正面に「釈迦三尊像」。真ん中に緋の衣をまとった釈迦如来、その右に獅子に乗った文殊菩薩、左の白象のうえに普賢菩薩がおわします。その左右の壁にずらりと並ぶ、「動植綵絵」三十幅。鳳凰、孔雀、鶏、鴛鴦、鶴、小禽などの鳥や、牡丹、梅、芍薬や蓮などの花々、蝶、蟷螂などの昆虫、鯛、蛸、鮫にいたる海の生き物、果ては蛙、蛇にいたるまで、まさに絢爛豪華に描かれた世界に息をのんでいました。
相国寺承天閣美術館の「若冲」展の最後の展示室でした。それまで展示室で鹿苑寺金閣の襖絵など若冲の世界に浸ってはいたのですが、この空間に入ったとき何かは知らぬ感動を覚えていました。あとで図録をめくり解説を読んで、はたと気がつきましたが、そこはお釈迦様がお悟りをひらかれた宇宙観、山川草木悉皆成仏の世界が百二十年ぶりに再現されていたのです。相国寺の「釈迦三尊像」と「動植綵絵」の物語を「若冲」展図録からひろって見ます。
まずは有馬頼底管長の「あいさつ」を借りると『……江戸中期の画家伊藤若冲(1716~1800)は現在人気最高の画家の一人であり、就中「動植綵絵」三十幅は、若冲の代表作としてその美しい色彩と細緻な描写、奇抜な構図など、その魅力はすでに声価の高いものである。若冲は当寺113世大典禅師と密接な交友を重ね、そのことが画業に大きく影響したのである。
…………奇才の画家は禅師を最も崇敬し、交誼きわめて深原であった。……禅師の撰文によると彼は、物の本質を描くのであり、外見や形を超えた究極を描くのである、と記されている。
……そして描き上げた三十三幅は、両親と弟、それに彼自身の永代供養を祈念して、その全てを当寺に寄進されたのである。当寺では、この若冲畢生の傑作を毎年6月17日に厳修される観音懺法会の折に山門の円通閣に掛けて供養したのである。「釈迦三尊像」と「動植綵絵」は仏陀釈迦の悟り「山川草木悉皆成仏」の端約を観音菩薩三十三応身になぞらえて描き上げたものであり、観音懺法に最もふさわしいものを若冲は奉納したと言えよう。
天明の大火で円通閣が焼失すると、法堂に掛けて供養を続け、さらに方丈に移して供養を続けて明治期を迎え、明治22年に明治天皇に献納されて相国寺から離れたのであった。…』と書かれています。
有馬管長によれば、「献納と言うと聞こえはいいですが、実のところは当時廃仏毀釈の波にさらされて人手に渡りかけていた、相国寺の一万八千坪の敷地と塔頭が御下賜金で救われた。当時の一万円の御下賜金は、今の価値にすれば何百億だ」とおっしゃっています。まさに若冲が相国寺の危機を救ったと言えます。同時にその当時から「釈迦三尊像」と「動植綵絵」を今一度一室に掛けて供養するのは関係者の悲願だったことも想像出来ます。
事実、承天閣美術館は設計プランをたてるときから「動植綵絵」の里帰りを祈願し「釈迦三尊像」の三幅を中心に、その両サイドに十五幅が並ぶという構想で設計されていたそうです。25年前当時相国寺文化部長だった有馬氏が承天閣美術館の完成以来、機会ある毎に宮内庁三の丸美術館に里帰りを要請して、ようやく三年前許可されたといういきさつも、むべなるかなと思えます。この部屋に入った瞬間感じた得も言われぬ思いは、若冲にはじまる様々な人々の様々な思いが、お釈迦様の悟りに同調したのかも知れません。
仏の教えと言うとどちらかと言えば色彩のない水墨画を想像しがちですが、若冲の仏の世界は色彩に満ちあふれ、この世界も悪くないぞと思わせました。昨年の京都と東京で開かれた「若冲と江戸絵画展」は、若者でいっぱいだったそうです。
「釈迦三尊像」と「動植綵絵」の本物を同時に見る機会は当分のあいだなさそうです。しかし複製をつくるような話はでているようですので、ひょっとして承天閣に常設される可能性も否定出来ません。機会があれば是非味わって見てください。「釈迦三尊像」と「動植綵絵」に何の予備知識も無く入った空間で、思わず至福の瞬間が味わえました。現世も悪くないですね。