行雲流水 ~所長の雑感~ -35ページ目

行雲流水 ~所長の雑感~

松田進税理士事務所 所長の松田が日々思うことを思うままに綴った雑記帳

 インカム(京都中小企業家同友会・異業種交流会)の年一回の研修旅行で6月8日、9日石見銀山へ行って来ました。名神高速道、中国自動車道、米子自動車道、山陰自動車道を経て、石見銀山(龍源寺間歩)見学、温泉津(ゆのつ)温泉泊。2日目は大森町(銀山以来の旧家を含む町並み)見学の後、出雲大社を経て山陰自動車道から名神まで同じ道をひた走る長いバス旅行でした。2,3の見所と感想を。


 

石見銀山龍源寺間歩
 

 間歩はマブと読みます、坑道のことです。龍源寺間歩は唯一見学可能なところで、入り口から100メートルほど入れます。高さが1.5から2メートル、幅0.9から1.5メートルあり、ノミで掘った跡が当時のままの状態で残っており、樋押し抗(鉱脈に沿って掘り進んだ穴)が左右の壁面からいくつも延びており、排水のため垂直に掘った竪坑も見ることができます。バスの降車地点から龍源寺間歩までほぼ2キロ、その間無数の間歩がありました。森林浴を兼ねた散歩は快適でした。



大森町町並み散策

 

 代官所跡や、郡役所跡をそのまま利用した資料館、旧武家屋敷跡などが現在の民家の間に散在しています。観光客目当ての露骨な商売をしている店はほとんどなく、むしろ拍子抜け、ただここだけ販売の飴屋さんとか、銀細工の店、ここから全国へ発信しているブティックなどユニークな店もありました。なかでも圧巻は昔銀山で使ったカンテラを作っていたという爺様の雑貨店、置いてある品物はともかく、注文があればカンテラも作るけど、お届けは2,3年先、寿命が尽きればご免とのこと。



温泉津温泉

 

 中世に世界に知られた「石見銀」の輸出港であった、温泉津港に続く温泉街。「元湯」と「薬師湯」の2つの共同浴場がありました。元湯の開湯は1300年前と聞いて吃驚しました。今でも49度のまさに源泉かけ流しが滔々と湧いています。「薬師湯」は1872年の浜田地震で湯柱をあげた、手を加えずに湯船にそそがれている薬効豊かな源泉100%の温泉で、その薬効は全国で僅か12箇所だけあるオール5の認定を受けているそうです。両湯とも昔の湯治場のスタイルを維持しています。泊まったのがこれまたレトロな旅館「ますや」。もともとは温泉津港の回船問屋、その建物を利用しての明治43年の創業です。もう一つ驚いたのは「妙好人、浅原才市」の銅像があったことです。真宗の人はご存知の方も多いでしょうが、彼の生まれ育ったところでした。
 

 

 さて、主にこの3つが「世界遺産石見銀山」の対象らしいのですが、「モン・サン・ミシェル、マチュピチュ、ナイアガラの滝など世界には人々を引きつける多くの史跡や景勝地があります。これらはすべて、私たち人類にとってかけがえの無い財産です。」という世界遺産のうたい文句からは地味すぎて、いま一つピンと来ませんでした。そこで「ウイキペディア」を開けてみて何となく理解出来ました。いまはやりの「環境」でした。


 「ウイキぺディア」によると、『2007年5月にユネスコは遺跡の普遍的価値の証明が不十分として延期を勧告したが、その後「石見銀山の特徴である、山を崩したり森林を伐採したりせず、狭い坑道を掘り進んで採掘するという、環境に配慮した生産方式」や「石見銀山が伐採した分だけ植林していたことなど」自然に対する配慮の歴史や、21世紀が必要としている環境への配慮がすでにこの場で行われていたことなどが評価され、6月28日に正式に決定された。日本の世界遺産登録としては14件目であり、文化遺産としては11件目、産業遺跡としては国内初の登録となった。』とあります。

 

 16世紀当時、石見銀山一つで世界の銀の産出量の3分の1を占めていたこと、それがポルトガルなど西洋列強を呼び寄せる誘因になった事や、大内、尼子、毛利に始まり豊臣、徳川に至る戦国史の経済を石見銀山の領有権が左右したことなど、新しい発見も沢山ありました。肩肘張らずに中世の日本の先進性を感じたり、昔ながらの温泉にゆっくり浸るには結構な旅行でした。

 「……砂漠にはベドウィン族という、国籍のない遊牧民族が住んでいました。動物や子供をいっぱい引き連れて忽然と現れる。電気も水もない過酷な自然の中で、人はこうやって何千年も変わることなく生きてきたんだ、と。私たちが正しいと習ってきた西欧流の進歩の歴史って一体なんだろう。中東の旅で思い知らされましたね。


 モンゴルのゴビ砂漠でも同じ。荒涼たる自然の中、砂漠の真ん中のラマ教寺院の跡に泉が湧いている。チンギスハーンは、土を掘るな、木を切るな、川に汚れた水を流すなというおきてを作ったといいます。あるがままの自然を受け止め、わき水の場所を大事にしながら、長い間、遊牧民は転々と場所を変え生きてきた。土地を汚さず暮らす智恵です。ところが………」


 5月4日、日曜日の京都新聞朝刊に、加藤登紀子さんが4月27日銅駝美術高校で「自然を受け入れ生きるアジアは美しい。」というテーマの特別授業の一こまとして掲載されていました。私自身、何千年変わらぬ生活にあこがれて、モンゴルの草原に僅か3日ですが、ネーティブの人たちと暮らした経験や(みどり会タイムズ'00・10)、雲南省の棚田の営々として築きあげてきた美しさと、近代に飲み込まれそうな危うさを感じた事など(みどり会タイムズ'07・5,'07・12)、と引き比べて、感慨にふけっていました。


そして………そんな事はほとんど忘れて……。


 当日朝8時過ぎ、昨日、突然電話して連休中にも関わらず空いていた、福井県三国町の民宿「なかや」さんへ向け車を走らせていました。今回は、すでに走ったことのある北陸道、漁火街道、北陸道を避け、揖斐川沿いの国道417を使い、大垣から鯖江に出ることにしました。地図を見れば、道沿いには横山ダム、徳山ダムがあり多分美しい景色も充分期待出来そうという思いもありました。そして、417沿いに横山ダムを過ぎ、徳山ダムを目前にして、昼食に休んだ「藤橋歴史民族資料館」でその出会いがありました。このダムのため湖底に沈んだ徳山村の美しい茅葺きの家屋が5棟残され、そのなかに、当時の暮らしを彷彿させる民具のすべてが展示されていました。

 

その資料館の解説を読むと、狭い耕地にヒエ、アワ、ソバを植え、蚕を飼い、コウゾや麻で紙、着物をつくり、ブナ、コナラ、クリ、ミズナラ、トチノキ、カシノキなどの豊富な木材から、「……籠や灯火具など芸術作品にも負けない美しいものも作り出されてきたのです。しかも用具だけでなく、薬用にしても食用にしても、自然を読んだ人々の知識は、限りないと言って過言ではありません。この生き方は、自然と共に歩む…詩…そのもので、そこには何者にも負けない力強い生命感があふれ、みなぎっているのです。」(資料館解説より)。べドウィンやモンゴルや雲南省に行かずとも、日本中のあちこちに、つい50年ほど前には自然循環型のこんな豊かな暮らしが営まれていたのです。


 世界中で営まれていたそれぞれ固有の文化が、グローバル化というおぞましい言葉の中に飲み込まれ、破壊されようとしています。なぜと言えば19世紀からはじまった列強の植民地化、化石燃料の大量消費、インターネットによる画一化など議論はいくらでもできそうです。しかしこの原稿を書くため、徳山村がいつ水没したのかを知ろうと、徳山ダム、徳山村をインターネットで開いたとき、そのとんでもない事実に愕然としました。詳しくは、それぞれ開いていただいたほうがよく分かると思うのですが、要点だけ書いておきます。


 『ニュース「総貯水量が国内最大の徳山ダムは5日未明、本格運用を開始した。総貯水量は浜名湖の2倍で全国一。総事業費は3,350億円。1957年に計画が始まり、利水、発電、治水の機能を持つ多目的ダム。ただ水需要の低迷で、当分は治水面の運用にとどまる。」』5日というのは平成20年5月5日、実は偶然ですが、51年目の本格運用開始の前日にダムを見ていたのです。ダム湖に沿って素晴らしい景色が続いていました。トンネルまたトンネルの素晴らしい舗装道路が続いています。「このトンネル何十億かかっているのやろ。」と言うのが家内との会話でした。「治水のみの運用」と言う意味は「事実上無用の長物」ということなのでしょうか。そして、国道417は道路はあるにも関わらず、途中の冠山林道が閉鎖されていて、福井県には抜けられませんでした。国土庁と農水省の管轄違いのせいでしょうか、道路としても機能していませんでした。
 

『ウィキペディア「徳山村446戸・522世帯(約1,500名)は全村水没という事態に至ることからダム建設に対する反対運動は官民一体となった激しいものであった。…1983年…一般補償交渉は妥結し446戸の住民は次第に移転を開始し…1989年…徳山地区から人影が無くなった。」』


 妥結に至る経過を想像するだけで、込み上げて来るものがありました。先祖が営々と築き上げてきたふる里、そこを去り他へ移るまで、どんな葛藤があったのでしょうか。自己完結型の日本の各地にあった、素晴らしい文化の一つが湖底に沈んでいます。その代償に半世紀を経て完成したダムが……………。


 世界をとやかく言う前に、われわれ日本人がやってきたこの50年をしっかりと見直すときかも知れません。次の世代に残すべきものは何なのか、今の日本を支配している階層に任せきりでは、とんでもない事になりそうです。

 4月14日月曜日、中国・雲南省タイ族自治州シーサンパンナの中心都市、景洪市の満員の歌舞劇場で、国宝の「孔雀の舞」など少数民族のきらびやかで迫力あるテンポの早い展開のショーを楽しんでいました。舞台は、シーサンパンナに多く居住するタイ族の物語が進行しています。何場目かに、「The merry song of water splashing festival」のタイトルが出て、翌20日のタイ歴の元旦の行事「みずかけ祭」が演じられています。


 数々の群舞が演じられ、終演に近づいたとき、突然、舞台前面に大量の雨が降りそそぎました。それがさっとやんだとき、踊り子が前列の観客に、柄杓の水を勢いよく振りかけました。前列の客が踊り子に水をかけかえした瞬間、劇場中の観客が、飲み物用に用意されていたペットボトルの水を、前後左右ところきらわずまき散らします。あっという間に、ブレザー、ワイシャツ、ズボンが水びたし、一日早い大ハプニングとなりました。


 さて、翌15日タイ歴元旦午前9時、町の広場で市長が「みずかけ祭」の開始を宣言します。私たち一行10人は、日が暖かくなるのを待って、洗面器10ケとカラフルなおもちゃの放水銃で武装し町に繰り出しました。町中、水鉄砲とバケツと洗面器を持った人々であふれています。トラックの荷台にシートを敷き水を満載して、町を走りながらバケツと放水銃でねらい打ちしている集団も多数います。

 

私たちのバスの前にもそのようなトラックが信号待ちをしていました。信号が変わって発車したとたん、車上から果敢にねらい打ちしていた小学生ぐらいの男の子が車から振り落とされました。あっと思った瞬間、その子は銃を片手にトラックに追いつき、荷台に食らいついて乗り込みました。思わず歓声をあげて拍手したのですが、そのとき女性1人が車にダッシュ、その子を引きずり降ろしてビンタ一発、群衆の中に消え去りました。

 

 さて、私たちも会場センターに近づき車を降りました。とたんに、前後左右から水がふりかかります。今日は、昨日と違いTシャツにスイムスーツ、沢歩き用のゴム靴なので、いくらかかっても平気なはずなのですが、さすがにバケツ一杯の水を頭から浴びせかけられ、正面から銃でねらい打ちされると、ファイト爆発シックスティーズ、セブンティーズの男たちも反撃に移りました。女も男も、ガキもジジイも、市民も観光客も、外人も地元民も、正装の民族衣装でも誰彼かまわずかけまくります。時には2階、3階からの奇襲攻撃もあります。

 

 しかし、かける方もかけられる方も、満面の笑顔、笑顔、笑顔……。この祭でかけられた水の量だけ今年幸せになれるのだそうです。町中全員参加の楽しいお祭りでした。世界中がこんな争いで終わるなら、素晴らしいと思えました。


 「祭」だけで紙数が尽きそうですが、実は、昨年にもちょっと紹介した「京都府・雲南省友好協会」の第8回中国訪問で、今回は当協会が3年間奨学金を贈っている、シーサンパンナ景洪市第3中学校と巍山県大理市文筆中学校の2校を訪問するのが主目的でした。それぞれ20名の生徒たちが迎えてくれました。一人年500元(7,500円)のささやかな奨学金なのですが、迎えてくれた笑顔と挨拶と、事前に送ってくれた作文を読むと胸に迫るものがありました。


一文を紹介すると、


「日本京都府皆様へ:
 こんにちは!この稲が黄色くなった深秋の中で私は愛をいただきました、偉大の愛です。この感動の中で私は一番言いたいのがありがとう、ございます!
 私はごく普通の農村の女の子です、今年で14歳になります。親に大事に育てられますから、家は貧しくても、幸せと穏やかさで満ち溢れています。私の家は大理州巍山県にあります、親とも農民で、収入が少ないです、その上に五年生の弟がいます、私たちに安心して勉強をさせるために、親はお金がないと絶対に言わない、黙って方法を考えるだけです。だから親にすごく感謝しています、その感謝の気持ちを動力に変えてさらに頑張って、勉強をしています。


私の成績がいいです、でももっと頑張りたいです。ことわざで鋭い剣があるのは常に磨いているから、梅の花は香りがあるのは極寒を経るからと強く信じております、努力をすれば私の生命の中でも宝の剣のような光がでます!

 私に与えてくれた関心を感謝いたします、国のリーダーになって皆様の期待に添うよう努力をします。再びありがとうございます。と言いたいです。」


 3年ということで奨学金を設けて来たのですが、今年で一応の区切りを迎えます。続けるのか、続けられるのか。同じ学校でいいのか、変えるのか。問題が山積ですが、こんな文章を読むと、何とか頑張りたいものです。応援してください、年会費3万円です。

 「また同窓会!」と、家内に言われるほど毎年のように同窓会があります。まず、光徳小学校同窓会、松原中学同窓会の二八会、高校へゆくと、担任の先生の名を冠したクラス会が発展した「山添会」、学年全体の西京高校同窓会、新聞部OB会の西京高校新聞部同窓会、同じ校舎を使っていたご縁で京都第一商業との合同の京一商・西京同窓会。同窓会というニュアンスからはちょっと離れますが、同志社大学ヨット部OB会、同志社大学経済学部の同経会、経済学部西村ゼミ同窓会、同志社校友会まで範囲を広げますと、毎年どころか毎月何かの会合に出席している有様です。

 

ところで、光徳小学校同窓会が2年ぶりに、この3月13日に新都ホテルでありました。新都ホテルの宴会場の案内板で会場探しをしていたのですが、表題の看板を見ても私たちの同窓会と気づかずに、ほかの看板に目を走らせていました。古稀、昭和25年卒の文字だけで「えらいお年寄りが集まったはるなあ。」と、独り合点して自分たちの事とは一瞬、思えなかったのです。会場には、82才の現在でも矍鑠(かくしゃく)たる先生をはじめ、50人の元気な同窓生が集まっていました。イ組からニ組まで4組約200人の卒業生からみると25%の歩留まりは、かなり成績のいいほうかも知れません。高校、大学と比べると自営や地元企業に勤めた人が多いせいでしょうか。


 隣の席の「ヤスダクン」は、乾杯の杯をほす間もなく、携帯を取り出しました。その待受画面に可愛い女の子の写真が写っています。曾孫だとのこと。この子が成年になったら一緒に祇園に飲みにゆく約束をしてるんだそうです。しかも、3所帯同居で数年前に家業の仏教関係の和紙印刷をやめたあと、もっぱら曾孫の守だとのこと。「今日のメンバーで曾孫がいる人はまずおらんし、孫や曾孫と一緒に暮らせるなんて、こんなかであんたが一番幸せちゃうか。」と、奥さんや子や孫の家族を褒めちぎったせいか、帰りに曾孫を連れてゆく予定のスナックをおごってくれました。


 光徳や二八会でも常連の「カッサン」(女性)が「マッシンこのひと覚えてるか。ユウコさんやで、光徳のマドンナやった…。」と一人の女性を連れて来ました。一言二言話している内に「1年の時、ホ組やったやろ。確か一緒の組やったで。」「思い出したわ、地震怖かったな。」「そや、あれ学芸会のときや。福井地震やったな。」「講堂が今にも倒れそうにゆれとったわ。」と、周りを巻き込んで話が盛り上がっていきました。ユウコさん、聞けば千葉県在住で私とは58年ぶりの再会でした。みんな、地震は1年生のときと思って話していましたが、福井地震は昭和23年、5年生のときの出来事でした。一瞬にして蘇る記憶や、曖昧な想い出や、毎回来ているおなじみさんも、何十年ぶりに再会する人もみんなごっちゃまぜに、一次会、二次会と夜は更けてゆきました。


 欠席者の返信はがきが、各テーブルに回覧されて来ていました。元気に次回は必ず。と、いう返事が多い中で、中には体調不良もありましたし、奥さんの代筆の返事も2通ありました。2000年に百才で亡くなられた「山添会」の山添先生がよく「同窓会に出席出来ることに感謝するように。」と、良く私たちに話されていました。おっしゃるように、まず健康で無ければ出られません。手元不如意では出席が躊躇われますし、自分のみならず家族の身辺も穏やかで無ければ、たとえ出席しても心から楽しむ事は出来ません。


 学校も仕事も京都で、また、比較的に時間に自由の利く仕事のせいで、同窓会には、ほとんどみんな出席に近いと思います。以前、何かの講演会で事業を広めるのに同窓会は欠かせないと、誰かが話していた記憶があります。そんなつもりは無かったのですが、今回、この原稿を書くためにお客様の名前を見てみると、先輩、後輩、同級生を含めて14名いらっしゃいました。あらためて生まれ育った土地で、同窓生のような雰囲気のなかで仕事をさせてもらっていることに感謝して、健康に留意しつつ、いささかでも皆様のお役に立てるよう、これからも頑張っていこうと思いました。

 「京丹後市大宮町延利地区は、内山ブナ林を背に田園風景が広がる所帯数45戸、人口145人の集落である。産業は、織物、農業の兼業、サラリーマンが主であり、耕地面積は約30haと比較的少なく、経営面積も1ha未満の稲作農家が主流で、個々に農機具を持つ稲作中心の自己完結型農業を行ってきた。近年、食の安全性、消費者ニーズが変化しブナ林から流れる竹野川の清流と標高100mの自然の恵みを受けた五十河(いかが)地域のお米は、特Aのランク付けと丹後米食味共励会でも味一番のお米として評価されている。


 一方、地域の農家は高齢化し、後継者が少なくなり、……。米価が年々下落する中、農業の組織化をはじめ、生産単価の抑制とともに施肥管理の統一化など安全で美味しい米作りを通して……差別化した地域ブランドの米作りを目指し、……都市交流事業を活用して付加価値をつけた広域的営農を展開していきたい。特産のコシヒカリ販売を目的に延利農産グループ(16人)を平成17年に結成、3年目を迎えた現在、京都市内の米穀を取扱う2業者へ販売し、消費先は年々拡大している…。」


 ちょっと長かったですが、これは、中山泰京丹後市長から山田啓二京都府知事に宛てた「平成19年度地域対応型ふるさと推進事業(農業・農村活性化経営体づくり事業)費補助金交付申請書の冒頭部分です。そして、表題のアドバイザーに平成19年8月から20年3月まで私が就任、総事業費56万円、府の補助金40万円、アドバイザー活用費30万円。えっ、事業費の半分以上がアドバイザーに、無茶苦茶責任重いやん。それで何するの。延利公民館で開催する1回3~4時間の会議に4回出席、助言指導しレポートにまとめる。そんなことで付加価値をつけた広域的営農が展開出来るのかな、と首をふりつつこれで3回の会議を終えました。今までに見えてきたことを中間報告すると……。


 延利地区の農業経営学事始め。所帯数45戸、人口145人。耕地面積30ha。ヘクタールは、面積のイメージが出来ないので尺貫法に直すと、1haは約1町歩、1町歩は約3,000坪。ざっと100メートル四方です。一枚一枚の田圃はそんなに大きくありません。1反(約300坪)で数えるのが一般的ですから、30メートル四方の田圃が300枚点在していると思えば実際に近いでしょうか。
 

一反あたり8俵の米が収穫出来ます。1ha(1町歩)では、80俵、30haでは2,400俵になります。昨年、このグループが販売した1俵あたり単価は16,000円なので、この価格で2,400俵すべて販売出来たと仮定して3,840万円、1所帯あたりにすると85万円になります。10町歩を耕作する専業農家で1,280万円、もし、事業として考えるならばこれぐらいが最小単位でしょうか。農水省のいう大規模化、法人化がこういうことなら、集落としての活性化にはつながりません。


 ここは、たまたま16,000円と言う価格で販売出来たのですが、JAの買上価格は10,000円程度と言いますから、条件はもっと悪くなります。これは、延利だけの問題ではなく日本全国すべての農家の問題です。農水省とJAにすべての罪を押しつけるつもりはありません。しかし、戦後間なしのGHQによる農地改革と、民法の改正により長子相続が無くなったことにより農地が細切れになったことと共に、票田を確保するため公共事業で地方に金をばらまき、兼業農家は農業の採算を無視してその金でつないできた農政の無策が、現状を招いていることは間違いありません。補助金をもらう側で文句をいう筋合いでは無いですが、こういう細切れの補助金が、農水省だけでなく各省庁に無数に存在しているのかと思うと、ぞっとします。決して有効なお金の使い方とは思えないのですが。


 この委員会で「活性化」とは何ですか、と聞いたところ、異口同音に「先祖から受け継いだ田圃を守っていきたい。」「若者が田舎で食って行ける=魅力ある生活が送れる状態ににしたい。」と言うことでした。現在60才台の彼等は、深刻に5年後を心配しています。日本全国の彼等が元気な内に、前が見える農村に出来るよう現状を認識する必要がありそうです。幸いこの委員会の目標とアドバイザーの任務はそんな大層なことではなく、平成19年度900万円ほどだった販売額を地域を巻き込みながら、5年後1,800万円ぐらいにすることです。地道に、消費者への直販、もう一件の京都以外の業者の探索などを模索しています。


 しかし、補助金交付申請書の中にある京都の2業者とは、実は当事務所の顧問先、深尾米穀さんと洛東食糧さんです。それぞれ「京の宮御前」と「いかが紫峰米」のブランドで販売されています。内山ブナ林の清流をたっぷり含んだ本当に美味しいお米です。魚沼コシヒカリからこちらに代えたお客様も少なくないようです。この二つのブランドのシェアが、両店でじわじわと上がることでも目的は達成されそうに思います。是非、皆さんにも「京の宮御前」と「いかが紫峰米」を味わって頂いて京丹後の活性化と、松田アドバイザーの任務遂行にご協力をお願いします。