世界平和・人類救済と犠牲(1) | カンロのブログ

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日々の出来事や思いを、徒然なるままに綴っていきます。

 

泥沼化するパレスチナ問題

 

パレスチナのガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマスが、令和5年10月7日に、突然イスラエルに向けてロケット弾を打ち込み、イスラエル領内に侵入して多くのユダヤ人を連れ去るという事件が起きました。
イスラエル側もすぐに反撃し、双方に多くの犠牲者が出る最悪の事態になっていますが、バレスチナ側の一般人の犠牲者の数が圧倒的に多いため、イスラエルに非難が集まっています。
年が明けてからもイスラエルとイスラム組織ハマスとの報復合戦が続いているため、毎日多くの犠牲者が出ていますが、ご承知の通り、この地域では昔から報復合戦が絶え間なく続いており、その背景に、パレスチナの地にイスラエルを建国したユダヤ教徒と、イスラム教を信仰するパレスチナ人との深い宗教的因縁がある事は間違いないでしょう。
イスラエル建国によって、パレスチナの地を追われたパレスチナ難民は100万人を越えると言われていますが、彼らの中から生まれた反イスラエル政治組織が「パレスチナ解放機構(PLO)」で、その中の最大組織である「ファタハ」の指導者アラファトがPLO議長となり、イスラエルと激しい戦闘を繰り広げてきました。
パレスチナ暫定自治政府が設立されて初代大統領となり、次第にイスラエルとの和平を目指す穏健路線に転換してゆきました。
アラファト議長が亡くなった後は、アッバス議長がパレスチナ暫定自治政府の大統領を務めていますが、PLOは、イスラエルとの共存を認めない強硬派のイスラム原理主義組織「ハマス」との間で、路線を巡って対立してきました。
しかし、2011年に和解が成立し、双方が暫定的な連立政権を組んで統一政府を作り、パレスチナ国家の独立に向けて準備を進めることになりました。
ところが、今回、ハマスが突然イスラエルを攻撃した為、再び報復合戦が始まり、先の見えない泥沼状態に陥ってしまったのです。

イスラエル王国興亡の歴史

 

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の対立がいま最も顕著に現れているのが、中東のパレスチナ問題ですが、教義の違い、辿ってきた歴史的経緯、領土をめぐる対立、石油の利権、利害関係を持つ諸外国の思惑など、様々な要因が複雑に絡み合っているため、解決の糸口を見つけ出すことは容易ではありません。
しかし、今でこそ激しく対立し合っている三大宗教ですが、元をたどれば、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、人類を救済するため神によって選ばれた最初の預言者と言われるアブラハムを宗教的始祖とする、同じ親から生まれた兄弟関係にある宗教なのです。
当然ながら、信仰する神も同じで、ユダヤ教では「アドナイ」、キリスト教では「ゴッド(主)」、イスラム教では「アラー」と呼ばれていますが、いずれも旧約聖書に出てくる唯一絶対神「ヤハウェ(エホバ)」なのです。
そもそも、今日まで続く争いの発端は、絶対神「ヤハウェ(エホバ)」がモーゼに十戒を授けたと言われる紀元前1260年頃に遡ります。
遊牧民であったユダヤ人の祖先アブラハム、その子のイサク、孫のヤコブは、カナン(パレスチナ)の地に住んでいましたが、大飢饉に見舞われたため、ユダヤ人たちを連れてエジプトに移ります。
しかし、やがてエジプトの奴隷となり、400年もの間、迫害を受け続けるのですが、そのユダヤ人たちを救ったのが、預言者モーゼでした。
ファラオ(エジプト王)の娘に拾われて大切に育てられたモーゼは、ユダヤ民族を引き連れてエジプトを脱出し、カナン(パレスチナ)の地を目指しますが、その途中のシナイ山で、エホバの神から、石板に刻まれた十の戒律を授かります。
これが、「モーゼの十戒」と言われる神とユダヤ民族との契約ですが、モーゼの死後、紀元前11世紀頃、イスラエル初代の王サウルの下で建国を成し遂げ、後継者ダビデ王とその子ソロモン王の治世で、イスラエル王国は絶頂期を迎えます。
しかし、その繁栄も長くは続かず、ソロモン王の死後、後継者争いによって、北方の北イスラエル王国と、南方のユダ王国に分裂して、国力は次第に衰えてゆきます。
その後、紀元前721年、北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、ユダヤ人たちは奴隷とされます。
紀元前612年、アッシリア帝国が新バビロニア帝国に滅ぼされ、ユダヤ人たちは、奴隷から解放されますが、紀元前597年、バビロニアがエルサレムに侵攻し、多くのユダヤ人をバビロンに連れ去ります。
これが、エジプトの奴隷となった第一の迫害につぐ、第二の迫害と言われる第一次バビロン捕囚です。
更に、南のユダ王国も、紀元前586年、バビロニアに滅ぼされ、多くのユダヤ人が、バビロンへ連れ去られます(第二次バビロン捕囚)
紀元前538年、アケメネス朝ペルシャ帝国がバビロニアを滅ぼし、ユダヤ人は解放されてエルサレムに帰還することを許されますが、紀元前333年、ペルシャ帝国がマケドニア王国のアレクサンドロス大王に滅ぼされ、再びギリシャの支配下におかれる事になります。
アレクサンドロス大王亡き後、マケドニアは将軍ディアドコイ達によって分割され、紀元前198年、ユダヤ人たちは、セレウコス朝の支配下におかれます。
紀元前143年、セレウコス朝の影響を脱して、ユダヤ人の独立国家が回復しますが、実権を巡る権力闘争によって国力は次第に衰え、やがて、ローマ総督の支配化に置かれる事になります。
ローマ総督の支配に反発するユダヤ人たちは、西暦66年、ローマに反旗を翻しますが、西暦70年のローマ軍の攻撃によってエルサルム神殿は崩壊、それを最後にユダヤ人たちは、祖国を追われ世界中をさまよう流浪の民となってしまうのです。

 

パレスチナ問題の発端と中東戦争

 

こうして、ユダヤ民族は、その時々の支配勢力の興亡に翻弄されながらも、民族としての命脈を保ち続け、いつの日か神から約束された祖国カナン(パレスチナ)へ帰還できる事を夢見て、幾多の迫害に耐えてきたのです。
ユダヤ人に対する迫害が熾烈さを極めたのが、第二次世界大戦中のナチスによるユダヤ人大虐殺(ホロコースト)で、この大虐殺によって、祖国を持たない流浪の民の悲哀を目の当たりにした多くのユダヤ人は、祖国へ帰還する夢を大きく膨らませます
そして、祖国を追われ流浪の民となってから1800年以上も経過した1948年5月14日、ついにその悲願を実現してイスラエルを建国しますが、それは同時に、パレスチナに先住していたパレスチナ人の追放という新たな犠牲を強いるものであり、これによって、難民となったパレスチナ人との間で、果てしない領土紛争が始まることになったのです。
今日まで続く領土紛争の直接的発端は、19世紀後半からヨーロッパ(特に東欧および中欧)に興ったシオニズム運動(祖国パレスチナに帰ろうという帰還運動)と、イギリス帝国の思惑、そしてユダヤ人のパレスチナ入植開始です。
当時パレスチナを含むアラブ地域を支配していたオスマン帝国を倒したいイギリス帝国は、アラブがオスマン帝国に反乱をおこして戦えば、その見返りに、大戦後、アラブ国家の独立を認める」という約束をします。
これが、「フセイン・マクマホン協定」と言われる約束で、その独立地域には、パレスチナも含まれていました。
ところが、翌1917年、イギリスは、ユダヤ人に対しても、パレスチナにユダヤ人国家を建設することを認める約束をしてしまったのです(バルフォア宣言)。
更にイギリスは、フランスとの間で、アラブ地域を山分けする密約(サイクス・ピコ協定)まで結んでおり、今日まで続くアラブとイスラエルの領土紛争の直接的原因は、この時のイギリス帝国の三枚舌外交によって蒔かれたと言っても過言ではありません。
パレスチナ人にとって甚だ不条理とも言えるバルフォア宣言は、第一次世界大戦後、着々と実行に移され、第二次世界大戦後の1947年11月29日、国連総会で、ユダヤ国家、アラブ国家、国際管理地区の3つに分けるパレスチナ分割案が賛成多数で可決されました。
この時、イスラエルに割り当てられた面積は、全パレスチナの57%を占めていましたが、人口は、パレスチナ人口192万人のわずか31%に過ぎない約61万人でした。
しかも、その61万人のうち、当初からパレスチナに住んでいたのは、せいぜい十分の一ほどで、国連の分割案で承認されたイスラエル領内に住むユダヤ人は、アラブ人の51万人より少ない49万人だったのです。
土地所有の割合を見ても、1945年時点でユダヤ人の所有する土地は、僅か6%に過ぎず、このわずか6%ほどの土地所有者であるユダヤ人に、バレスチナ全土のほぼ3分の2が与えられたのですから、アラブ人が不当な分割案だと言って非難するのは無理もありません。

イスラエルとパレスチナの領域推移(本川裕「社会実情データ図録」から引用)

 

しかし、ユダヤ側はこの分割案を受け入れ、翌1948年5月14日、イギリスによる委任統治期間が終了した後、テルアビブで、初代首相ベングリオンがイスラエルの独立を宣言します。
この独立宣言を、アラブ諸国が黙ってみている筈がなく、翌日、周辺アラブ諸国(エジプト、ヨルダン、シリア、レバノン、イラク)は、イスラエルの殲滅を目指してパレスチナに攻め込みます。
これが、第一次中東戦争ですが、結果は予想を覆してイスラエルの勝利に終わり、イスラエルの領域は更に拡張されて、パレスチナの57%から、パレスチナの80%を占めるに至ります。
この敗戦によって多くのパレスチナ人が、イスラエル領から追い出される事になり、パレスチナ難民は100万人に達しますが、その後、二次、三次、四次と続く中東戦争によって、イスラエルは新たな占領地を次々と獲得し、それに伴って占領地から追われたパレスチナ難民はますます増加するという、領土問題解決には程遠い構図が出来上がってしまったのです。
このような状況下で、アラブ側が矛を納める筈がなく、イスラエルとイスラエルの背後にいるアメリカに対するアラブ人の憎悪は益々増大し、彼らを自爆テロや無差別テロへと向かわせる結果になったのです。

 

一神教の宿命

 

ユダヤ人にとって、パレスチナの地は、神との契約によって認められた祖国なのですが、彼らがたどってきた道のりは、その契約とは裏腹に、祖国を持たない流浪の民として迫害と差別に耐えなければならない苦難の道のりでした。
だからこそ、自分たちの祖国であるパレスチナへ帰還したいという思いは、他のどの民族よりも強く、それはまさにユダヤ人の悲願であり、必ず果たされなければならない永遠の命題と言ってもいいでしょう。
しかし、ユダヤ人の入植によってパレスチナを追われた先住のパレスチナ人にとっても、そこが彼らの祖国である事に変わりはありません。
こうして過去の歴史的経緯や利害関係諸国の思惑などが複雑に絡み合い、双方とも引くに引けない状況に陥っているのが、今のパレスチナ情勢ですが、争いが泥沼化している背景には、彼らの宗教が大きくかかわっている事も否めません。
つまり、アラブとイスラエル間の領土紛争には、お互いにとって引くに引けない宗教戦争の一面も含まれているのです。

 

(ユダヤ教の聖地・嘆きの壁)

 

(キリスト教の聖地・聖墳墓教会)

 

(イスラム教の聖地・岩のドーム)

 

 

イスラム教もユダヤ教も、同じ唯一絶対神ヤハウェを信仰する一神教で、親を同じくする兄弟宗教なのですが、ユダヤ教徒は、ヤハウェと救いの契約を結んだのはユダヤ民族だけで、救われるのはユダヤ民族だけであるとの選民思想を信じ、イスラム教徒もまた、3人の預言者(モーゼ、イエス、ムハンマド)の中で、最後の預言者であるムハンマドの預言が、唯一絶対神の真実の教えであると主張して、互いに一歩も譲ろうとはいたしません。
他人同士の争いより、血縁関係にある者同士の争いの方が醜く、解決が難しいと言われますが、ユダヤ教とイスラム教についても、全く同じ事が言えるでしょう。
昔から「骨肉相食む」という言葉がありますが、ユダヤ教とイスラム教が同じ親から生まれた兄弟とも言える宗教だからこそ、一旦争いに火がつけば、その火勢を止める事は難しく、双方が燃え尽きるところまで行かない事には、争いの火は消せないのかも知れません。
更に問題を複雑にしているのが、エルサレムの扱いです。と言うのも、エルサレムは、三大宗教にとって、絶対に侵すべからざる共通の聖地だからです。
ユダヤ教徒にとっては、ユダヤ人の祖先であるアブラハムが、神と契約して祭壇を作ったエルサレム神殿のあった場所(嘆きの壁)であり、キリスト教徒にとっては、イエスが処刑され埋葬され復活した場所(聖墳墓教会)であり、イスラム教にとっては、預言者ムハンマドが神の啓示を受けた場所(岩のドーム)であり、その理由こそ違え、エルサレムは、彼らにとって、かけがえのない聖地なのです。
中世西ヨーロッパのキリスト教(カトリック教会)諸国が、エルサレムに十字軍を派遣したのも、エルサレムがキリスト教徒の聖地だったからであり、イスラム教徒に占領されていたエルサレムを奪還するのがその目的ですが、イスラム教徒やユダヤ教徒にとっても、エルサレムが聖地である事に変わりはありません。
西暦1096年から1272年にかけて、八回に渡って行われた十字軍遠征は、イスラム教徒やユダヤ教徒の心に拭えぬ怨念を植えつける結果に終わりましたが、パレスチナ問題の背景には、こうしたユダヤ教とキリスト教とイスラム教の間で繰り広げられた過去の陰惨な歴史が、暗い影を落としているのです。

 

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