行雲流水 ~所長の雑感~ -38ページ目

行雲流水 ~所長の雑感~

松田進税理士事務所 所長の松田が日々思うことを思うままに綴った雑記帳

 クリント・イーストウッドの硫黄島二部作「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」が公開されてから、書店には硫黄島関係の書物が山積みされています。

 私も映画はもちろん見ましたが、その追体験をしてみたくて「硫黄島栗林大将の教訓」小室直樹、「十七歳の硫黄島」秋草鶴次、「FLAGS OF OUR FATHERS」JAMES BRADLEY(英語はちょっと読み切れていませんが)を買って読んでいます。

 

米軍が5日で陥落出来るとした面積22平方キロ、周囲22キロの小さな島。島を包囲する機動部隊を含む500の艦船。山容が変わるほどの猛烈な空爆と艦砲射撃。火山島にめぐらした地下陣地に潜む二万一千名の日本兵、上陸する十万の米兵。36日にも及ぶ死闘。死傷者日本軍二万九百三十三名、米軍二万八千六百八十六名。昭和20年2月から3月にかけてのこの壮絶な戦いを改めて眼前にして感慨にふけっています。

 

 地図を見てお分かりのように、硫黄島は、日本本土の空爆をねらう米軍のB29(航続距離5千キロ)にとって格好の戦略拠点です。日本にとっては勿論生命線ではありますがそれ以上に初めての日本の領土(東京都)での戦闘でした。

 それゆえに米軍は日本を超える死傷者を出しながら攻め続け、日本軍は「17歳の硫黄島」に書かれたように文字どおり最後の一兵にいたるまで地獄以上の戦闘に耐え抜きました。そして耐え難いことには、戦後の日本は(私を含めて)この壮烈な犠牲と國を護る気概を語り継ぐことをしませんでした。

 

 イスラエルには「マサダの誓い」という精神的象徴があるそうです。紀元73年にマサダという岩山に立て籠もったユダヤ人が、ローマの大軍に7ケ月の抵抗の末、降伏を潔しとせず、一千人の集団自決を成就したと伝えられています。アメリカにも、西部劇に何度もでてくる「アラモの砦」など、建国の過程で国に殉じた人々を讃える叙事詩とも言うべき物語が伝えられています。

 それに比べて私たちは、あまりにも意識的に無関心を装わされていたのかも知れません。私が硫黄島という名を初めて知ったのは、多分ジョン・ウエインの映画「硫黄島の砂」だったと思います。

 50年前でしょうか。そして映画「硫黄島からの手紙」を見て、初めて島に住人がいたことを知りました。「17歳の硫黄島」を読んで、あの激戦のなかで生存者がいたことを初めて知りました。そして今、敗戦から現在までの60年は「硫黄島」が原点だったのでは、という思いが強く湧いてきています。


 アメリカの占領政策は、「硫黄島でのあまりにも強い日本軍との『勝者なき死闘』を二度と繰り返さない」に尽きるのではないでしょうか。憲法9条、安保条約と、まず法律でしばり、日本人の誇りを蘇らせないように、マッカーサーの「日本人の精神年齢は12歳」発言もありました。

 昭和20年以前の歴史の否定もしかり、忠臣蔵が長い間、歌舞伎でも映画でも上演禁止だったことは記憶に残っていますか。それを見事に逆手に取ってと言うべきか、見事にはまってと言うべきか、表現にとまどいがあるのですが、経済的発展と引き替えに、歴史と民族の誇りをすべて忘却したような今の日本があります。  


 「17歳の硫黄島」の著者・秋草鶴次さんは、17歳の通信兵として戦い「玉砕」の三ヶ月後に意識不明のまま米軍に救出されたのだそうです。

 この本のおわりは、「玉砕の一語では、あの島で死んだ仲間の思いが消えてしまう…それには耐えられない…」「死んでね…意味があるんでしょうかねえ。だけど無意味にしたんじゃかわいそうですよね。“おめえ死んで意味なかったなあ…”っていうのでは酷いですよね。…」「どんな意味があったかは難しい。でもあの戦争からこちら60年、この国は戦争をしないですんだのだから、おめえの死は無意味じゃねえ、といってやりたい」で結ばれています。

 私よりほんの10年の先輩がこんな思いで生きておられたのだな、と重い気持ちで受け止めました。戦争を美化するつもりはありません。事実「父親たちの星条旗」でも、摺鉢山に星条旗を立てた6人のうち3人は戦死。

 残る3人は英雄にまつりあげられ、戦時国債の募集にかり出されるますが、2人は若くして失意のうちに死亡、著者ブラッドレーの父親のみが葬儀屋として成功しますが、「CORPSMAN(衛生兵)」と呼ばれる硫黄島の悪夢に、死ぬまで苛まれています。今日のイラクの実状を見るまでもなく、戦争は常に勝者も敗者も庶民の犠牲によってしか遂行出来ません。憲法9条はすごいと思いますが、そのため先輩や祖先の経てきた歴史から目をそらしては本末転倒も甚だしい。若い世代に語り継がねばと思います。

 大川周明という名をご存じでしょうか。極東軍事裁判で東条英機の禿頭をペタリとたたいた男と言えば、かなり多くの人が「ああ、」と納得するかも知れません(もっともかなり年配の人に限られますが)。

 東京裁判から60年経って、あのニュース映画の一齣が、私の脳裏に鮮やかに蘇るのは何故でしょうか。東京裁判が、日本人を無力化するための謀略であるとすれば、あのプロパガンダはかなり効果的に強烈に日本人全体に刷り込まれたのかも知れません。

 日本のマスコミを覆う「自虐史観」にも、影響を与えているような気もします。しかし「日米開戦の真実」(小学館発行)という本に出会い、私からはもやもやが吹っ切れ、改めて大川周明という日本人の人となりと、当時の日本のおかれた状況と、国の決意を知りました。

 

 「日米開戦の真実」の前書きに『1941年12月の開戦直後、当時の政府は戦争の目的とそこに至った経緯を国民に対して論理的かつ実証的に説明することを試みた。その一つが大川周明によるNHKラジオの連続講演(12月14日~12月25日、12回)だ。

 この速記録は講演が行われた翌月(1942年1月)に『米英東亜侵略史』(第一書房)という単行本として上梓され、ベストセラーになった。本書を読めば、日本が何故にアメリカ、イギリスとの戦争に至らざるを得なかったかがよくわかる。さらにその内容が、客観的事実に基づいた冷静な主張であることにも驚かされる。

 本書にはその全文を掲載している。読まれた方は「鬼畜米英」などといった過激なプロパガンダが見られないことを意外に思われるかも知れない。しかし、そのことは当時の日本国民の知的水準の高さを示している。』と書かれています。


 著者は佐藤優。1960年生まれ。同志社大学大学院神学研究科終了後、外務省入省。

 英国、ソビエトの日本大使館勤務を経て、国際情報局分析第一課に勤務中、2002年5月に鈴木宗男事件に絡まって逮捕され、現在起訴休職中だそうです。「国家の罠」など著書訳書多数。この人の評価は後に定まるのでしょうが、若い人がきちんとした見識を持っているのに、なにかほっとしたものを感じています。

 見開きに「A級戦犯容疑者・大川周明に法廷での証言を許されていたら歴史は大きく変わっていただろう」とありますが、連合軍が米英の植民地経営の実態や東京裁判の欺瞞さを暴かれるのをおそれて、当時の最高水準の知性を、精神障害に名を借りて証言を避け不起訴にしたにおいさえ感じられます。


 「米英東亜侵略史」を読むと、イギリスの植民地政策のインドや清国へのえげつない実態とペリー来航以来の太平洋戦略のもと、意図的にフィリピン、グァムを足場に満蒙への執拗な介入や、在米邦人の排斥など露骨に中国への利権に絡んでくるアメリカの下心が明白になってきます。

 今から思えば植民地を食い物にすることで成り立っていた英国の世界支配が終わりに近づき、ようやくみずからの力に気づいたアメリカ帝国が野心を剥き出しにし始めた時だったのでしょう。

 そして、ロシアの南下を死にものぐるいではねのけ、中国大陸の北東部に橋頭堡を築いた日本の勢力とがぶつかったのが大東亜戦争でした。その後冷戦時代を挟み、国と国との勢力争いは間断なく続いています。


 2001年9月11日以後、新たな問題が加わりました。イスラム世界です。しかしこれも新たな問題ではなく、20世紀初頭から続いている列強の中東分割の付けが今表面に現れてきたにすぎません。

 数百年の間、戦争を繰り返していたヨーロッパ諸国は、欧州連合(EU)と言う形で収まり彼ら同士で戦う愚は避けられそうですが、彼らが世界に蒔いた戦争の種を刈り取るには、まだまだ時間がかかりそうです。

 そして中国が力を付けてきました。時代が変わったとはいえ、日米問題はどうしても中国とのつきあい方にかかっていそうです。


 この時代の舵取りをする日本の新しい指導者を待望するところですが、指導者の知的水準はまた広く国民全般の知的水準の高さの表れでもあります。歴史は繰り返すと言います。

 政府は教育基本法を改正し、憲法改正に一歩を踏み出しそうな構えを見せています。この流れにただ流されることなく、誤りのない選択をするために、日本のターニングポイントでもあった昭和16年12月8日の直後に発表された、大川周明の「米英東亜侵略史」を読み解き、謙虚に歴史に学ぶことは、これからの世界に賢く生きていくために大事なことのように思えます。

 「なにごとのおはしますかはしらねども かたじけなさになみだこぼるる」西行法師。皇大神宮(内宮)の御垣内に立ち特別参拝をしたとき、西行ほどではありませんが身の引き締まる思いがしました。

 私にも日本人としてのDNAが呼び覚まされたのでしょうか。2月20日上御霊神社の小栗栖宮司の案内で「伊勢神宮初詣」に初参加してきました。伊勢には何度か訪れているはずなのですが、外宮、内宮に参拝するのは初めてだなと、五十鈴川にかかる宇治橋を渡りながら確信しました。大勢の人が訪れているにも関わらず神宮の森の静けさと、唯一神明造の神殿の簡素さと荘厳さに、二千年を越えるこの国の歴史と大和民族の叡智を感じていました。


 神宮のパンフレットによれば『皇大神宮(内宮)は皇室の祖神の天照大神(アマテラスオオミカミ)をお祀りし、豊受大神宮はアマテラスオオミカミのお食事を司るトヨウケオオミカミをお祀りしています』と書かれています。

 ここで、はっと気づくと同時に皆様にお詫びしなければなりません。2002年12月のタイムズに、丹後一宮籠(コノ)神社から天照大神が伊勢に下ったと書いていますが、豊受大神の間違いでした。皇室の祖先が何故、丹後にいたのか長い間疑問だったのですが、これで納得がいきました。

 アマテラスがトヨウケを呼び寄せた、あるいは神慮によってお迎えしたのでした。これをヒントに一気に古代のロマンが頭に浮かんできました。


 日本の文化は北九州から瀬戸内海を通り畿内に至り、ヤマト朝廷が成立したというのが定説でした。それが神武東征の物語などに表されています。しかし最近相次ぐ考古学的な発掘によって、出雲、丹後、越後に鉄器を含む弥生時代の先進的な文化圏の存在が続々と証明されているようです。

 朝鮮半島から壱岐、対馬を経て北九州、瀬戸内、畿内が文化の伝達の常識的なラインですが、見方を変えると新たな視点が見えてきます。朝鮮半島の南端から海峡へ乗り出すと、南下して北九州を目指すより東進するほうがより自然なことに気づきます。日本海流です。海流を横切るより流れに乗った方が楽。そして山陰地方の地図を見てください。

 プサンの真東に出雲の日御崎が、まるで手のひらですくうような感じで待ち受けています。次は丹後半島、最後に大きく能登半島が待っています。紀元前後から2、3世紀にかけて文化の伝達は北九州、瀬戸、畿内の狭いラインではなく、日本海流を通じて出雲、丹後、越の国を通じて日本列島に重層的に伝播していたのです。


 豊受大神宮の鎮座は5世紀とされていますから、壬申の乱(672年)や法隆寺建立(607年)などを経て、天皇家の支配が固まる200~300年前にヤマトの勢力と丹後の勢力の結びつきが出来ていたのでしょう。

 そうとすれば出雲はどうなっていたのでしょうか。大黒主命(オオクニヌシノミコト)を巡る国引きや、因幡の白兎の話は飛鳥時代の律令制の成立などにどんな影響を与え、どんな役割を果たしていたのでしょうか。

 謎がいっぱい広がります。私はまだ出雲大社を参拝したことがありません。行けばなにか見えてくるものがあるのでしょうか。楽しみが一つ増えました。


 ところで前号に続いて式年遷宮ですが、式年遷宮制の始まりは神武、持統のころ690年と伝えられています。法隆寺の建立は607年です。ということは当時千年を越える耐久力をもつ先進的な木造建築法が知られていたにも関わらず、神宮は伝統的な掘立丸柱にしているのには確かな意図が感じられます。常に古くて新しいものを20年毎に造り替え、生命が連続して継承してゆく宇宙の真理を表現しているのでしょうか。

 今回の式年遷宮は平成25年ですが様々な行事は平成6年から始まっています。今回は機会ある毎に関心を持って見守り、出来れば参加もしてみたいものです。日本の国の成り立ちを、現在の日本のあり方を考えるためにも、神話、古事記、日本書紀を読んでみたいと思えてきました。

 「常波のよせてはかえす伊勢の国五十鈴川の川上に、二千年余の間鎮まります伊勢の神宮。千三百年の昔より式年を二十年に一度と定めて、六十二回を数える遷宮がいよいよ平成二十五年を目指して挙行されます。

社殿はもちろん御敷地にしきつめられる白石、御装束神宝などすべてを、伊勢の大神様のためにと精魂込めて一新し、荘厳で壮大な式年遷宮をめぐる三十余りの諸祭が斉行されます。


 千古の時を経て受けつがれてきた数々の祭を通じて、日本の『心と形』をつぶさに学ぼうと、神宮のお膝もとの皇學館大學の主催で、ご神宝調製に携わられる京の匠の皆さんのご協力も得て、公開講演会を催すことになりました。」……第六十二回伊勢神宮式年遷宮記念講演会、主管:京都府神社庁。というチラシを上御霊神社で見て、12月2日 醍醐交流会館で勉強して来ました。
 

天照大神をおまつりした皇大神宮(内宮)は3世紀頃、豊受大神宮(外宮)は5世紀頃にご鎮座と、日本書記、倭姫命世記にそれぞれ記述があるそうです。神殿は掘立式丸柱、棟持柱、高床式、素木造、切妻・茅葺屋根と弥生時代以来の高床式穀倉の様式を忠実に伝えています。

 穀倉での祭祀ということは稲の豊作祈願と収穫感謝を行う、豊葦原の瑞穂の国(日本の美称)の昔からの日本の成り立ちを伝えているようです。神宮正殿は古墳時代のある時には既に存在したとも言われています。

 

神宮の造り替えは、御用材の伐採、御木曳行事や造営が新聞やテレビでも報道されますのでご存じの方も多いと思いますが、室内飾具、座臥具、装飾具、衣服、化粧道具などの御装束、神宝と呼ばれる日常用具(紡績具、武具、馬具、彫馬、楽器、文具)の全て、約800種1600点が奉製されるそうです。感心したのは古式の材料・規格・技法に基づき奉製されますが、それぞれの時代の匠たちが、その時代の最高水準の工芸技術を駆使しながら、技と心を次の世代に伝えていっていることです。

 20年毎というのは親、子、孫が同時に最高の技術を共有しうる貴重な経験だと言うことを、当日の講師の一人現代の匠、錺金具師、森本安之助さん(昭和28年に初参加以来既に3回、次回奉仕出来れば4回目)がおっしゃっていました。


 明治37年、時の宮内大臣、田中光顕などが、「……次回の造営まで僅かに二十年、用材成育せず。……今度造営に際し、柱を土中に樹つるの古法を改めて、柱下に礎石を置き、コンクリートを以て固むる時は即ち二百年を保つべく、……」と献策したのに対し、明治天皇は「それは大変な間違いであろうと思ふ。

 神宮の御造営といふものは我が国の固有の建て方である。これを見て始めてこの国の建国の昔の古いことを知り、一つは祖宗がかくの如く御質素な建物の中に起臥をあそばされたといふことも知るし、神宮を介して始めて我国建国の基を知るのであるから、現在のこの建て方は全く永世不変のものでなくてはならぬ。

 決して建築法が進歩したからと言って、煉瓦とかコンクリートで造るべきものではない。」と沙汰されたそうです。式年遷宮制の成立は天武天皇、持統天皇のころ、690年と伝えられています。それから数えて62回、万物流転する中で不変なるものの存在とそれを支える心を率直に表した言葉のように思います。


 変革、改革と軽々しく騒ぎ立てる、グローバルスタンダードのような言葉に浮かされ、日本の持つ優れた伝統や習慣を簡単に捨て去っている中にあって、二十年毎の行事のために九年間準備し続ける人たちが存在する事が驚きでした。

 教育基本法の改革や憲法論議をする前提に、日本の伝統の基である式年遷宮に平成25年までじっくりつきあってみるのも世直しのために一番必要なことのように思いました。

 去る11月1日、表記のテーマで「社長の決断」― 元気な会社はあなたがつくる!― と題してセミナーを開きました。

 ご参加いただいた15名の顧問先の皆様と、京都銀行、大同生命、TKCの関係者に心よりお礼申し上げます。TKC全国会が2005年より全国1500事務所で3万余の経営者にお出でいただいて、 表記のテーマでセミナーを開いているのには二つの理由があります。

 

一つは正確な数値に基づく経営がいかに大切か、または企業の存続発展にいかに貢献しているかを再認識していただくためです。というのは国税庁の資料によると、70%強の法人が赤字申告をしているにも関わらず、BAST(TKC経営資料)によるとTKCの計算受託法人では50%の赤字率であること。さらにFX2による自計化企業、継続マスによる経営計画作成企業、税理士法33条2項1号による書面添付企業は黒字率が60%を超えていること。

 これは正確な決算が黒字経営を呼ぶことを如実に示しています。このことをTKC関与企業は申すに及ばず、それ以外の企業や金融機関にまず知っていただくのが一つの目的です。


 今一つは国の中小企業政策が根本的に変わりました。それまで中小企業は弱いもの、保護すべき対象であったものから、中小企業こそが、新たな産業創出の基盤であり、雇用確保や、地域経済活性化の担い手だとして、中小企業経営革新支援法から新事業活動促進法などが制定され、積極的に経営革新を企てる企業に、低利融資、税制措置、販路開拓などに支援措置が講じられています。

 これらのことに対しTKC全国会を挙げてお手伝いしようというのが今回のもう一つ大きな理由です。


 当日はTKC全国会が作成した、「社長の決断」のパワーポイントをベースに


私が

【1.イノベーションを生むパラダイムの変化】

【2.自社の現状分析と経営戦略を考える】

【3.経営革新で会社を元気にする】

というテーマで講演いたしました。


  一口で説明すると【1】は企業と人口の減少社会の進行、国内では少子化による高度消費社会の実現、海外ではBRICsなど新興国の量的拡大、IT社会の進行による電子商取引、電子政府の拡大、新会社法の施行に代表される制度の急変など、急激なパラダイムの変化が起こっていることを認識していただきました。

 【2】では【1】を受けて改めて自社の経営理念を見直し、単なる金儲けを超えて、社会に対し自社がどんな働きかけをしたいのかを見据えて、『戦略』を練り『計画』を建てることを考えていただきました。

 【3】では当事務所のサポートをベースに「中小企業新事業活動促進法」の活用などを通じて、経営革新の端緒をつかんでいただき、最後に石田梅岩の「石門心学」ー商道の本質で締めくくりました。


 10分の休憩をおいて京都銀行のシンクタンク京都総合経済研究所の常務、林隆憲様から「銀行との上手なつきあい方」と題して、


【1.銀行融資の考え方】

【2.信用格付について】

【3.銀行の不良債権処理と新BIS規制】

【4.銀行とのつきあい方5つのポイント】

をご講演いただきました。趣旨は銀行も過去の不動産担保主義からは大きな変化を遂げている。決算書を基にした定量要因分析と『ヒト』『モノ』『情報』からの定性要因分析により、顧客の格付をすでに済ませている。これからの融資には経営計画書(経営改善計画書)が大きな要素になるだろう。とのことでした。


 ともあれ時代は急激に動いています。経営革新が強く関心事にはなっています。

 しかし経営革新は今だけのことではありません。今私たちは現在のお客様に現在の商品・サービスを提供して経営してます。

 しかし今のお客様は必ず無くなります。常に新規開拓が必要なのは今に始まったことではありません。今の商品・サービスは必ず陳腐化します。常に新しい商品を発掘し続けるのもあたりまえのことです。

 いつの間にか10年前、もしくは20年前とは、お客様も商品も随分変わってしまったなあ、というのが経営革新をし続ける企業の普通の姿だと思います。お互い切磋琢磨してゆきましょう。