行雲流水 ~所長の雑感~

行雲流水 ~所長の雑感~

松田進税理士事務所 所長の松田が日々思うことを思うままに綴った雑記帳


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(今回も同志社と新島襄に関心のない方はスルーしてください)

 

同志社会計人会という集まりがあります。会長を2年交代で税理士、公認会計士が努めています。去年からの高橋会長の発案で、新島の足跡を訪ねようと、去年は生誕地東京、終焉の土地大磯、実家の安中を訪ねました。そして今年は出国の地、函館というわけです。

新島は1864年6月14日アメリカ船ベルリン号で上海へ、その後おなじくアメリカ船ワイルドローバ号で香港、マニラ、ケープタウンを経て1865年7月ボストンに到着します。来年以降「新島襄の足跡を訪ねて」はどこを訪ねるのでしょうか。新会長の胸三寸や如何に。

 

9月14日午後3時にホテルラビスタ函館ベイ、ロビーに集合。会長、副会長はじめ、今回の案内役百合野先生と東京から松本先生など20名ほどのメンバーの顔が見えます。先発の百合野先生によると、9月6日の地震の後停電が続いていたようなのですが、ようやく回復しつつあるようです。この日の夕方、函館山からの函館の町の灯はきれいに見えていました。さて坂の町、函館の健脚向き2時間のウォーキング・ツアーの出発です。

 

まず「新島襄海外渡航の地」の碑。碑の説明文の中に「男児志を決して千里を馳す 自ら辛苦をなめてあに家を思わんや 却つて笑う春風雨を吹くの夜 枕頭なお夢む故園の花」の漢詩に感激。出国(1864年6月14日)の翌年、香港での作だそうです。ホテルからほんの数分の岸壁にありました。すぐ近くにある小舟に乗りこんで外国船に向かう姿を再現したブロンズ像は港の改修中で白布をかぶっていました。

 

坂道を上った中腹に「諸術調所跡」の看板。説明文には、「函館奉行所の教育、研究施設。教授は五稜郭の設計で有名な武田斐三郎で蘭学はもとより測量、航海、造船、砲術、化学などをおしえた。新島が函館に来たのも諸術調所へ入るためで、新島が出国したのも武田がすでに江戸の江戸開成所(東大の前身)に転出していたため、とも言われている。」と書かれていました。

 

あちこち歩いてかなりお疲れが来たころ、ようやくハリストス正教会に着きました。ハリストス正教会は新島が武田不在のため、司祭ニコライの日本語教師を務めながら、ここに滞在していたそうです。この聖堂は日本ハリストス正教会の発祥の地にあること、19

83年には国の重要文化財の指定を受けていること、また大小六個の鐘の音が高い評価を得て1996年環境庁から「日本の音風景百選」に認定されていることなどの説明文がありました。心地よい鐘の音に送られてここを離れました。

 

翌朝、津軽海峡を渡り、本州最北端マグロの町、大間を経て、風間浦村の「新島襄寄港記念碑」を訪問。碑文によると安中藩の洋式帆船、快風丸で函館を目指した新島は強い北風と海流を避けるため、この村の下風呂港に寄港し下風呂温泉に2日間滞在したことが、航海中の日記「函館紀行」に書かれているそうです。午後遅く再び津軽海峡を渡り、明治維新最後の函館戦争の舞台、五稜郭を訪れ五稜郭タワーに上り、土方歳三の銅像に対面し、今年のツアーは終了しました。

 

ここまで書いてきてふと気がついたことがあります。今まで新島の出国は、硬い意志の元、既定の事実として函館が選ばれ、虎視眈々と機会を伺い決行されたものと、思いこんでいましたが、ちょっと違うような気がしてきました。いくら何でも藩の洋式帆船、快風丸を新島の出国の手段として使えるはずはありません。

 

想像を交えてストーリーを書けば。安中藩のなにかの事情で快風丸の函館行きが決まりました。新島はかねてから関心のあった諸術調所に学ぶべく、この機会を利用しようとしましたが、武田不在でこれは果たせませんでした。ニコライの日本語教授の口実で滞在しながら、西洋事情をさぐるうち、福士成豊に出会います。福士は当時造船技術を学ぶため英語に堪能で西洋事情にも詳しかったようです。新島のアメリカ行きへの希望に協力的で新島のため小舟を借りるなど積極的に協力したようです。函館滞在は40日ほどだそうですから、ことはトントン拍子に運んだのでしょうか。

 

最後に五稜郭での感想。新島襄の出国は元治元年(1864)年6月14日、池田屋事件(土方と新選組を世間が知った事件)は元治元年(1864)年6月5日、新島の帰国は1874年31歳、土方の五稜郭での戦死は1869年34歳。二人の人生は何の交差もすることはないのですが、同時代に生きた二人の若者がそれぞれの置かれた環境と己の信念に従って生き抜いたことに、感銘を覚えました。


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「同大と英オクスフォード大のヨット定期戦が9日、大津市唐崎沖の琵琶湖で行われた。(写真)今年で30年目を迎える伝統のレースで、日英の学生セーラーが交流を深めた。…………」という記事が京都新聞に乗りました。この定期戦はみどり会タイムズにも2回(Vol.32、Vol.194)紹介していますが、30年経過すると、世間でも「伝統の一戦」と呼ばれるようになるのだな、と一瞬感慨に耽りました。勿論われわれ同志社ヨット部OB会鯨会も30年のアニバーサリーパーティには充分な準備をしてきました。一番の目玉はこのイベントを仕掛けたとも言える人達を、すべて招待できたことです。

 

まず当時オ大のヨット部の学生だったジャン・フィリップ・スネリング(通称JP)と彼の母ミシェル・スネリング。彼の父クリストファー・スネリング(英国会計士でオ大・ヨット部OB)と仕事で親交のあった京都の中野淑夫公認会計士(同志社会計人会の初代会長でもあります)、と現在は税理士法人堂島会計事務所の代表社員、山口能孝さんの3人です。

 

この物語はこの3人から始まります。父クリストファーについてしばしば京都を訪れていたJPはオ大のヨット部学生と日本の大学ヨット部との交流を計る、という構想をもっていたようです。中野先生の紹介でたまたまクルーザーで琵琶湖周航中、山口さんと乗り合わせ自分の考えを披露しました。山口さんは中学生のころ、OPクラスヨットのチャピオンで前年まで同大ヨット部に在籍していました。同大ヨット部は当時全日本学生選手権4連覇中で、交流するなら同大しかないと話したようです。それで鯨会に接触してきました。

私は当時ヨット部OB会鯨会の運営副委員長をしていましたので、当時委員長だった稲本先輩、山口OB会長とともに、検討を始めましたがまるで雲をつかむような話。オ大やオ大ヨット部からの正式な要請ではありません。JPの熱意は充分感じ取れるのですが、言えば一学生の希望にすぎません。トラブルがあったとき責任の所在は。渡航費用はどうするの。一過性のものでは意味がない。等々問題は山積していますが、どれも解決の糸口はありませんでした。結論はまず一度、同志社からオックスフォードへ行かせて、レースをやってみよう、話はそれからという大胆なものでした。

 

1、2年の準備期間を経て平成元年、OB会長山口さんを団長にOB数名、選手は8名、長男の哲也がキャプテンをしているときでした。

 

JPの父親のクリストファー・スネリングさんは仕事での来日もあったのでしょうが、何回も我々と接触を図ってくれました。たまたま同い年で同業ということもあって、親しくなり数年後私が渡英したときは、自宅でディナーをご馳走になりました。後日TKCの税理士数名でテームズ川沿いの彼の事務所を見学し、英国の税務や会計の実情に触れられたのも貴重な経験でした。しかし激務のせいか60代で亡くなって、今回参加できなかったことは誠に残念でした。

 

さて「同志社オックスフォード定期戦30周年記念パーティ」「DOSHISYAOXFORDEXCANGETHIRTIETHANNIVERSARY」は、4人の男性、5人の女性のオ大セーラー、先述のJPと3人の招待者、6人の同志社大学関係者、5人のスポーツユニオン関係者、監督以下6人のスタッフ、34名の現役と45名のOB計109名で始まりました。まず今年4月から新任の空閑部長先生の挨拶、次に同志社大学を代表して、副学長のグレゴリー・プール先生が挨拶されましたが、プール先生はオックスフォード大出身と聞いて,なにかうれしくなりました。

 

乾杯のあとのディナー、各テーブルに1、2人いるオ大生との歓談が始まります。私の席にはロウェーナとクレアの2人の女子学生、それぞれ数学と哲学、政治と経済を専攻している22と21歳の才媛でした。隣のロウェーナが早速ニコニコと語りかけて来ます。各テーブルとも話が弾んでいるのをみて歴史の積み重ねの力を感じました。最初の頃は公式の通訳がいない限り言葉の壁でシーンとしたものでした。10年くらい前からでしょうか、帰国子女が増えたせいもあって、なんとなく賑やかにそこかしこで会話の声が聞こえていました。今年は静かなテーブルをほとんど見かけませんでした。

 

そのうちオ大のメンバーのスピーチが始まりました。オ大のメンバーは一人ずつ同志社のメンバー宅にホームステイをしています。そのパートナーが横について、通訳を始めました。今の学生の語学力について感心していると、なんとスマホの翻訳機能を使っていました。彼らの親密度合も以前とは格段にあがっているのでしょう。彼らのこれからの私的な交流が将来の日英関係にいい影響が出来るのではと空想しています。

 

こんな出会いを作ってくれたJPをはじめとするOXFORDの関係者、勇気ある見切り発車をしていただいた元山口会長、その後のバトンをしっかり引き継いでいてくれる、後輩の鯨会のメンバーに感謝したいと思います。余談ですが当時学生だったJPも英国会計士となって日英の橋渡しをしていますし、前述の山口君も同業者、不思議な縁を感じます。クリストファーの導きでしょうか。


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一般に京都西コースとよばれることが多い、舟山コースですが京都のゴルフの初心者には懐かしいコースです。私も18番のパー3で、右の竹藪へ何発ボールを打ち込んだか。また最近は整地されてやや緩やかになっていますが、当時203高地と呼ばれていた急傾斜の5番ホールのグリーン、何度打っても打ったところに転げ落ちてくるくやしさ。しかし比較的距離は短く、OBさえ打たなければ、初心者でも意外と好成績も出せるコースでした。

 

今まで2度のハーフ30台の一つもこのコースでした。ところが舟山コースのすぐ上に大文字の舟形があり、それが名前の由来だと知ったのは最近のことです。若いころは周囲の景色など一切目に入らず、ただひたすらボールを打っていたとは、「若気の至り」とはいえ恥ずかしい限りでした。

 

ところで京都ゴルフ倶楽部から8月16日の「五山送り火・特別ディナーコース」の案内が毎年来ていましたが、無関心に過ごしてきました。今年は家内に見せたところ、横浜にいる大学生の孫2人に伝わり、あっという間に娘、息子の家族たち総勢8人で申し込みました。去年、傘寿祝いを全員でしてくれたので、ちょうどいいお返しができるかなと思っていたのですが、若い人たちのスケジュールは結構過密状態で、日にちが近づくにつれ一人減り、二人減り最後は家内と二人づれのデートと相成りました。

 

当日5時過ぎにクラブハウスのレストランに着くと、もうすでに7割がた席は埋まっています。ピアノとフルートの演奏はすでに始まっていました。私たちの席はプレーヤのすぐ前の特等席でした。アペリティフのシャンパンをいただきながら、テーブルの上のメニューを開くと「100年の伝統を誇る東京随一の老舗イタリアン『サバティーニ・ディ・フィレンツェ』、半世紀にわたり関西で愛され続けている『中国料理・青冥』監修の特別ディナーコースを五山送り火とともにお楽しみ下さい。」の挨拶のあとのメニューは、(前菜盛り合わせ)(ふかひれの姿煮込み)(北京ダック)(海老と貝柱のチリソース)(和牛サーロインのロースト)(本日のデザート)卓上メニューとして(若鳥のから揚げ)(焼売と海老餃子の点心)(五目チャーハン)(本日のおすすめパスタ)とまさに盛り沢山。

 

そのうちに宮川町の芸妓、舞妓が各テーブルを順番に回って華やかさを振りまいています。アルコールは日本酒からウイスキーまでなんでもOK、私はシャンパンに始まり、料理に合わせて、生ビール、白、赤のワイン、と最後はウヰスキーの水割りで締めました。

 

ようやく8時、大文字が点火されました。レストランのベランダから真正面に赤々と「大」が浮かび上がります。「まもなく舟形が点火されますので4番ホールまでお出かけ下さい」とのアナウンスで9番コースを通り抜けて4番ホールまで出かけました。後ろを振り返り見上げるとまさに大迫力、眼前で火床にどんどん点火され、瞬く間に舟形の完成です。遠くに見える美しい大文字とはまったく違う、一つ一つの火床の炎が風に揺れ動くのがはっきり見える激しい舟形です。………………………これ以上はご自分で是非体験してください。言葉にすると………………。来年は孫たちに是非見せてやらねば、と使命感にも似た気持ちになりました。京都観光協会の舟形の説明によると、火床の数はすべてで79個、横幅は206メートル、高さは133メートルだそうです。 

 

あとは蛇足ですが。夜のゴルフコースを革靴で横断するのは、意外に難しい。傾斜が結構あってすべる、バランスを崩す、目前に白いものが浮かぶとバンカーでした。不用意に足を出すと転倒するところでした。思わず家内と手をつないでいました。もう一つ、舟山コースの由来を知らなかったのは「若気の至り」と書きましたが、これにも理由がありました。9番ホールはクラブハウスに向かってコースが伸びているので舟形が見えることは見えるのですが、左上のほんの一部です。全容が見えるのは4番ホール。しかしグリーンの方角には山がありません。回れ右をして思い切り頭を上げないと舟形は見えません。ゴルフのプレイ中にこの動作はまず考えられません。なるほどと妙に感心していました。


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地上は37.5度の猛暑なのに、月山にはくっきりと雪が残っています。その月山から流れ出る寒河江川のほとりに、「清流・庭園・山菜料理の玉貴」がありました。玄関から部屋を通り抜け、「七夕飾り」が飾られている縁側へ出ると、寒河江川の清流がとうとうと流れています。対岸にはここ専用のお社が祀られ、それにむかって、夏越しの「茅の輪くぐり」が設えられています。山形市から西へ30キロぐらいでしょうか。女将の話ではこの川は東流して山形市から北上し、最上川となり、月山をいただく磐梯朝日国立公園を大きく迂回して、酒田市から日本海へそそぐ長い長い川ですと、説明がありました。茅の輪くぐりから、二礼二拍手一礼の礼拝を済ませ、部屋に戻るとすでに冷たい地ビールと料理が用意されていました。先月630日のお昼でした。

 

さすが「山菜料理」と銘打つだけあって前菜は山菜づくし、箸紙には春夏秋冬42種類の山菜の名が印刷されています。仲居さんに今日の山菜はと聞くと、しどけ(モミジガサ)木の芽(あけびの芽)ぜんまい、うど、月山細竹(ねまがりだけ)、みず(ウワバミソウ)と印をつけてくれました。あとは塩焼きの鮎がメインの山形の懐石、京都とは一味違う美味を堪能しました。

 

30年ほど前になりますが、京都が本店の日本LCAという会社がありました。日本の企業の大多数は当時ドラッカーに代表される経営哲学を基本に経営計画を作成し、経営者や管理者教育を実施しながら高度成長を続けていました。しかし中小零細企業に関してはそのノウハウを学ぶ術(スベ)が存在しませんでした。そこで日本LCAは会計事務所に対し、コンサルティング養成講座を提案しコンサルを養成し、会計事務所がその顧客に対し経営指導が出来るようなフランチャイズ企業を興しました。私もフランチャイズに参加し、お客様に、経営計画作成、経営者養成講座、管理者教育などを実施しそれなりの成果を上げていました。日本全国で会計事務所系のコンサルが多数誕生し、日本LCAもその子会社ベンチャーリンクとともに上場を果たし、順風満帆のように思えました。しかし高度成長が終わると中小零細企業には教育予算を計上する余裕がなくなり、私もここから撤退しました。全国の会計事務所系コンサル会社も似たような事情だったのでしょう。数年前に日本LCAも上場を廃止し、そのまま音信不通になっていました。昨年元社員の一人からLCAの同窓会をしませんかという連絡があり、久々に東京で旧交を温めました。今回はその第2回、山形のS先生が企画していただきました。集まったのは札幌のN、東京のS、横浜のM、徳島のKの諸先生と私、それに日本LCAの元会長と従業員2人の計9名でした。

      

東海道新幹線と山形新幹線を乗り継いでほぼ5時間、山形駅に降り立ち直ちにS先生のあさひ会計へ。山形県を中心に東日本一円に展開される大きな事務所でした。ここで最近出版されたMQ会計の講義を受けました。損益分岐点を1単位に分解し、簿記がわからなくても経営が見えてくるという、ユニークな発想で使えそうです。いずれ近いうちに皆さんに使ってもらおうと考えています。

 

このあとタケダワイナリーに移動。タケダワイナリーは北海道洞爺湖サミットで、純国産のワインを提供して有名になりました。ついてみると東に蔵王連峰を望む素朴なワイナリーで、工場の周囲に広がるブドウ畑の中に鄙びた工場がありました。ここの試飲室で赤、白2種のワインをいただきました。多分サミットで使われたワインだったのでしょうか。お泊りは、かみのやま温泉名月荘。全室離れの高級旅館の名のとおりゆったりとした旅館でした。

 

翌日は早朝から山形名物サクランボ狩りに農園へ。多分S先生の顧問先なのでしょう。到着するなり、親しげに大歓迎してくれました。早速すぐ近くの農園に入り込み、自由にサクランボを取り放題、食べ放題、木から直接つまんで甘さがあふれた可愛い実をたっぷり頂きました。そのあと「斉藤茂吉記念館」へ。斉藤茂吉はここ上山市の出身だということは初めて知りました。そして冒頭の山菜料理「玉貴」へ。

 

山形市内は近代的な都市なのですが、ほんの30分市街を離れると、東は蔵王連峰、西は月山に挟まれた豊かな田園風景が広がっています。なんの土地勘も予備知識もなく、62912時山形駅集合、30日午後230分山形駅解散、の案内だけを頼りの短い旅でしたが、思った以上に豊かな2日間を堪能してきました。


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同志社大学ヨット部がオックスフォード大学のヨット部と、定期戦を始めて今年は30週年を迎えます。京都の公認会計士、中野先生(同志社会計人会の初代会長)と親交のあった、オックスフォード大学ヨット部OBで勅許会計士だったスネリングさんの一人息子、ジョン・フィリップが日本の学生とセーリングを通じての交流を図りたいとの思いに、同志社ヨット部OB会が応えて始まったものです。1989年たまたまジョン・フィリップと同い年の私の長男、哲也がキャプテンとして、第1回の英国遠征に8名で行きました。それ以来日本、英国、休みと3年周期で交流を重ねました。昨年は同志社がイギリスで、今年の秋はオックスフォードが日本でそれぞれ10回目の記念すべき定期戦となります。

 

 そんな訳でオックスフォード大学には親しみを感じているところに表題の本が出たので、買って読んで見たところ、我々の考えている大学の概念とはまったく違うということが分かりました。この本はたまたま2016年、2017年とタイムズ・ハイアー・エデュケーション・ランキングで世界一の大学に選ばれたのを機に、OBでイギリスの新聞の東京特派員だったコリン・ジョイスさんが「オックスフォード大学は、世界に名だたる優秀な大学だ。だが圧倒的多数の人は、この大学のしくみに関する知識に乏しいか、ほとんどなにも知らない。………それがこの本を書いた理由だ。この大学が何故特別なのかを説明し………なぜ世界一の大学に選ばれたのか、それを見抜く手がかりを提供したかった。」とこの本の「はじめに」書いています。ジョイスさんのオックスフォード大学在籍は、1989年~92年、なんの関係もありませんが、たまたまこの定期戦の始まりと期を一にしています。

 

オックスフォードで最初のカレッジは1249年のユニヴァーシティ・カレッジ、2番目は1263年ベイリオル・カレッジ、一番最近は2008年のグリーン・テンプルトン・カレッジと800年近くをかけて38のカレッジが自然発生的に出来て、オックスフォード大学を構成しています。ケンブリッジも似たようなものらしいですが、これは日本は勿論、英国でも他の大学の創立の事情とは極めて違った特徴でしょう。そして入学試験も勉強も卒業試験もすべてカレッジ単位で行われているそうです。

 

オックスフォード生の日々の中心をなすのはチュートリアル(個別指導)だそうです。チュートリアル、一流の学者による個人レッスンとでも言えばいいのでしょうか。学生は自分の専攻の専門家であるチューターと1時間すごす。学生が自分の小論文を読み上げ、続いて討論に入る。最後にチューターが次の課題を選び、長大な課題図書のリストを渡し、小論文の論題を設定して、1週間後の再会を約束する。これを知って長年、個人的にオックスフォード大に関して湧いていた小さな疑問がすべて腑に落ちました。

 

一つは初めて哲也がオックスフォード大学のキャプテンの部屋に夜中近くに着いたとき「今からしたいことは」と聞かれて「疲れているから寝たい」と答えると「それはラッキー、俺は今から勉強するから」と答えがかえってきたこと。二つ目は19953回目の遠征に私が帯同したとき、オックスフォードの街でレストランや書店できびきび働く若い人々を見て「彼らはオックスフォード大学の学生ですか」と聞いたら「オックスフォード大学の学生は(勉強に)忙しくて(アルバイトなど)出来ない」という返事が返ってきたこと。三つ目はこのときの定期戦の途中で、オックスフォード大学のキャプテンが、先生に会うという理由でリタイアしてしまったこと。すべて真面目はいいけど「ガリ勉」過ぎない?という印象が残っていたのです。

 

 講義もあるがチュートリアルを補う二義的なもので履修は義務付けされないし、出欠もとらない。しかしチュートリアルは別。欠席は勿論のこと、やるべきことをやらずに出席すると一大事、叱責は勿論のこと、公式の警告や懲戒処分、さらに退学もあり得る。

 

なるほどこれは厳しい。1週間の勉強の締めくくりであり、次の1週間の勉強の始まりでもある。ジョイスさんはこのやり方で、独自の考えが大部分の小論文が仕上がり、独立独行の精神と自立した思考が養われた、といいます。私の学生時代、ヨットと麻雀に明け暮れ、期末試験の直前に教授の著書を流し読みし、一夜漬けでも何とかなったのとは、大違い。まさに長い伝統に支えられた、世界一の大学に恥じないシステムのようです。

 

この本には硬い話ばかりでなく、次の天皇ご夫妻が在籍されたとか、過去現在の卒業生の世界の政治家や有名人、ザ・ボートレースとして名高いオックスフォードとケンブリッジの対抗戦の話、カレッジには必ず学生用のバーがあり学生が自主運営し、その資金で奨学金がでる、日本の大学にはバーが無いので驚いた、など、興味のある話題が一杯。おまけにオックスフォード市の観光案内までついています。一読されるのも一興かなとも思います。

 

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