「なにごとのおはしますかはしらねども かたじけなさになみだこぼるる」西行法師。皇大神宮(内宮)の御垣内に立ち特別参拝をしたとき、西行ほどではありませんが身の引き締まる思いがしました。
私にも日本人としてのDNAが呼び覚まされたのでしょうか。2月20日上御霊神社の小栗栖宮司の案内で「伊勢神宮初詣」に初参加してきました。伊勢には何度か訪れているはずなのですが、外宮、内宮に参拝するのは初めてだなと、五十鈴川にかかる宇治橋を渡りながら確信しました。大勢の人が訪れているにも関わらず神宮の森の静けさと、唯一神明造の神殿の簡素さと荘厳さに、二千年を越えるこの国の歴史と大和民族の叡智を感じていました。
神宮のパンフレットによれば『皇大神宮(内宮)は皇室の祖神の天照大神(アマテラスオオミカミ)をお祀りし、豊受大神宮はアマテラスオオミカミのお食事を司るトヨウケオオミカミをお祀りしています』と書かれています。
ここで、はっと気づくと同時に皆様にお詫びしなければなりません。2002年12月のタイムズに、丹後一宮籠(コノ)神社から天照大神が伊勢に下ったと書いていますが、豊受大神の間違いでした。皇室の祖先が何故、丹後にいたのか長い間疑問だったのですが、これで納得がいきました。
アマテラスがトヨウケを呼び寄せた、あるいは神慮によってお迎えしたのでした。これをヒントに一気に古代のロマンが頭に浮かんできました。
日本の文化は北九州から瀬戸内海を通り畿内に至り、ヤマト朝廷が成立したというのが定説でした。それが神武東征の物語などに表されています。しかし最近相次ぐ考古学的な発掘によって、出雲、丹後、越後に鉄器を含む弥生時代の先進的な文化圏の存在が続々と証明されているようです。
朝鮮半島から壱岐、対馬を経て北九州、瀬戸内、畿内が文化の伝達の常識的なラインですが、見方を変えると新たな視点が見えてきます。朝鮮半島の南端から海峡へ乗り出すと、南下して北九州を目指すより東進するほうがより自然なことに気づきます。日本海流です。海流を横切るより流れに乗った方が楽。そして山陰地方の地図を見てください。
プサンの真東に出雲の日御崎が、まるで手のひらですくうような感じで待ち受けています。次は丹後半島、最後に大きく能登半島が待っています。紀元前後から2、3世紀にかけて文化の伝達は北九州、瀬戸、畿内の狭いラインではなく、日本海流を通じて出雲、丹後、越の国を通じて日本列島に重層的に伝播していたのです。
豊受大神宮の鎮座は5世紀とされていますから、壬申の乱(672年)や法隆寺建立(607年)などを経て、天皇家の支配が固まる200~300年前にヤマトの勢力と丹後の勢力の結びつきが出来ていたのでしょう。
そうとすれば出雲はどうなっていたのでしょうか。大黒主命(オオクニヌシノミコト)を巡る国引きや、因幡の白兎の話は飛鳥時代の律令制の成立などにどんな影響を与え、どんな役割を果たしていたのでしょうか。
謎がいっぱい広がります。私はまだ出雲大社を参拝したことがありません。行けばなにか見えてくるものがあるのでしょうか。楽しみが一つ増えました。
ところで前号に続いて式年遷宮ですが、式年遷宮制の始まりは神武、持統のころ690年と伝えられています。法隆寺の建立は607年です。ということは当時千年を越える耐久力をもつ先進的な木造建築法が知られていたにも関わらず、神宮は伝統的な掘立丸柱にしているのには確かな意図が感じられます。常に古くて新しいものを20年毎に造り替え、生命が連続して継承してゆく宇宙の真理を表現しているのでしょうか。
今回の式年遷宮は平成25年ですが様々な行事は平成6年から始まっています。今回は機会ある毎に関心を持って見守り、出来れば参加もしてみたいものです。日本の国の成り立ちを、現在の日本のあり方を考えるためにも、神話、古事記、日本書紀を読んでみたいと思えてきました。