行雲流水 ~所長の雑感~ -36ページ目

行雲流水 ~所長の雑感~

松田進税理士事務所 所長の松田が日々思うことを思うままに綴った雑記帳

 正月三日、孫たちをつれて安土城へ行って来ました。安土城は天主焼失のイメージから跡形もないものと思い込んでいたのですが、標高199メートルの安土山の麓から頂上まで石垣や、石仏などを無造作に埋め込んだ石段などがしっかりと残っています。彦根城や姫路城など城郭がしっかり残っている城以上に、想像がふくらんで来ます。

 大手門跡に建つ木戸を通ると、巾10メートル以上はありそうな大手道が天主に向かっています。5分ほど登ると、左手に「伝・羽柴筑前邸」の石柱が見えます。傾斜を利用し、二段に分かれた敷地は5千平方メートルとありますが、意外に小さく見えました。大手門から最初の砦としての役割も担っていたのでしょうか。当時の織田家中における秀吉の地位もうかがわせます。大手道を挟んでお向かいは「伝・前田利家邸」。


 帰り道を心配するような急な石の階段が続きます。一段の高さが結構高いので小柄だと伝えられる秀吉が、駆け上がる姿などを想像すると思わず笑いがこみ上げてきます。「伝・徳川家康邸」などおなじみの武将の屋敷跡が続いて、いよいよ本丸から天主へと続く「黒金門」に達します。この「本丸」には天皇を招き入れる「御幸の間」があったと「信長公記」に記されているそうです。御所の清涼殿と酷似した建物で、天皇の御座所を天主から見下ろす形で、天皇を超える存在を象徴する構造であり、それが信長暗殺の直接の動機だったという小説もあったように思います。さて、ほぼ一時間をかけて天主跡に達しました。背丈ほどの石垣に囲まれた東西、南北それぞれ28メートルの台地。現在は礎石が数十個、1,2メートルおきに並んでいます。ここは、五層7階(地上6階、地下1階)の天守の地階部分、この上に絢爛、豪華な天守閣が聳えていたと思うと、天正時代がぐっと身近に引き寄せられました。

 

周囲の石垣に登ると、大中の湖の干拓地が眼下に広がっています。現在「有明海」で問題になっている、戦後まもなく食料増産の合い言葉で始まった埋め立て地の一つで、今は近江米の産地になっていますが、築城当時からほんの50年前まで安土山は湖に囲まれていました。私が現役時代、「大中之湖」の通過は、同志社のヨット部の夏の周航の楽しみの一つでした。柳ヶ崎を出、長命寺で泊めてもらい、早朝、津田内湖の葦の群生の中を漕いだり、帆走したりして北航すると突然視界が開けます。それが大中之湖でした。葦原があるだけで琵琶湖とは一体でした。現在、近江八幡の水郷巡りをしている「西の湖」は当時の名残ですが、おそらく当時の10分の1にも満たないと思います。石垣の上に立って見下ろしていると、50年前の我々のフリートと信長の船団が重なって見えて来るようでした。ここからまだ33メートル上の天主(東京タワーの展望台と同じ高さだそうですが)から信長は何を見ていたのでしょうか。秀吉の中国攻めの最中とはいえ、ほぼ日本の天下は信長の手中にありました。


 一説には、海外雄飛の構想を持っていたという説もあるそうです。当時、信長の所有していた鉄砲の数は2百年後のナポレオン軍の数倍あったそうですし、安土城の天主を見たルイス・フロイスは「ヨーロッパにあるとは思えないほどの壮大さ」と言っています。当時の軍事力、技術力、経済力は当時のヨーロッパを遙かに凌いでいたものと思われます。ただ一つ外洋航海力を除いて。信長は琵琶湖を見ながら遙か南海に思いを馳せていたと思いたいのですが・・・。もし本能寺なかりせば、ヨーロッパ列強のアジア進出の遙か前に、日本を中心とする一大勢力圏が出来上がり世界の歴史は大いに変わっていたようにも思います。


 突然、話は変わりますが1月11日、税理士界の新年会で高野孟氏の講演を聴きました。サブプライム、年金、ドル崩壊、ねじれ国会などなど暗い話題ばっかりのようで、アメリカの衰退とともに、日本が沈没しそうなマスコミの報道です。しかし、日本のGDPは5兆ドル、世界のGDPは40兆ドルですから、日本だけで世界の付加価値の8分の1を創り出している。世界の人口は60億、日本の人口は1億ですからその実力と世界への貢献度は突出している。しかも燃料電池を初めとする先端技術は群を抜いている。水素燃料はすでに技術的には解決しているので、中国の公害問題などは問題ではない。後は政治力と指導力だけという話でした。安土の山の上からとんでもないところに話が下りてきました。しかし、満更無関係な話でもない。その後秀吉、家康に進路を託した日本は、300年の国内の平和をもたらしましたが、世界の技術発展には遅れをとり今の問題まで歴史は続いています。日本の方向性を指し示せるリーダーが待望されます。


 追伸 絢爛かつ壮大な安土城の天守閣が、城跡のすぐ近く「安土城天主信長の館」で見られます。5階、6階は実物大、天主全体は20分の1で展示しています。平成4年のセビリア万博に出展するために現代の名工を集め10億円以上をかけて造られたもので、一見の価値はあります。

 波静かな久美浜湾に面して、立派な瓦屋根の熊野酒造有限会社はありました。ここの酒蔵の中で「じょうの酒」が今、生まれつつあるのかと思うと、わくわくする気持ちが押さえ切れません。酒蔵に案内され、社長の柿本さんから「ようやく間に合いました。いま搾っているところです。」と言われ、試飲用の大きな猪口に、なみなみと生まれ立てのお酒を酌んでいただきました。一口飲んで、そのまろやかなこと、芳醇とはこのことかと改めて先人の造語力に感動しました。


 いきなりで申し訳ありません。みどり会タイムズ01/12「大宮町共育の里づくり」02/12「悠久の神代のロマンにみせられて」03/1「真名井神社」05/9「京の宮御前といかが紫峰米」でご紹介したように、丹後とのおつきあいは続いています。今年はNPO法人都市農村交流ネットワーク協会が立ち上がりました。これは、京都府立大の宮崎先生を理事長に、「都市と農村の交流を通じて、農業と農村の活力再生」を目的に設立された団体で、私も会員の一人です。その活動の一つに、農村体験「丹後王国への道」がありました。具体的には、過疎になりつつある尉ケ畑の人々の応援で、都市住民が春に酒米を一反(300坪)植え付け、秋に刈り取り、熊谷酒造に醸造をお願いし、冬に松葉蟹を肴に新酒を愛でるという実に贅沢なイベントでした。この12月8日(土)9日(日)の行事でした。


 さて、出来たて生まれ立ての吟醸酒の一升瓶をかかえて、蟹料理で無理をお願いした久美浜町の「堅木屋」へ。会場には京都、大阪、滋賀から参加した都市住民と、京丹後市長の中山さんをはじめ、役所のメンバー、米作りを手伝っていただいた尉ケ畑の福井さんと今年結成された「花野果クラブ」の皆さん。 はなやかクラブは、素性の知れた花と野菜と果物を直接都市に届けようと結成された久美浜の若手!農家の人たちです。総勢30余名、松葉、紅ずわい、こっぺの蟹さんたちが、刺身、蒸し、しゃぶしゃぶ、鍋とテーブルの上に、ところ狭しと並んでいます。蟹づくしに加えて、前回刈り取りのときにみんなで命名した「じょうの酒」、柿本社長によればアルコール度は18.1度、普通よりやや高めですが素晴らしい出来上がりだそうです。全員気分良く酔っぱらい、都市農村交流の実を大いにあげました。

 

翌日曜日には丹後一宮、元伊勢籠(この)神社へ。以前にもご紹介しましたが、籠神社は国宝海部氏系図で有名です。二千年前の神々の時代から現在の八十二代、海部光彦宮司まで連綿と続く家系です。内陣で神職のお榊のお払いと、巫女の奉納舞の正式参拝を済ませたあと、海部宮司の御講話をいただきました。日本の黎明期、丹後には先進文化が華やいでいたこと、それは、最近日本海沿岸で続々発掘される巨大古墳群からその存在が証明されること、そして2千年の間秘匿され近年になって発表した海部氏系図が、文献で明らかになったこと、日本書紀の神武東征をたすけたヤマトスクネノミコトは、丹後の豪族の象徴であることなど興味深いお話でした。


 そして、先祖を敬わず歴史をないがしろにする国、自然の恵みに感謝せず農村漁村が疲弊する文化は、いつまでも続くはずがないと、現在の風潮に警鐘をならされました。そしてわれわれの活動「丹後王国への道」が新たな交流の道を開き、文化、教育、伝統、食、食材、食習慣、景観など日本のよき伝統を見直し、自然を敬い自然と同化して生きる世界でも稀な日本文化を維持、再生するきっかけになればと励ましていただきました。帰りのバスのトランクには、花野果クラブの皆さんに用意していただいた百円大根や五十円ネギなど朝採れの野菜が満杯で、両手で運べるかなと全員心配しておりました。

 
 来年も、楽しい有意義な行事が一杯計画されています。皆さんもこの協会に参加されませんか。年会費は、個人2,000円、法人10,000円です。この7月から京丹後市のアンテナショップ「ほっと丹後」が堀川下長者町下る、通称"晴明神社参道"で開店しています。こっぺ蟹、焼き鯖鮨、へしこなどの海産物、おいしい京都米や地酒、朝採りの新鮮な野菜などがならんでいます。また、第三金曜日の朝8時から9時半までKBS前の広場で朝市が開かれています。これも大好評です。いっぺんのぞいて見ませんか。両方ともこの協会が関係しています。どうぞご贔屓に。

 「雲南」という文字にひかれて、京都みなみ会館に入りました。ここ、みなみ会館は、ときどき素晴らしい映画を上映します。今回もそうでした。最初は、今年3月に訪れた美しい棚田の風景が大スクリ-ンで鑑賞出来れば…ぐらいの軽い気持ちだったのですが。見終わった後、ほのぼのとしたいい気持ちと、なにか重苦しい気分とにおそわれました。何だったのでしょうか。


 映画の舞台は雲南省元陽県。ベトナムのハノイに流れ注ぐ紅河(ソンコイ川)の上流、標高2千メートルの山地の急斜面に拓かれた棚田です。インターネットで「雲南棚田」をあけていただくと一目瞭然ですが、山々の上から下まで見渡す限りの棚田です。何百キロも続く高原にある壮大な風景で、ここに住む少数民族ハニの人々が何千年もかかって築きあげてきたものです。

 

映画は「雲南省・哀牢山の霧深いハニ族の村に、ルオマという名の少女がいた」「これはルオマが17歳の時に経験したこと………」という字幕で始まります。朝霧につつまれた村の景色、ルオマがトウモロコシを入れた背負子を背中に、ハニの娘たちを満載した荷台を牽く耕耘機に乗って町へ向かいます。……


 町中のメインストリート、道の両側にぎっしりと食べ物や雑貨を並べた娘たちやおばさんたち、売り声がかしましく飛び交います。通りは色とりどりの民族衣装をつけた現地の人々と、少なくはない観光客で一杯です。ルオマも「おいしい焼きトウモロコシはいかが」と声を張り上げますが、一個一角(7円ぐらい)の焼きトウモロコシがなかなか売れません。ルオマのかわいい顔に目をつけた観光客が、無遠慮に写真を撮ったり、強引に一緒に写真に写ろうとします。


 そんな中で写真家を自称して観光客に棚田を案内し、小遣い稼ぎをしている漢族の青年が連れてきたアメリカ人が、いきなりカメラを向けたので、ルオマがいやがって顔を背けます。その青年アミンが、ルオマをなだめながらその観光客に10元(150円ぐらい)を出させ、写真を撮るのを納得させます。 それがきっかけでアミンとルオマは、撮影一回10元の立て札を持って、バイクで展望台や観光スポットに出かけ「いい商売」に励みます。なにせ1角と10元ですから、20倍の経済格差です。夜、家に帰ったルオマが一緒に住んでるおばあちゃんに「ただいま。これ、観光客と写真を撮って私が稼いだお金よ」と渡すと「写真を撮ってこんな大金を。ハニの民は人をだまさないよ」と諭します。


 その後アミンに恋したルオマは、水田の稲作を生活のベースとした純で素朴なハニの文化を後に、文明にあこがれて混迷(昆明と打ったのですがパソコンはこうでました)に旅立とうとしますが………。物語はいろいろありましたが…


 最後は「おいしい焼きトウモロコシはいかが」と声を張り上げているルオマの笑顔が救いでした。


 なにが言いたいのか今もよく分からないのですが。耕耘機に乗った娘たちも、町中で行商している人たちも、展望台にいたハニ族の人たちもこの3月、元陽県のホテル「雲梯酒店」の近くで実際に私が見聞きした風景でした。そして、ここの棚田は世界遺産を申請中とも聞きました。観光客が増え経済が潤う、いいじゃないか。という意見が大勢を占めそうですが。ここの文化は文明と遙か隔てられた中で、自分たちの生活を守り維持するため、何千年に亘り営々と築きあげられたもの。それが1角と10元に象徴される文化の違いとに、あっという間に破壊されそうな危惧を持ちました。


 思えばこの風景は、ほんの100年前、多分世界中(日本も含めて)の農村で見られた景色だったと思います。そのころはお金の価値も現在ほど価格差があったとは思えません。経済発展の名のもとで失ってしまったもの、これから失われてゆくものに思いを馳せて何か重苦しいものがこみあげたのでしょうか。

 

最後に、田植えのシーンで歌われるハニ語の歌の翻訳です。同じような歌詞は日本の田植え歌にもありそうです。


若緑の早苗は 麗し乙女よ 麗し乙女よ 
大きな田圃は逞し若衆よ 逞し若衆よ 
乙女 嫁に来てくれな 田圃に稲穂は伸びやせん 
稲穂は伸びやせん 若衆 乙女を娶ってくれな 
若衆 乙女を娶ってくれな
伸びた稲穂も実りゃせん 伸びた稲穂も実りゃせん

 「自由と繁栄の弧の意味するもの・東アジア情勢と日米同盟」と題する講演会が10月11日グランヴィアホテルでありました。講師は「手嶋龍一」。覚えていらっしゃいますか。9・11テロのときのNHKワシントン支局長、連日テレビ中継を行っていました。


 さて講演の中身は中東から東アジアへかけての現在の不安定の弧が、本当に自由と繁栄の弧になりうるかどうか。彼のインテリジェンス・情報力を駆使した印象深いものではありました。今、日本が直面している「北朝鮮の有事」に目が行きがちですが、実はいずれ避けては通れない「台湾海峡の有事」の前哨戦にすぎないとの指摘は、厳しいものがありました。司会の京都銀行の林隆憲さんが、手嶋さんの著書「ウルトラ・ダラー」の終章は福王子交差点から平岡八幡宮をすぎ、周山街道を経て中川トンネルをすぎたところで終わる、と紹介されました。グローバルな小説に、まさにローカル、おなじみの地名に妙に気をそそられて早速買って読み通しました。非常に面白く、かつ戦慄を覚えました。

 

 「バンコ・デルタ・アジア」。この名も今ほとんど報道されません。ご記憶ですか。「北朝鮮のマネーロンダリングに疑いがある金融機関」に指定され、事実上の金融制裁を受け、一時は米国、北朝鮮、中国が三つ巴になって駆け引きを繰り広げ、連日報道されていましたが。その主役の偽札は「スーパーノート」と言われる北朝鮮製の精巧なものでした。そして小説に登場する「ウルトラ・ダラー」は、スーパーノートを上回る精巧なもの。シリアルナンバー(通し番号)以外はまったく一緒、違いは米国製か北朝鮮製かと言われる、超精密な偽札です。小説「ウルトラ・ダラー」は、次の四つの事件から全貌を類推してゆきます。


 (1)1968年12月14日、日本全国の郵便局で使うスタンプを彫刻する、東京荒川の優秀な彫刻職人、濱道勝夫が失踪します。そして同じ頃、エジリ・ヤスノブ、コンドウ・マサル、ハマミチ・カツオ、マキノ・ツトム、テラオ・ススム、キタムラ・ユウジ、エンドウ・カズトシの若い優秀な7人の印刷工が北に拉致された可能性をアメリカのトップシークレットが把握していたことが明らかにされます。

 

 (2)1988年7月1日マサチューセッツ州ダルトン、アメリカ造幣局に紙幣の用紙を独占的に供給していた名門企業、ノートン社からトラック3台分の紙幣の原料が盗み出されます。


 (3)1989年2月スイス・ローザンヌ、 ドルとマルクの紙幣印刷機を独占する、ファブリ社からマカオの証券印刷会社へ1台の紙幣印刷機が輸出されたが、屑鉄に偽装されて中国・大連港に運ばれます。(4)1990年12月デンマーク・コペンハーゲン、京都の高級美術印刷会社社長、細田義弘が行方不明となります。


 30年をかけて(拉致を含め)周到に準備された国家の事業としての偽札づくりの目的は、核開発とウクライナ製の巡航ミサイルX55の購入。X55はわれわれにとってポピュラーなアメリカの巡航ミサイルトマホークの純粋なコピー、200キロトンの核弾頭を搭載可能、北朝鮮から発射すれば沖縄米軍基地をふくむ日本列島が射程距離。北朝鮮が核を持ち、日本列島を射程下におく真の目的は何か。これが今回の講演とこの本の主題でした。


 「台湾」はそこに居住している人々は勿論のこと、米国にとっても中国にとってもその去就は死活問題になります。米国が中東に釘付けにされ台湾海峡のプレゼンスが薄れパワーバランスが崩れたとき、台湾や米国が世界第3位と言われる軍事力を持つ日本の力を計算に入れるのは当然。日本が好むと好まざるに関わらず、世界のバランスオブパワーに引きずり込まれる可能性は否定できません。それを牽制するために30年以上の時間を掛けて仕組まれ、なお現在もやむことなく続く、これが情報戦、外交戦の実態です。拉致、偽札、核、ミサイル、6ケ国協議。一見別々のように見えるここ2、3年われわれを悩ましてきた問題がただひとつ「台湾海峡クライシス」に収斂してゆきます。 


 さて、登場人物です。主役はスティブン・ブラッドレイー、BBC(英国放送協会)のラジオ特派員にして実はかの007の英国秘密情報部員。もう一人はマイケル・コリンズ、アメリカ財務省のシークレットサービスの捜査官。シークレットサービスは大統領の警護部隊として有名ですが、紙幣の偽造や新手のハッカーなどに凄腕を発揮しているそうです。時には国境や法の制約を越えグレイゾーンに踏み込んで活動している実態は、CIAとかわりないそうです。一方日本側は高遠希恵・外交担当内閣官房副長官、離婚して大学生の息子を持つ、容姿、才能とも英米の両者にひけを取らない才媛。もう一人は瀧澤勲アジア大洋州局長、まれな才能と能力に恵まれながら自らの出自と正義感ゆえに「北」に取り込まれてゆきます。


 国民に対し国家が秘密をもつことを必ずしも良しとはしません。しかし小説でさえ官房副長官や外交局長という公の人物しか登場させられない日本。外交のトップをも諜報戦から守れない、または事前に防げない現状を著者は訴えたかったのかも知れません。たぶん日本の優秀な (!)若手の政治家と官僚はことあることを想定して、水面下で行動していると信じたいですが、インド洋の油の消費量が国会の議論の焦点なのは情けないことです。

 「夜回り先生・水谷修」このお名前をご存知でしょうか。私は全然知りませんでした。第15回TKC近畿京滋会秋期大学で氏の講演を初めて聞いて、何十年ぶりに心を揺さぶられています。今日本を覆っている、夜の闇と心の闇に初めて気づかされました。そしてその闇に敢然と、たゆむことなく立ち向かい続けている、一人の人間の意志に、ただ尊敬という軽い言葉ではいい表せない感動を覚えています。その「感動」を伝えようとパソコンに向かったのですが、何を書いても、何度書き直しても、嘘っぽくなってしまいます。そこで先生の著書の「はじめに」を抜粋して、感動の一端を感じていただきたいと思います。


『夜回り先生のねがい・水谷修』


「はじめに」 
 私はただの高校教師でした。ところが定時制高校に赴任したことをきっかけに、夜の繁華街を回り、路上で見かけた子どもたちに声をかけるようになると、いつのまにか周囲から「夜回り先生」と呼ばれるようになっていました。


 強盗、援助交際、薬物の乱用、殺人未遂 …………… いろんなこどもと出会いながら、私は黙って彼らのそばに立ち、ゆっくりと話を聞き続けました。話に深入りしたために、暴力団に刺されたり、指をつぶされたこともあります。それでも、私のことを信じ、やり直そうとしてくれる子どもとともに生きることは、なによりの幸せでした。


 それから私は「夜回り先生」という本を出版しました。深夜、親や学校の先生が眠っている時間に、夜の繁華街や薄暗い自分の部屋で、どれほど多くの子どもたちが希望を失い自分を傷つけているか。その事実にほとんどの大人は気づいていないかもしれない。でも水谷というひとりの大人は君の存在に気づいているよ。だからまず相談してごらん。今日から一緒にかんがえよう。そんな想いを込めてこの本を書き下ろし、同時にメールアドレスと自宅の電話番号を、世間に公開しました。それから今日までずっと闘いの日が続いています。


「夜回り先生」を出版してから1年も経たないうちに、私は教壇を去らざるをえなくなりました。当時勤めていた学校に電話、そして悩みを抱えた人々が殺到し、生徒や仲間の教員たちに迷惑をかけてしまったからです。厳しい選択でした。教員という仕事は、私にとって最高の生きがいだったからです。


 わずか3年の間にメールは30万通ほど届きました。そしてそのほとんどが悩み傷ついた子どもたちの悲鳴でした。家にいれば昼夜を問わず電話がなり続けています。いまだに一向に落ち着く気配はなく、自分でまいた種とはいえ時々、社会に対して哀しくなるときもありました。


 もちろんその間、私はひとりで闘っていたわけではありません。仲間の精神科医、カウンセラー、保健師、弁護士、マスコミ・報道関係者、そして私の元教え子たちが、大きな支えになってくれました。ただひとつ「子どもを一人も死なせてはいけない」を合言葉にして厳しい状況をみんなで必死に耐えました。


 でも残念ながら、私たちは29人の子どもの命を失ってしまいました。11人は自殺、17人は事故または病死、ひとりは殺されました。仲間の一人が言いました。「もう無理だ。これは俺たちが解決できるレベルの問題じゃない。行政や公的機関にまかせたほうがいい」「違う」と私は言いました。私個人が世間に顔をさらし、一対一で向き合おうとするからこそ、子どもたちは信じ、自分の苦しみを打ち明けようとしてくれる。組織にまかせるわけにはいかない。頼むから助けてほしい。そう懸命に伝えてきたものの、仲間のほとんどが私のもとを離れていきました。残った仲間も疲れきっています。相談メールを整理していたひとりの教え子は血だらけの画像を見ながら「もう勘弁して」と言いました。


 私も何度となく活動を中止しようと思いました。でもそれはできませんでした。
 

 全員ではないにしろ出会った子どもの多くが、明るさを取り戻し、すでに新しい生活をはじめていたからです。どれだけ落ち込んだり、悩んだりしていても、彼らの存在が私に大きな勇気を与えてくれました。「はじめに」のまだ半分ぐらいです。まだまだ伝え切れません。私のお願いは、機会を見つけて先生のお話を直接聞いてください。せめて、本を買って読んで見てください。私たちが見過ごしているけれど、決してないがしろにしてはいけない事実が見えてきます。そして、それにひるむことなく、真正面からぶつかっている人から勇気と感動がもらえます。


 いい話を小耳にはさみました。来年4月から週一回、花園大学で講義をもたれるそうです。京都でお話を聞ける機会が増えるかも知れません。先生に挨拶のあと個人的に嬉しいことが聞けました。先生、FD(フライングダッチマン)をもっているんだって。今は友達が乗っているそうですが。

(注)FDは東京オリンピック当時のヨットのオリンピック種目。かなり高度なテクニックが必要なフネです。