欲しい時期にはそんな愛を受けることはできなかったけど、私はずっと向け続けてたもの。

『親に貰えなかったものは、自分が与えにきたもの』

師匠のそんなセリフが思い出された。


ずーっと欲しかったのに、手に入らなかったもの。

 「それはあなたが与えに来たもの。」 

ずーっと求めていたのに、全然手に入らないもの。 

「それはあなたがすでに十分持っているもの。つまりそれがあなたの才能。」


師匠のブログより



愛して貰えないことで傷付いてずっと苦しんできたけど、孤独感で寂しくて何度も死にたくなったけど、師匠が言うように『問題の影に才能あり』『才能が問題を作る』のだとしたら、私がこんなに闇が深いのも納得。


クライアント様が言ってくださる中にも、それが示されてたこともあって、ほんと有難い存在ばかり。


深く傷付いてきた裏には、癒しっていう才能があって
孤独感の裏には、繋がりの才能があって
寂しさの裏には、安心感の才能があって
愛されなかった裏には、それだけ愛せる才能がある。
(他のことにも置き換えれるけど)


師匠のおかげで、自分はそうなのかもしれないって思えるようになって、先輩とか、仲間たち、家族や彼や子供たちのおかげで、更に自信はついた。

自分はそうなんだって思うと、そうである証拠ばっかり見つかる。

やっぱりこの世界は自分の心が映し出されてる。投影や。


『愛されたい』と思うことで深く傷付いてきたから、愛されたいと思うのが怖かったんやな。

別に愛することはできるから、って。


愛を受け取ってもらわれへんかったことで傷ついたことも何度もあるのに、それでも私は愛することはやめられへんねんな。
愛するのが怖いって面も確かにあるけど。
大好き!って思いたくない!って、最近も思ったけど、結局愛してしまう。


人は人を愛したいもの。
人は人に愛されるもの。

やもんなぁ。

でも今でも『愛されたい!』って、強くは思わん。


どうせ愛されてること知ってるから。
望んだ形じゃなかったとしても。


でも、私はこういう形が欲しい!なら、それは否定せず自分で受け止める。
受け止めた上で、理想と形は違ったけど、確かにそこにも愛はあるんやなって、愛を受け取る。
それも出来るようになってきたやん、私は。


これじゃないとイヤイヤ!って、駄々こねて拗ねてた、私の中の子供時代で時を止めてた小さな私。

もう、傷付いた少女から、大人になる時やな。
少女の良い部分は残して、甘えん坊で素直で無邪気な私は消さずに、というか最近それも出てこれたところやしね。


蝶よ花よと可愛がられて愛された頃の私を、また今の私に憑依させる時やな。



彼も、元旦那も、両親も、子供たちも、友達も、師匠も、ジュンコさんや先輩、同期の仲間たち、クライアント様、色んな人との繋がりで今の私が形成されてるんやな。


『天国へは1人では入れない』


師匠のいくつもの言葉がほんまに響く。
1人では、相互依存だって、愛し合うことだって、できひんしなぁ。


愛したい私は、そこに全振りするんではなく、自分を愛してもらうことも必要なんやなー。

じゃないと確かに『愛し合う』ではないわ。



自分を愛してもらう。
愛させてあげる。それは、相手の愛したい欲も満たすことになる。

その許可をもっと自分に出すには???

『罪悪感』を癒す。デスヨネー。


昨日根本師匠のセッション受けてきたから、また書きたいこと溜まってるw
色んな気付きももらえました〜。


あ、ちなみにこれも昨日投稿したかったけどなかなか晒せんかったやつね。(正直)


下書きまた溜まる一方よw



ほなまた!


心理カウンセラー 奈美でした。




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