世界平和・人類救済と犠牲(4) | カンロのブログ

カンロのブログ

日々の出来事や思いを、徒然なるままに綴っていきます。

 

 

真の勝利者、真の勇者とは

 

 

宗教に携わる者にとって真の勝利とは何でしょうか?
かつての十字軍遠征やパレスチナ問題、繰り返される無差別テロ事件などを見ていると、一神教徒にとっての宗教的勝利とは、他教徒との宗教戦争に勝利する事であり、それ以外の勝利などあり得ないように見えますが、もしそうであるなら、仏教徒とは真逆の考え方と言わねばなりません。何故なら、仏教徒にとって宗教的勝利とは、他教徒に勝利する事ではないからです。
仏教徒が戦うべき相手は他人でも他教徒でもなく、自分自身であり、自分以外に勝利しなければならない相手などどこにもいません。
つまり、自らが背負う因縁を解き、果てしない輪廻の業の連鎖に終止符を打つ者こそが真の勝利者であり、仏教徒として最も尊敬に値する人物なのです。何故なら、自己の因縁を解く事は、取りも直さず、他の人々の因縁をも解く事に他ならないからです。
その意味で、法然上人の父、漆間時国や大石順教尼は、自分自身に勝利した真の勝利者であり、誰からも尊敬されるに値する人物と言えましょう。

 


また、釈尊の教えによって敗戦国日本を救ってくれたスリランカは、怨みに打ち勝った真の仏教国として賞賛されるべきであると共に、我々が最も大切にしなければならない友好国の一つと言っていいでしょう。
漆間時国や大石順教尼やスリランカが、真の勝利者となり得たのは、被害者でありながら、憎むべき加害者に、限りない慈悲(愛)の心をそそぎ、「仇を許し、因縁を拝む」という釈尊の教えを行動で示した真の勇者だからです。
勿論、一神教徒であっても、漆間時国や大石順教尼のような真の勝利者、真の勇者となり得る可能性を否定するものではありませんが、その為には、ひとえに法句経に説く「仇を許し、因縁を拝む」という教えを実践出来るか否かにかかっています。
この教えが実践出来なければ、いま世界各地で起こっている数々のテロ事件や宗教戦争、核兵器の廃絶、更には、難民問題や様々な民族紛争、貧困層の救済や温暖化への取り組みなど、山積する困難な問題の解決は夢のまた夢と言わざるを得ないでしょう。

 

復讐してはならない

 

旧約聖書にある「目には目、歯には歯」の一節を見ると、一神教徒が「仇を拝み、因縁を拝む」という教えを実践する事は、ほぼ不可能に近いのではないかとさえ思えてきますが、一縷の希望がない訳ではありません。
何故なら、旧約聖書や新約聖書にも、仏教と相通じる教えが説かれているからです。
ユダヤ教の聖典であると同時に、キリスト教、イスラム教の聖典でもある旧約聖書には、次のように説かれています。


復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。不正な裁判をしてはならない。 弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない。

 

またイエス・キリストと弟子達の言葉を集めたとされる新約聖書にも、同じような一節があります。

 

「目には目で、歯には歯で」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。 悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。

 

「目には目で、歯には歯で」という言葉の意味を、「目には目で復讐し、歯には歯で復讐してもよい」という意味だと誤解していた人々を、イエスは、「正しい意味はそうではない」と諭され、「復讐してはいけない。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」と教えているのです。
一方では、復讐を容認する「目には目、歯には歯」の一節があり、もう一方では、復讐をしてはいけないと説く一節がある旧約聖書と新約聖書ですが、果たしてどちらが神の本心なのでしょうか?
一見矛盾するかのように見えるこの教えを、一神教徒がどのように理解しているのかはわかりませんが、キリスト教徒がいうように、もしイエスが「神の子」であるなら、イエスがおっしゃった言葉こそ神の言葉と受け止めなければならないでしょう。
そして、イエスは「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」と言っているのですから、復讐してはならないという一節こそが神の本心と解釈しなければなりません。
ただ、ユダヤ教徒やイスラム教徒は、「イエスは、神の子ではなく、預言者の一人に過ぎない」と言っていますから、イエスの言葉を神の本心とは認めないかも知れませんが、少なくとも彼らが聖典とする旧約聖書には、「復讐してはならない」と説かれているのですから、この言葉を神の本心と解釈する事も不可能ではないでしょう。
復讐を禁じたこの一節が神の本心なら、この言葉は、一神教徒にとって、命を賭けてでも守らなければならない神聖なる言葉であり、この言葉に背く事は、神を冒涜するに等しい事になります。

 

神の本心とかけ離れた現実

 

しかし、現実は、口でいうほど簡単ではありません。
復讐を戒めたこの一節が神の本心であるとしても、これで報復の連鎖が止み、問題が解決するのであれば、十字軍遠征も、パレスチナ問題も、無差別テロ事件も、起こってはいなかったでしょう。
神の本心(聖典の一節)と一神教徒の行動が、常に一致するとは限らないのが、悲しい現実なのです。
いくら「復讐してはならない」という一節が神の本心であったとしても、そして、神の意志に絶対服従する事が一神教徒の信仰であったとしても、一神教徒の行動を決定するのは、神ではありません。
最後に服従するか否かを決めるのは、信仰する一人一人の人間なのです。
しかも、その鍵を握っている一人一人の人間は、自分にとって都合の良い方向にしか進まないという習性を持っています。
神の意志に絶対服従する事が一神教徒の信仰であり、「復讐してはならない」という一節が神の本心であるとしても、それはあくまで建前に過ぎません。
幾ら「神は偉大なり」と叫んでみたところで、いざ復讐しない事が自分にとって不都合になってきたら、都合の良いように幾らでも聖典の解釈を変え、復讐する自分の行動を正当化するのが、人間の本性であり、悲しい性(さが)なのです。
しかも、政教一致の国々では、常に宗教が政治経済を動かし、政治経済を巡る様々な利害関係が宗教にも及んできますから、「復讐してはならない」という一節を実践する事は、一層難しくなります。
このような状況では、山積する諸問題を解決する事など、夢のまた夢と言わざるを得ませんが、一つの条件さえクリア出来れば、決して難しい事ではありません。
その条件とは、「復讐してはならない」という神の本心に、一神教徒が絶対服従し、行動に移す事です。
しかし、この一点こそが、まさに至難の業であり、一神教徒としての信心が本物か否かが問われる試金石でもあるのです。
残念ながら、パレスチナ問題一つを取って見ても、「復讐してはならない」という神の言葉を実践する事がいかに難しいかが分かります。
ユダヤ教徒とイスラム教徒が互いに対立したまま、睨み合い、教えとは相反する行動しかとれないのは、いくら聖典に「復讐してはならない」と書かれていても、現実にそれを実践するのが至難の業だからです。
「復讐してはならない」という一節を神の言葉と信じ切れていれば、それが神の本心である以上、一神教徒なら、その命令に絶対服従し、そのように行動しなければならない筈ですが、そこには、理想(建前)と現実(本音)の大きなギャップが横たわっているのです。

 

世界平和・人類救済のための犠牲

 

この理想と現実のギャップを埋めることは可能でしょうか?
ここで思い出して頂きたいのは、先にお話した法然上人の父、漆間時国です。
漆間時国は、復讐をしてはならないと遺言して、勢至丸(後の法然上人)を諌め、自ら犠牲になったのですが、旧約聖書、新約聖書にある「復讐をしてはならない」というこの一節を行動に移し、理想と現実のギャップを埋める為には、どうしても乗り越えなければならない壁があります。
それが、犠牲です。
つまり、誰かの犠牲があって、初めて輪廻の業の連鎖に終止符が打たれ、因縁を背負う者全てに救いの道が開かれるのです。
漆間時国が犠牲になったお陰で、法然も時国を襲った相手の子孫も、みな救われたのですが、一神教の中にも、漆間時国と同様、犠牲になられたお方がいます。
そのお方こそが、まさにイエス・キリストなのです。

 


イエス・キリストは、人類の罪(十字架)を背負って処刑され、犠牲となって、人類の救世主となられました。
イエスが犠牲になったのは、人類を救済する為ですが、その犠牲は、宗教的始祖であるアブラハムから生まれた兄弟宗教であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教の間で繰り返されてきた千年以上にも及ぶ、骨肉の争いに終止符を打つ為の犠牲でもあります。
キリスト教では、イエスは神の意志によって、人類の罪を背負わされたと言われますが、人類の罪も然ることながら、兄弟でありながら傷つけ合い、殺し合わなければ生きてゆけない罪深きわが末裔たちを憐れんだ神(ヤハウェ)が、イエスを犠牲にして救おうとされたのです。
仏教的に表現すれば、輪廻の業の連鎖(宗教戦争)を断ち切る為に、神はわが子であるイエスを犠牲にされたのです。
そして、三大宗教を開かれた三人(モーゼ、イエス・キリスト、ムハンマド)の中で、人類の犠牲となったのが、イエス・キリストだけである事を考えると、いま世界中で起きている無差別テロ事件や、複雑化しているパレスチナ問題などを解決する鍵を握っているのは、キリスト教徒(キリスト教国を代表するアメリカ合衆国とイギリス)をおいて他にはありません。
何故なら、犠牲となったイエス・キリストを信じるキリスト教徒にしか、犠牲の意味を理解し、イエスと同じ行動を起せる者はいないからです。
イエスは、いま全世界のキリスト教徒に問いかけておられるのではないでしょうか。


私は、みんなに手本を示したのだ。本当に私を神の子と信じるなら、貴方達も、憎しみ合っている兄弟たちを和解させるため、行動を起しなさい。それが、私を神の子と信じる貴方達が、人類を救うために出来る最善の行動です。


全世界のキリスト教徒が、イエスの犠牲を、どのように受け止めているのか知りませんが、イエスはいま、「貴方たちも私と同じように、人類を救うため犠牲になる覚悟がありますか」と、問いかけておられるのではないでしょうか。
三大宗教を三兄弟とすれば、キリスト教徒は次男です。対立している長男のユダヤ教徒と、三男のイスラム教徒の仲裁が出来るのは、次男のキリスト教徒をおいて他にはいません。
勿論、仏教徒にも出来る事は多々あるでしょうが、兄弟同士の対立は、やはり兄弟で解決しなければ、真の解決とはなりません。と言うより、それが実現できなければ、兄弟対立は永遠に続いてゆくのです。
武器を手にして解決を計るのが、独裁者であるとすれば、武器を捨て、智恵を以て解決を計るのが、真の宗教者と言えましょうが、兄弟が和解する為には、まず仲介者となるキリスト教徒(アメリカとイギリス)が犠牲になる覚悟を示し、双方に歩み寄らなければなりません。

 

イエス・キリストが復活する日

 

新約聖書には、イエス・キリストが処刑された三日後の早朝、女達がイエスの墓をたずねると、すでに墓は空になっていて、大天使ガブリエルがキリストの復活を告げたと書かれていますが、この時に起こったイエス・キリストの復活を、どう捉えればよいのかについて、様々な意見があります。

 


イエスの犠牲が、人類救済という形で実を結ぶ事を預言したところに、イエス復活の意味があるとするならば、この時のイエスの復活は、まだ仮の復活に過ぎません。
何故なら、もしイエスが真に復活したのであれば、三兄弟の間で繰り返されている骨肉の争いに終止符が打たれ、全人類はすでに救われていなければならないからです。
では、イエスが真に復活されるのはいつなのでしょうか?
それは、全キリスト教徒が、自らイエスと同じ犠牲を甘んじて受け入れる覚悟をした時ではないでしょうか。
つまり、全キリスト教徒が、ユダヤ教徒やイスラム教徒と宗教的和解をする為に、犠牲になる覚悟を示した時、イエス・キリストは、全キリスト教徒の内に復活するのです。
勿論、ここにいう犠牲とは、イエス・キリストが背負った十字架を、全キリスト教徒が背負う事ではありません。
キリスト教徒が背負う十字架とは、新約聖書に説かれたイエス・キリストの次の言葉を行動で示す事であり、これは全キリスト教徒の使命と言っていいでしょう。

 

目には目で、歯には歯で」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。 悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。

 

この言葉が行動で示される時、イエス・キリストが、全キリスト教徒の内に復活し、人類救済への扉が大きく開かれるに違いありません。
そして、これこそ、処刑三日後に、イエス・キリストが復活という形で示した人類救済のシナリオなのではないでしょうか。
その日がいつ来るのかは神のみぞ知るところですが、その日が、イエス・キリストの言葉を行動によって示す時であるならば、その日を決めるのは神ではなく、キリスト教徒自身(アメリカとイギリス)であり、人類の恒久平和を願う私達自身なのです。

 

世界平和・人類救済と犠牲(1)

世界平和・人類救済と犠牲(2)

世界平和・人類救済と犠牲(3)