世界平和・人類救済と犠牲(2) | カンロのブログ

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日々の出来事や思いを、徒然なるままに綴っていきます。

 

誤れる求道は人生を破滅にみちびく

 

 

歴史を遡ってみれば分かるように、ユダヤ教徒にもキリスト教徒にもイスラム教徒にも、それぞれの言い分があり、どちらが正しく、どちらが間違っていると、一概には決められません。
ましてや、そこに様々な人間の利害が絡んでくれば、問題解決には程遠い状況が生まれるであろう事は、容易に想像出来ます。
勿論、イスラム組織ハマスの攻撃も、イスラエルの報復も、いかなる理由があろうとも断じて許される事ではなく、ましてやその行動を唯一絶対神の名の下に正当化する事は、彼らの言う神に対する冒涜と言わねばなりません。
しかし、十字軍遠征を見ても明らかなように、無差別テロ行為を非難するキリスト教徒もまた、神の名の下に罪もなき多くの人々の命を奪い、この大地を鮮血で染めてきた悲惨な過去を背負っているのです。
それは、ユダヤ教徒やユダヤ教徒においても同じでしょう。
信仰のベールを隠れ蓑にして、繰り返されてきた飽くなき蛮行の数々を見ると、改めて人間が背負う罪の重さを考えさせられずにはいられませんが、信仰の恐ろしさは、ひとたび信仰のベールを被ると、常識ではとても考えられない蛮行が、いとも簡単に実行できてしまう事です。
自分のしていることが、いかに残虐な行為であっても、神の名の下であれば、いとも簡単に犯せてしまう事は、過去の幾多の宗教戦争を見れば明らかで、そこには、神の名の下に犠牲となった無数の屍が横たわっています。
ご存じのように、日本にも、オウム真理教という、絶対的権威を振りかざした教祖の指示で、地下鉄サリン事件や松本サリン事件など数々の無差別テロ事件を引き起こした宗教教団がありました。
オウム真理教の信者たちも、最初は真摯な求道心から、道を求め、救いを求めて入信した人たちだったかも知れません。
その求道心は、純粋で尊いものですが、その純粋で尊い求道心が、一歩道を踏み誤ると、取り返しのつかない結果を招く事を教えてくれたのが、まさにオウム真理教事件でした。
いつ、どのようにして道を踏み誤ったのかは分かりませんが、人の命を奪う事も、その人を救う為であり、自分は正しい事をしているという盲信が、彼らを無差別テロ事件に走らせた事は間違いありません。
盲信がもたらすものは、人生の破滅だけであり、他人のみならず自分自身をも奈落の底に陥れる危険極まりないものです。
だからこそ、このようは悲劇を繰り返さないためにも、オウム事件や今回のイスラエルとハマスの報復合戦に共通する問題点を、しっかり検証しておかなければなりません。

 

 

一神教徒の論理

 

 

オウム事件や今回のイスラエルとハマスの報復合戦の共通項として、まず挙げなければならないのは、彼らの信仰対象が、疑問を持つことさえも許さない絶対的存在であるという事です。
信仰対象の唯一絶対性は、神の名の下に為されるすべての行為を正当化し、その行為が絶対的に正しい事を、信ずる者の心に植えつけます。
その行為がいかに反社会的、反人道的な行為であっても、何の躊躇もせずに実行出来てしまうのは、それが絶対的存在である神の意志だという盲信がそうさせるからです。
恐ろしいのは、その行為がどんなに悪であっても、神の意志であれば絶対的な善として、信ずる者の心に植えつけられてしまう事です。
このような論理は、世間一般の常識では、到底理解出来ない考え方ですが、彼らの論理からすれば、何も間違っていないのです。
それが、唯一絶対神を信じる彼らの信仰なのですから。
オウム真理教事件を見れば、何故彼らが、何の躊躇もせずに無差別テロ事件を犯せたのか、その理由が分かります。
罪もない一般の人々や脱会しようとした信者たちが、無差別に殺害されたオウム真理教事件は、宗教界の汚点であると同時に、宗教に携わる者への警鐘と言えましょうが、殺害を指示したのは、オウム真理教の麻原教祖でした。
麻原教祖は、教団内で、一神教の唯一絶対者の如く振る舞い、絶対的権威を利用して、「彼らを救うには、ポア(殺害)するしかない」と、信者達に指示を出していたのです。
教祖の指示は絶対ですから、信者達の心には、何故教祖がこのような指示をするのかといった疑問も、悪い事をしたという後悔の念もありません。
絶対的存在である教祖が、「教団に背く者を殺すことは善であり、その人を救う事になる」と教えているのですから、信者達にとって、その言葉に間違いのあろう筈がありません。
絶対者である教祖の言葉にいかなる疑問も抱かず、教祖の言葉を信じて行動するのが、彼らの信仰であり、一神教の信者の論理ですから、彼らにしてみれば、大勢の人々を殺害した自分たちが悪いのではなく、教団に背いて救われない道を選んだ人々が悪い事になります。
これは、お金を騙し取った振り込め詐欺犯が悪いのではなく、騙される人間、お金を持っている人間が悪いというのと同じ理屈です。
自分たちは、教祖に背いた人を救ってあげたのだから、何も悪くはないし、たとえ、どれだけ大勢の人々を無差別に殺しても、教祖(神)の指示に従った行動だから、教祖(神)から祝福されはしても、決して罰を受け、非難される事はないのです。
これがオウム真理教の論理ですが、一神教徒の論理も、これと同じと言っていいでしょう。
彼らもまた、唯一絶対神の名の下に闘い、唯一絶対神の名の下にテロ事件を犯し、唯一絶対神の名の下に命を捧げたのですから、何人の人を殺そうが、その行為は、唯一絶対神から祝福される行為なのです。

 

輪廻の業に過ぎない行動

 

イスラム組織ハマスの攻撃やイスラエルの報復が、イスラム教徒やユダヤ教徒から見て、唯一絶対神の祝福を受ける行動と映っているのかどうかはわかりませんが、今回のハマスとイスラエルの報復合戦は、仏教徒の目から見れば、どう映るのでしょうか?
勿論、仏教徒の中には、ここで述べる意見と異なる考えの方もおられるでしょうし、ここで述べる見解がすべての仏教徒を代表するものでない事は言うまでもありませんが、少なくとも仏教徒の一人である私の目から見れば、彼らの行動は、果てしなく続く「輪廻の業(りんねのごう)」以外の何ものでもありません。

 


輪廻とは六道輪廻の事で、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上という六つの世界(六道)を果てしなくさまよう事を六道輪廻と言い、六道をさまよう原因となる行動を、輪廻の業と言います。
地獄界とは、怒りの炎がうずまき苦しみが極まる極苦の世界、餓鬼界とは、いくらあっても満足しない貪りの世界、畜生界とは、自分の事しか考えない自我の世界、修羅界とは、闘争に明け暮れる憎しみの世界、人間界とは、苦楽幸不幸のある世界、天上界とは、一時的な楽はあっても、やがて苦界におちてゆかねばならない不安におびえ続ける世界ですが、この内、地獄、餓鬼、畜生の世界を三悪道と言い、修羅の世界を加えて四悪道とも言います。
ハマスとイスラエルが作っているのは、まさにこの四悪道の世界であり、しかも、六道輪廻の世界には終わりがありませんから、彼らは、輪廻の因縁を解かない限り、四悪道の世界を果てしなくさまよい続けなければなりません。
彼らは、唯一絶対神の祝福を受けると信じて行動しているのかも知れませんが、彼らの行動は、ただ万年にも続く輪廻の業を作っているに過ぎないのです。
勿論、信仰は、犯した罪を消し去ってくれる免罪符ではありませんから、彼らは、未来永劫にわたって、犯した罪を償ってゆかなければなりません。

 

一神教と仏教の違い

 

何故、神の祝福を受けると信じる彼らの行動が、仏教徒から見れば、末代までも続く輪廻の業を作ったに過ぎないのかと言えば、一神教と仏教では、信じる対象が根本的に違うからです。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教に共通しているのは、唯一絶対神ヤハウェ(アドナイ、ゴッド、アラー)のみを神と信じ、他の神を認めない事です。
それに対し、仏教徒が信じるのは神ではありません。
仏教徒が信じるのは、この世の真理である縁起・無常の理法です。
縁起・無常の理法とは、「すべてのものは移り変わり、変化しない実体を持ったものは存在しない。すべてのものは、有るようで無く、無いようで有る空なる状態において存在している」というこの世の真理です。
しかも、すべてのものは、ただ無原則、無秩序に変化しているのではなく、そこには、必ず変化をもたらす原因と条件があり、その原因と条件の下で、すべてが変化しているのです。
例えば、私達が他の生き物ではなく、人間に生まれてこれたのも、生まれながらにして顔かたちや、生まれや、人種が違っているのも、やがて死んでゆかねばならないのも、すべてそこに、そうなるべき原因と条件があるからです。
勿論、神仏が分け隔てしているのでも、運命に左右されているのでも、この世が不平等だからでもなく、全ては、過去から受け継いできた原因と条件によってもたらされたものです。
自分が幸せになるのも、不幸せになるのも、誰のせいでもなく、自分がそのような原因を作り、そのような条件を引き寄せてきたからだと考えるのが、仏教の縁起論です。
そして、この縁起・無常の理法を人格化して「法身仏」と名付け、法身仏が人々を救済するためにこの地上に現れたお姿を応身仏(釈尊)としたのが、如来三身(法身、報身、応身)の思想ですが、いずれにせよ、ハマスとイスラエルの行動は、縁起・無常の理法から見れば、唯一絶対神の祝福を受ける行為でも、死んでから神の下へ生まれ変われる行為でもなく、ただ万年にも続く輪廻の業(苦しみの因縁)を作ったに過ぎないのです。
たとえ、唯一絶対神の名の下に行った行動であっても、また彼らがそう信じていたとしても、罪のない人々を無差別に殺害する行為は、いかなる大義名分があろうとも、末代までも続く輪廻の業(苦しみの因縁)以外の何ものでもありません。

 

仏教の仏は神か?

 

「仏教が、唯一絶対神を認めないとすれば、仏教でいう仏とは何なのか?一神教の神と同じではないのか?」という疑問を抱かれる方もおられると思います。
仏教でいう仏とは、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教で説かれる、すべてを創造した唯一絶対神ではありません。
仏とは、人間として到達し得る最高の人格を成就した人間であり、人間以外の何者でもありません。
ご存知のように、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の間では、預言者のモーゼ、イエス・キリスト、ムハンマド(マホメット)をどう捉えるかで、見解が大きく分かれています。
ユダヤ教は、預言者はモーゼだけで、イエスもムハンマドも、預言者として認めていません。
またユダヤ教では、メシア(救世主)は世界の終末時に現れると考えられているため、ユダヤ人でありユダヤ教徒でもあるイエス・キリストが自らを「神の子」と名乗ったのは、唯一絶対神「ヤハウェ」に対する反逆であると見なしています。
イエス・キリストは、あくまでユダヤ教徒の一人に過ぎず、「神の子」を名乗るイエスは、唯一絶対神「ヤハウェ」に対する反逆者、異端児として、十字架刑に処せられなければならなかったというのが、ユダヤ教徒の論理です。
イエス・キリストが処刑されてから40年程後に、12使徒の手によって、ユダヤ教の新興宗教として発足したのがキリスト教ですが、キリスト教徒は、モーゼを預言者と認めても、ムハンマド(マホメット)を預言者として認めていません。
キリスト教の最大の特徴は、イエスを「神の子」「メシア(救世主)」としている点で、この点が、キリスト教のキリスト教たる所以であると共に、ユダヤ教やイスラム教と真っ向から対立する点でもあります。
そのキリスト教から遅れて誕生したイスラム教も、ユダヤ教と同じように、イエス・キリストを「神の子」とは認めず、あくまで預言者の一人に過ぎないとしています。
イスラム教徒にとっては、モーゼもイエスもムハンマドもみな預言者なのですが、違うのは、ムハンマドを、唯一絶対神アラー(ヤハウェ)の教えを最も忠実に伝える最後で最高の預言者としている点です。
このように、モーゼ、イエス・キリスト、ムハンマドの三人が、預言者か否か、神の子か否かについて意見が分かれていますが、共通点が一つあります。
それは、モーゼもイエスもムハンマドも神そのものでないとしている点です。
これら三大宗教では、神はすべてを創造した唯一絶対なる存在であり、人間が神になる事などありえないのです。
人間はただ神の命令に絶対服従するだけの、神の僕に過ぎません。勿論、そこには、人間の意志や希望などというものもありません。あるのは、ただ人間に絶対服従を強要する唯一絶対神の命令だけです。

 

仏教は「一人一仏」教である

 

一神教の神が、その教え(命令)に従う事を求め、逆らう事を許さない絶対的存在であるのに対し、仏教の仏は、人間に服従を強いる絶対者ではありません。
釈尊を見れば分かるように、仏とは、様々な悩み苦しみを乗り越え、この世の真理を悟って、究極の人格を完成した人間です。
罪も作り、迷い、苦しみ、人を恨み、妬みもする不完全な人間が、よりよき人間になろうと志し、人格を磨き、悟りを開いて仏の境地に到達した姿なのです。
仏といえども、かつては私達と同じ痛みや悲しみを持つ迷い多き人間ですから、私達の悩み苦しみや弱さを誰よりも分かっておられるお方と言っていいでしょう。
だからこそ、いつも私達に寄り添い、苦楽を共有しながら導いて下さる伴侶のような存在であって、私達に服従を強要する絶対者ではないのです。
一神教において、人間は、ただ神の命令に絶対服従を強いられる僕(しもべ)であり、完全に神と隔絶した存在に過ぎませんが、仏教における人間は、法(真理)に守られ、苦楽を共にする仏の家族なのです。
では、何故愚かな人間が仏の境地に到達出来るのでしょうか。
それは、『涅槃経』に「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」と説かれているように、誰もが、仏性という仏になるための種を宿しているからです。
仏性を譬えれば、宝石になる前の原石であり、その仏性を磨いて中から出てきた輝く宝石が仏です。
 仏も昔は 凡夫なり
 我らも終には 仏なり
   いずれも仏性 具せる身を
   隔つるのみこそ かなしけれ
これは、平清盛の寵愛を受けながら、白拍子の仏御前に、その座を奪われた祇王が、清盛から仏御前を慰めるよう命じられ、舞を踊りながら涙ながらに作った歌です。
誰もが仏性を具え、やがては仏にも成り得る身であるのに、何故私はこのような辱めを受けなければいけないのでしょうかと訴える祇王の切ない気持ちがあふれていますが、この歌に詠われているように、誰もが仏になれると教えるのが、仏教なのです。
人間は絶対に神には成れないと説く一神教の神と、誰でも仏に成れると説く仏教の仏との違いが、お分かり頂けたと思いますが、誰でも仏に成れる以上、仏教の仏は、釈尊お一人ではありません。
大日如来、阿弥陀如来、薬師如来、観世音菩薩、地蔵菩薩、文殊菩薩や、人間として生まれたお大師様(弘法大師)や菩薩様(普門法舟大菩薩)など、数多くの仏がいるのはその為ですが、これらの仏は、誰もが仏になれる事を証明してくれている先覚者(先に目覚めた者)と言えましょう。
勿論、歴史上実在した釈尊やお大師様や菩薩様以外の仏は、大乗仏教の中から生み出された架空の仏ですが、たとえ架空の仏であっても、迷える人間(凡夫)から仏の位に上ったお方である事に変わりはありません。
但し、人間がそのまま仏になれる訳ではなく、縁起・無常の理法を悟り、理法に救われ、理法に従って生きて、はじめて人間が仏の位に上れるのです
仏教徒が信じるのは、この縁起・無常の理法であって、唯一絶対神ではありません。
ですから、仏教には、逆らう事も疑う事も許されない神の命令などというものも、存在しません。
信じるのは、この世を普く照らし、人々を救いに導く縁起・無常の理法(大法)であり、その真理を悟られた人(仏)であり、その人が説いた教え(仏法)です。
昔から仏教は、キリスト教などの一神教に対して多神教と言われますが、何度も言うように、仏教には、一神教の神に比されるような神は存在しません。
仏教に居るのは、ただ人生に悩み、苦しみ、怒り、妬み、様々な罪を作りながらも、人格(仏性)を磨いて、仏の境地に到達したいと努力精進している一人一人の人間(菩薩)です。
ですから、仏教は、一人一人の人間が仏の境地を目指して修行する教え、つまり、「一人一仏」教なのです。
千人いれば、やがて仏に成るであろう千人の菩薩が居り、万人いれば、万人の仏が居るのです。
しかも、その千人、万人の仏には、一人として同じ仏はいません。一人一人の仏が、為すべき役目を持ちながら、互いに支え合い、補い合い、助け合って、一つの曼荼羅浄土を作っているのです。
曼荼羅浄土とは、一人一人の仏が、それぞれに光を放ち、互いに照らし合っている仏の世界の事で、この世界こそが、仏教徒の目指す在るべき理想郷なのです。

 

釈尊とイエスの最後

 

仏教でいう仏とは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教でいう唯一絶対神とは、全く次元の異なる概念である事がお分かり頂けたと思いますが、その違いをよく現しているのが、釈尊とイエス・キリストの最後のお姿です。

 


ご存じのように、イエス・キリストは、ユダヤ教徒とローマ帝国によって、十字架刑に処せられました。
キリスト教によれば、イエス・キリストが十字架にかけられたのは、「神の子」「メシア(救世主)」として人類を救済するためであり、人類の救いは、十字架(人類の罪)を背負われたイエス・キリストの犠牲の上に与えられたものであるとされていますが、それにしても、十字架にかけられたイエス・キリストのお姿は、見るに忍びません。
イエス・キリストは、息を引き取る直前、「わが神よ、わが神よ、なぜわたしを見捨てられたのか」と悲痛な叫びを上げて息絶えたと言われていますが、「神の子」として人類の罪をあがなう為とはいえ、その最後は余りにも残酷です。

一方、釈尊の最後のお姿を描いた「釈迦涅槃図」を見ると、釈尊の十大弟子をはじめ、大勢の仏や菩薩、天女や動物たちが、釈尊の枕辺に集まり、悲しみにくれています。
ところが、周囲の悲しみとは対照的に、釈尊のお顔が非常に安らかなのです。

 


イエスが十字架刑に処せられたのは、唯一絶対神のみ心であり、人類を救済する為、わが子に犠牲を強いた神の絶対的命令によるものです。
一神教徒にとって、唯一神の命令は絶対であり、神の子であるイエスといえども、逆らう事は許されません。
それに対し、釈尊の最後のお姿は、神の意志ではありません。
釈尊は、誰にも等しくおとずれる縁起・無常の理法に従って、涅槃に入られたのです。
釈尊の涅槃の表情は、縁起・無常の理法を悟り切っておられるお顔であり、悟りによってもたらされた安らぎの表情なのです。
勿論、そこに唯一絶対なる神はいません。
そこには、ただ縁起・無常の理法を悟り、理法に従って死を在るがまま受け入れ、後世、釈尊と慕われて苦しむ人々の心の友となられた一人の人間がいるだけです。

 

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