行雲流水 ~所長の雑感~ -37ページ目

行雲流水 ~所長の雑感~

松田進税理士事務所 所長の松田が日々思うことを思うままに綴った雑記帳

 「 『国際交流 日本ジュニアヨットクラブ競技会2007』を、8月3日から5日までの3日間、日本の首都、東京都の若洲ヨット訓練所前の海面で開催します。


 東京都は2016年の夏期オリンピックの開催を目指して招致活動をしています。オリンピックのセーリング競技の会場としては、この若洲を中心とする東京湾での開催を準備しています。

 

 ………若き日、私も江ノ島ジュニアヨットクラブで、仲間たちとヨットに乗る楽しみを教えていただきました。私たちは全国各地で30年以上に亘り毎年大会を開催してきましたが、これらの大会の参加選手の中から、世界選手権大会やオリンピックの舞台で活躍する選手が育って来たことは本当に嬉しいことです。


 ………終わりに、本大会の開催にあたりご後援、ご協力を賜りました、文部科学省、国土交通省、東京都はじめ………ヨット関係団体の皆様のご尽力に心より御礼申し上げます。」
    

     財団法人日本ジュニアヨットクラブ連盟会長 石原伸晃


 前国土交通大臣、石原伸晃さんの挨拶で大会は始まりました。若洲ヨット訓練所のメインポールに、ロシア、韓国、ニュージーランド、オーストラリア、日本の5本の国旗がへんぽんと翻っています。外国4カ国20人を含む126人の選手が集いました。その内の一人に横浜在住の私の孫、箕田拓朗(小6)がいました。一昨年から始めたOPヨットの全国大会デビュー戦です。そして、その孫に牽かれて20年ぶりに私の姿がその会場にありました。そして30年にも及ぶ私のジュニアヨットへの関わりが思い出されて、しばし感慨にふけっていました。


 この大会は第一回が1976年に宮島で「全日本少年少女ヨット大会」として開催されています。そしてそれが、現在私が名誉会長を仰せつかっている「琵琶湖ジュニアヨットクラブ」の初遠征でもあり、拓朗の母、明子も参加した初めての大会でした。宮島小学校の体育館に自衛隊の毛布1枚をあてがわれ、選手も指導者も一緒に雑魚寝していたのを思い出しますが、すべてが素朴でした。今、選手のセーリング技術や艇の性能は、当時とは比べ物にならないほど立派になっています。ヨット専用の会場の設備やハーバーがあることは、当時想像も出来ませんでした。そして後援団体の名のきらびやかさ。


 久しぶりに行ったにも関わらず、たくさんの人が声を掛けてくれました。さすがに大会本部には、私より年上のお爺さまが何人か頑張っていましたが、多くは一回り以上若い人たちでした。自分の子供は卒業したけれど、未だにボランティアとして頑張っていてくれている人たちです。多くは楽しい思い出話でしたが、気になる話も一杯ありました。少年野球でもそうだそうですから、マイナーなヨットは無理もないかも知れませんが。一つは参加者が年々減少傾向にあること、もう一つはモンスターペアレンツの出現です。当時のヨットでは信じられないことなのですが、中学、高校でヨットの推薦入学をしてくれるところが少なからずあるそうです。そのためだけかどうか分かりませんが、日本選手権や世界選手権を目指して、いろんな問題が起こっているようです。


 思えばこの大会を主催している団体の1976年創立当時の名前は「少年ヨット連盟」でした。そしてその目的は暗中模索だった少年ヨットの哲学を、全国レベルで合意に導くものでした。全国大会のあり方、指導法の意見交換、指導者の育成など、10年ほどの時間を掛けてほぼ方向が決まり、合意も出来ていたように思っていたのですが。


 ジュニアヨットの世界も昭和50年代、昭和60年代と平成初期、平成10年以降とほぼ10年毎に分けて見ると、日本がたどって来た道と全く無縁とは言えなさそうです。まだまだ貧しかったけれど希望に燃えていた最初の10年。手の届きそうに無かった輸入艇が全国に瞬く間に普及した時代、ジュニアもバブルだったのでしょうか。そして何となく先の見えないこの10年。歌は世につれ、ではないですが、ジュニアヨットも世の変遷と無縁ではいられないようです。

 

さて拓朗のデビュー戦、OP初級23人中8位、賞状がもらえるぎりぎりの順位でした。デビュー戦としてはまずまずですが、本人は悔しがっているそうです。皆さんには関係の無い話ですが、拓朗の所属しているKMC横浜ジュニアヨットクラブは、横浜市内の海に近い運河が練習水域です。「ヨットに飛び込んできたボラが泥水をはきだす最悪の環境です。」とコーチの一人がおっしゃってました。確かに琵琶湖と比べると決していい環境とは言えません。しかしコーチの方やご父兄と初めてご挨拶したところ、子供たちがヨットに真面目に取り組んでいながら、レース一辺倒ではなく心から楽しんでいるのが、ひとめで分かる素晴らしいクラブでした。30年前に私たちが目指していた、楽しいクラブづくりをしているところもあるんだな、ということ知ったのが最良の収穫でした。

 内緒にしていたわけではないのですが、ぼちぼち知ってる人もいますので白状しますと、英会話を習いだしてほぼ一年になります。

 

英訳するとI HAVE LEARNED ENGLISH FOR A YEAR.(現在完了)となります。I LEARN ENGLISH FOR A YEAR.(現在)I LEARNED ENGLISH FOR A YEAR.(過去)I HAD LEARNED ENGLISH FOR A YEAR.(過去完了)では間違いです。

 

 突然英語を書いて、理屈っぽくなってしまって申し訳ないですが、後から説明します。人に言いたくなかったのも大した理由はありませんが、強いて言えば次の三つぐらいでしょうか。六十の手習いではないが何となく照れくさい、どうせ大した成果は見込めないし三日坊主で終わるかも、昼休みとはいえ仕事をしている最中に何となく後ろめたい。


 てなことを思いながら一年経ってみると結構最近は面白くなって来ました。教室の名前はスミス英会話。月謝制とチラシに大きく書いてあったのも、最近のNOVAなど大手の会社の詐欺紛い事件を見ると良心的なのが分かってきました。月謝は13000円、月4回、生徒数は3人までですがウィークディの昼12時に来る人は、まずいませんのでほとんど独占状態、先生のピーターと掛け合いでやっています。ピーター先生、40歳前後の英国人、大津市堅田で和菓子屋のむすめと結婚し、時々は店も手伝っていると言いながら、話す日本語は「ニホンゴワカラナイ」「コレワカリマスカ」「チョットグラマー(文法)」だけ。ただ本人にまだ確かめていませんが教え方から思うと、単なるアルバイトでは無く本職の語学教師のようにも思えます。


 会話は「HOW ARE YOU?」から始まりますが「アイム ファイン」を続けていると「いつもFINEじゃ無いだろう」(勿論英語で)ときますので最近は「グッド」「ナットバッド」と織り交ぜて使っています。

 続いて「HOW WAS YOUR MORNING?」(今朝なにしてた)これは割と簡単、「仕事してた」「事務所にいた」「顧問先に行ってた」(勿論英語ですよ)。

 次、「HOW WAS YOUR WEEK?」初めさっぱり分かりませんでした。直訳すれば、「先週どうだった?」ですが、意訳すれば「土日なにしてた?」です。これが結構やっかい。 まず先週末なにしてたと聞かれても特別なことでもあればともかく、あまり覚えていません。また「高校の同窓会に行ってた」「朽木村の朝市に行って来た」「琵琶湖でヨットレースに参加した」など、そうは簡単に英語が出ては来ません。悪戦苦闘しながらようやく意味が通じるとそこで「チョットグラマー」が出てきます。


 先に書いた三つの間違い文を正しい文章にすると、
I LEARN ENGLISH EVERY WEDNESDAY.(現在)今の習慣を表現します。  
I LEARNED ENGLISH AT HIGHSCHOOL.(過去)は過去の出来事を表します。
I HAD LEARNED ENGLISH AT COLLEGE FOR FOUR YEARS.(過去完了)は現在完了が今も続いているある状態を表現するのに対し、過去のある時点まで継続した状態を言います。


 こういう風に説明(英語で)されると、試験に受かるためだけに勉強していた文法が生き生きと蘇って来ました。現在完了や過去完了等というと、なにやら構えてしまって、かえって難解にしていたのが、日常の会話のなかで頻繁に使われることを知って、目から鱗でした。

 

そして2,3年前に読んだ「世界一簡単な英語の本」の「はじめに」に書いてあった文章を思い出しました。『…………留学すれば誰でも英語ぐらい覚えるというのは迷信です。…………成人した大人が外国語を憶えるには、ある程度の文法の知識がどうしても必要であることを、その時思い知らされました。そして同時に文法だけを学んでも意味がないことも分かりました。……………』


 とにかくピーター先生とは何とかとぎれとぎれながら、会話が続くようにはなりましたが、圧倒的に不足しているのが語彙、単語の量です。もともと知らない単語が多いのに、知ってるはずの単語もなかなか出てきません。日本語も忘れがちなのにそら無理でっせ、という声も出てきそうですが、継続は力なりを信じて楽しんでやっていきます。単語不足とヒアリングを補うために、5月から絵本付きの英語のCD「家出のドリッピー」を車に積んで聞いています。最後に(未来)で。


WILL YOU STUDY ENGLISH CONVERSATION WITH ME?

 正面に「釈迦三尊像」。真ん中に緋の衣をまとった釈迦如来、その右に獅子に乗った文殊菩薩、左の白象のうえに普賢菩薩がおわします。その左右の壁にずらりと並ぶ、「動植綵絵」三十幅。鳳凰、孔雀、鶏、鴛鴦、鶴、小禽などの鳥や、牡丹、梅、芍薬や蓮などの花々、蝶、蟷螂などの昆虫、鯛、蛸、鮫にいたる海の生き物、果ては蛙、蛇にいたるまで、まさに絢爛豪華に描かれた世界に息をのんでいました。

 

 相国寺承天閣美術館の「若冲」展の最後の展示室でした。それまで展示室で鹿苑寺金閣の襖絵など若冲の世界に浸ってはいたのですが、この空間に入ったとき何かは知らぬ感動を覚えていました。あとで図録をめくり解説を読んで、はたと気がつきましたが、そこはお釈迦様がお悟りをひらかれた宇宙観、山川草木悉皆成仏の世界が百二十年ぶりに再現されていたのです。相国寺の「釈迦三尊像」と「動植綵絵」の物語を「若冲」展図録からひろって見ます。


 まずは有馬頼底管長の「あいさつ」を借りると『……江戸中期の画家伊藤若冲(1716~1800)は現在人気最高の画家の一人であり、就中「動植綵絵」三十幅は、若冲の代表作としてその美しい色彩と細緻な描写、奇抜な構図など、その魅力はすでに声価の高いものである。若冲は当寺113世大典禅師と密接な交友を重ね、そのことが画業に大きく影響したのである。


 …………奇才の画家は禅師を最も崇敬し、交誼きわめて深原であった。……禅師の撰文によると彼は、物の本質を描くのであり、外見や形を超えた究極を描くのである、と記されている。


 ……そして描き上げた三十三幅は、両親と弟、それに彼自身の永代供養を祈念して、その全てを当寺に寄進されたのである。当寺では、この若冲畢生の傑作を毎年6月17日に厳修される観音懺法会の折に山門の円通閣に掛けて供養したのである。「釈迦三尊像」と「動植綵絵」は仏陀釈迦の悟り「山川草木悉皆成仏」の端約を観音菩薩三十三応身になぞらえて描き上げたものであり、観音懺法に最もふさわしいものを若冲は奉納したと言えよう。


 天明の大火で円通閣が焼失すると、法堂に掛けて供養を続け、さらに方丈に移して供養を続けて明治期を迎え、明治22年に明治天皇に献納されて相国寺から離れたのであった。…』と書かれています。


 有馬管長によれば、「献納と言うと聞こえはいいですが、実のところは当時廃仏毀釈の波にさらされて人手に渡りかけていた、相国寺の一万八千坪の敷地と塔頭が御下賜金で救われた。当時の一万円の御下賜金は、今の価値にすれば何百億だ」とおっしゃっています。まさに若冲が相国寺の危機を救ったと言えます。同時にその当時から「釈迦三尊像」と「動植綵絵」を今一度一室に掛けて供養するのは関係者の悲願だったことも想像出来ます。


 事実、承天閣美術館は設計プランをたてるときから「動植綵絵」の里帰りを祈願し「釈迦三尊像」の三幅を中心に、その両サイドに十五幅が並ぶという構想で設計されていたそうです。25年前当時相国寺文化部長だった有馬氏が承天閣美術館の完成以来、機会ある毎に宮内庁三の丸美術館に里帰りを要請して、ようやく三年前許可されたといういきさつも、むべなるかなと思えます。この部屋に入った瞬間感じた得も言われぬ思いは、若冲にはじまる様々な人々の様々な思いが、お釈迦様の悟りに同調したのかも知れません。


 仏の教えと言うとどちらかと言えば色彩のない水墨画を想像しがちですが、若冲の仏の世界は色彩に満ちあふれ、この世界も悪くないぞと思わせました。昨年の京都と東京で開かれた「若冲と江戸絵画展」は、若者でいっぱいだったそうです。


 「釈迦三尊像」と「動植綵絵」の本物を同時に見る機会は当分のあいだなさそうです。しかし複製をつくるような話はでているようですので、ひょっとして承天閣に常設される可能性も否定出来ません。機会があれば是非味わって見てください。「釈迦三尊像」と「動植綵絵」に何の予備知識も無く入った空間で、思わず至福の瞬間が味わえました。現世も悪くないですね。

 「御所から賀茂社(下鴨、上賀茂両神社)へ、約八キロの道のりを進む葵祭の行粧。馬上束帯姿の近衛使(勅使代)を中心とした四列からなる本列、その後には、腰輿(およよ)に揺られる十二単の斎王代のあでやかな女人列が続く。行列は総勢五百人、長さは一キロほどにも及ぶ。


 十五日、三十六頭の馬、牛四頭、牛車二台、花笠も連なる列は、すべてが葵や桂のほか、花々で飾られ、行粧の言葉通り、その過ぎゆく沿道はいつしか典雅夢幻の王朝絵巻の世界……………。」


 これは京都新聞の記事ですが、その葵祭りに、町内の上賀茂神社の氏子の方に招待券をいただいて、上賀茂神社の「本殿祭」と「社頭の儀」に参加してきました。葵祭と一口に呼んでいますが正しくは「宮中の儀」「路頭の儀」「社頭の儀」と三つの儀からなるそうです。冒頭の記事もしくは私たちが一般にイメージしている葵祭りは「路頭の儀」をさしています。


 さて、社頭の儀に先立つ本殿祭は、行列が到着するに先立って、一時半から始まりました。初詣に上賀茂神社へ行かれた方はご存じでしょうが、お賽銭箱の前に、ここから奥は写真撮影はお断りと書いてあり、あの奥に「本殿」と「権殿(ごんでん)」があります。

 本殿祭は、ここで本殿を開扉し、神饌をお供えすることからはじまります。葵桂からはじまって山海の珍味が23種お供えされます。面白かったのは、賀茂社の神様だけでなく、お集まりになる神々用に別に「庭積神饌」として、あわびなど120杯が朱塗りの唐櫃に納めお供えされました。権殿は遷宮用のスペアだそうです。上賀茂神社も20年毎に遷宮をしますが、伊勢神宮のように新築ではないそうです。


 予定の3時半を少しすぎて、いよいよ行列が到着しました。騎馬で行列を先導してきた「乗尻(のりじり)」を先頭に、警衛にあたる検非違使、山城使、馬寮使など役人、風流傘、斎王代以下の女人列、最後に舞人(まいびと)、陪従(べいじゅう雅楽奏者)を従えた勅使と数百人の入場は圧巻でした。それから社頭の儀は始まります。勅使参進から走馬の儀まで、20の式次第にしたがって、荘厳、厳粛に執り行われました。


 お客様に意外と外人が多く、英語やフランス語が飛び交っていました。神式の起立、低頭、修祓など、神式の儀式にどんな反応が出るかなと興味津々だったのですが、以外と素直に見よう見まねで神妙に指示にしたがっていたのが意外でした。

 「馬寮使御馬を牽き神覧に供す」の儀で二頭の馬が神前で神妙に低頭するのが大受けでした。多分手綱を下へ引っ張っているのだとは思われますが。さて最後の走馬の儀、一の鳥居から二の鳥居まで、氏子の若者の御する駿馬が全力で駆け抜けます。例年落馬する人もいるそうですが、今年は7頭の馬と乗尻が無事つとめを終えました。なかなかの迫力でした。


 賀茂祭の起源は、(神社のパンフによると)太古別雷神(わけいかずちのかみ)が現社殿の北北西にある神山にご降臨された際、神託により奥山の賢木を取り阿礼に立て、種々の綵色(いろあや)を飾り、走馬を行い、葵楓の鬘を装って祭りを行った、と「賀茂旧記」にあり、時を経て、欽明天皇の御代(六世紀)、日本国中が風水害に見舞われたため、勅命で占わせたところ、賀茂大神の祟りであると奏したので、盛大に祭りを行わしめたことが賀茂祭の起こりであると、「賀茂縁起」に記されているそうです。なんで祭りの最後に馬が走るんだ、という謎もこれで解けたようです。


 ふと気がつきました。今年2月1日のみどり会タイムズで、豊受大神が5世紀に丹後から伊勢に下り外宮に祀られたと書きました。丹後にあった大きな勢力と大和との関わりが出来たことを想像されます。

 5世紀から6世紀、日本が大和朝廷によって国らしい形ができつつあるころ、山城盆地に勢力を持っていたカモ族にも何らかのつながりが出来たのかな、と思えてきました。実際に風水害に見舞われたのかも知れませんが、実は賀茂族の勢力侮りがたく大和から手をさしのべたのがより正解に近いカモ。

 そうすれば、古来上賀茂神社が伊勢神宮に次ぐ全国神社の筆頭に位したのも頷けます。葵祭りが、ともすれば京都新聞の記事にもある通り、平安王朝絵巻視されがちですが、起源はもっともっと深いところにありそうです。しばし古代のロマンに思いを馳せていました。

 「棚田」というと皆さんどんなイメージが最初に湧いてきますか。能登半島、輪島の近くできれいな棚田を見た記憶がありましたが、ここ雲南省元陽県の棚田はそんな日本のイメージをぶっ飛ばしてくれました。

 トンキン湾にそそぐ大河、紅河にかかる橋を渡り、急な山道を車で行くこと3時間ぐらいだったでしょうか。海抜1600㍍の高地に広がる棚田は、我々の泊まったホテル「雲梯酒店」の名のとおり、まさに雲の梯(かけはし)でした。車で行き過ぎる山々、谷々のすべてが、水の張られた棚田で埋め尽くされています。

 日の光を受けて金色に輝いているもの、山のみどりを反射しているもの、鏡のように透明に光っているものなどなど、なかには下から雲が湧き出で、雲海の上に浮かんでいるものさえあります。まさに世界遺産を申請中との話も大いに頷けました。


 表題の団体が歴として京都にあります。以前から雲南省で「燐」の取引をされている方を中心に十数人のささやかな集まりですが、雲南省政府の仲立ちで現地の二つの中学校に奨学金を交付するなど民間交流の実をあげています。私はこの3月の訪問で2回目ですが、協会としては7度目の訪問です。また雲南省政府要人が来日する都度京都に立ち寄り、お互いが顔と名前の分かった交流が続いています。

 また平成5年の訪問時には大里市に残る明末の日本四僧の墓に詣でました。俳優の高倉健さんも映画のロケ時に訪れ、修復に協力されたそうですが、数百年の間名も知れぬ異邦人の墓が守られていたことに感激しました。


 その際大里市から数百年前の「尋ね人」を依頼されました。手がかりは出身が「妙光寺」という記録だけ。そんな雲をつかむような話と思っていたのが、帰国後なんと私が万寿寺通で偶然「妙光寺の宝物」という展覧会のポスターを見つけ、花園大学の禅文化研究所に調べてもらったところ、なんとそのうちの一僧の名が判明し、それをきっかけに雲南省の仏教会との交流も始まっているようです。


 今回の日程は一日目、建水県外事弁公室と昼食、孔子廟見学、元陽県外事弁公室と夕食。二日目棚田視察後、雲南錫精錬所見学、紅河州州議会議長と夕食。三日目、紅河州行政センター、新時代の仏人街、三七人参栽培地視察。四日目、三七人参製薬工場と三七人参取引センター視察後昆明へ、雲南省外事弁公室と夕食。と、かなり忙しいスケジュールではありましたが多くの人との出会いがありました。

 雲南省は少数民族が多いせいか、北京や上海でイメージする中国とは別の雰囲気や人々の温かみのようなものを感じさせてくれます。全行程バス旅行でしたから、一対一、あるいは数人が長い時間を共有し、まじめな話から他愛ない話を続けていると、日中間のぎくしゃくした関係を半世紀以上にわたって続けているのが不思議な感じがします。


 ところがテレビの英語ニュースを見ていると午後10時30分に毎日同じ映像が出てきました。カラーが突然白黒になって、JAPANESE ARMYが連呼され子供たちの姿が映し出されます。

 私なりの理解は、子供たちが何人か犠牲になってJAPANESE ARMYが何千人かの子供たちをどこかへ連れ去った、というプロパガンダのように思われました。(映像だけから受けた私の印象は、戦争孤児を日本軍が保護しているだけにしか見えませんでしたが。)いずれにしても何時までこんなことをやり続けるのだろうと情けなくなりましたが、旅行中にふとこんな考えが浮かんできました。それは……………。


 中国は数千年の昔から易姓革命の国。易姓革命は腐敗しきった前王朝にかわり、天命を受けたものが新しい王朝を開きます。新王朝は自らの正当性を主張するために、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)は常のこと、前王朝を徹底的に否定し抹殺し続けます。これは隠れもない中国の一つの歴史でもあります。ところで中華人民共和国の前王朝は?。

 

中国共産党が誕生した頃、清王朝は孫文の辛亥革命により既に存在しません。孫文の中華民国は袁世凱、汪兆銘、蒋介石、毛沢東らの勢力争いの末、現在台湾に残っていますがこれを前王朝とすると自らも否定する事になりかねません。

 中華人民共和国が成立したとき、標的は、その数年前まで曲がりなりにも当時中国の主要部(北京、天津、上海、南京、武漢)を押さえ満州国という傀儡政権を擁したJAPANESE ARMYしかそれらしいものが無かったのです。

 これが現在の焚書坑儒とすれば、「共通の歴史認識」などまともに議論しても意味がありません。お分かりだと思いますが、自らの正当性を主張するために、前王朝の歴史を変え続けてきたのが歴代の中国王朝ですから。中国とのつきあいは旅行中感じた二つの感慨の間で当分続きそうですね。