Issay's Essay
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中世のふるさと11 -鎌倉幕府下の長門守護-

745 土肥次郎実平旧城址を示す標柱と忌宮神社境内の長府城下古跡栞石碑

 源頼朝が富士川で、平氏に勝ったのは治承4年(1180)だった。その後、平氏は追いつめられ遂に寿永4年(1185)3月24日、壇之浦の戦いで安徳天皇とともに平氏は滅亡する。
 今ぞ知るみもすそ川のおん流れ波の下にも都ありとは(二位尼)
 まもなく頼朝は、従二位に叙せられ幕府の公文所を政所と改称。更に文治元年(1185)11月には諸国に守護をおいて全国の直接支配にのりだすことになる。(しかし幕府内部も義経の追捕などの一筋縄とはいかない事情も抱えていた)
 下関市史(原始-中世・H/20刊)によれば、最初に長門守護となったのは土肥実平と言われるが、事実上は残党の掃討にあたったらしく、忌宮神社の南に位置する唐櫃山の北端辺り(長府侍町の一角)に陣取ったか、土肥山の地名が残り小公園に石碑がある。
 初代は、文治2年(1186)に宇治川の先陣争いで名をあげた佐々木高綱が建久4年(1193)まで在職。以後、佐々木貞綱、佐々木広綱、薩摩守公業、天野政景、天野義景らが続き建長4年(1252)二階堂行忠が任ぜられたとき、守護代に鎌倉から三井資平が赴任、24年間在職中に住んでいた所が三太屋敷と呼ばれている。
 在任中に文永の役(文永11年=1274,10.20)や元使・杜世忠ら来訪(建治元年=1275.4.15)などの事件があった。三井氏はその後、室津に移住し現在も三井家は存在する。
 長門守護は、建治2年(1276)二階堂行忠に代わって、執権北条時宗の弟宗頼が就任。この時期、いよいよ蒙古襲来が緊迫化し、永井頼茂を代官として長門国府に到着させ、これ以後は北条氏一門が防長両国の守護を占めるようになった。同時に幕府は諸国一宮・国分寺以下諸大寺社に対して全国一斉の異国降伏の祈祷命令を出した。まもなく弘安4年(1281)閏7.1、元軍大挙して壱岐に襲来、一隊は長門浦にも着岸した。
 永任元年(1293)鎮西探題となった北条兼時以後、北条師時、武蔵十郎万寿、北条実政、北条時村、北条時直などと続く。
 当時の守護所は国府(長府)に置かれていたので、依然として行政の中心は長府であり直営耕作地も住居も存在していた。
 写真は土肥次郎実平旧城址を示す標柱と忌宮神社境内の長府城下古跡栞石碑

中世のふるさと10 -源平遺跡・伝説など-

744 島八幡宮のサイ上がり神事と同西楽寺の本尊阿弥陀如来坐像

 平家伝承地は、市域だけでも彦島や高畑・藤ケ谷・女郎ヶ迫、或いは県内各地の人里離れた場所に平家の落人が住んでいたという伝承がある。
 中でも彦島八幡宮に伝わる「サイ上がり神事」は、保元2年(1157)10月「里の西南の海に輝くものがある」と島の長・河野通次に知らせたところ男に調べさせた。男は船を出してこわごわと網を打って引き上げると、それは八幡尊像を刻む明鏡だった。道次らは「これこそわが一族の守り本尊」だと喜び近くの小島に光格殿をつくって祀った。この様子を再現する祭りが860年も続いている。
 さらに源平合戦は多くの伝説を生み、平家蟹の怪奇な甲羅、美しい小鯛(こべけ)に変身した女官、平家の一杯水、高畑の平家藪、旗賭けの松、立石稲荷、きぬかけ岩、辰岩、カナン堂、六人武者、美祢の景清洞、長門の二位の浜、萩の清宗・佐々連姫、また北九州には源平合戦の行われる2年前、再起の地を太宰府に求めたものの緒方惟義の逆襲にあい、箱崎、宗像、芦屋からついに北九州の門司につき『内裏』を定めたのが柳ヶ浦、柳の御所・御所神社がある。門司・甲宗八幡宮には平知盛の墓、白野江の平家の五輪塔、小倉南区には安徳天皇の隠棲地という隠蓑(かくれみの)などもある。
 伝説で、特に有名になったのは小泉八雲(ラフカデイオ・ハーン)の『怪談』(耳なし芳一)の一説。赤間神宮では芳一を供養するお祭りも行われている。
 ほかにゆかりの神社仏閣も、例えば大歳神社では源義経が大歳神を祀り桑の木で弓矢を作り戦勝を祈願し彦島の知盛陣営に向けて矢を射込んだとか、海晏寺の本尊・阿弥陀如来は平教経の持仏を安置、また平家灯篭と呼ばれる青銅の灯篭1対もある。中山寺の本尊薬師如来は、東方海上に光を放つものがあり竹崎の浦人が網ですくいあげると、一の谷以来、平家一門を護ってきた薬師如来だった、浦人は早速、海潮山へ移して一堂を建立したというもの。
 彦島本村にある西楽寺の本尊・阿弥陀如来は平重盛の守り本尊を、執権植田治部之進らが、壇之浦合戦の後に彦島に渡りお堂を建立して安置したとされている。後、建治2年(1276)一遍上人の従者・西楽法師が島を訪れ西楽庵に尊像を移して祀った。高さ83.5cm上品上生の印を結ぶ本尊は下関指定文化財。ほか東光寺、厳島神社、光東寺などそれぞれ因縁深い話が伝わる。
 伝承行事として、下関市では先帝祭とは趣も異なって8月には各地で盆踊りのやぐらの周りに「平家踊り」の輪が広がる。盆踊りの原点は祖霊を迎え供養して送るものとされている。現在は、地域の親睦や町おこしに変革し、市民総踊りの大会など観光的な賑わいもある。彦島の本村小学校では「平家踊りを受け継ぐ子供の会」があって、学校ぐるみで保存が試みられている。
 写真は彦島八幡宮のサイ上がり神事と同西楽寺の本尊阿弥陀如来坐像

中世のふるさと9 -源平史跡・赤間神宮-

743 安徳天皇御陵(左)に隣接する赤間神宮の先帝祭(上臈参拝)

 源平壇之浦の合戦で、8歳の身で平氏とともに海中に没した安徳天皇の霊を弔うため、
 建久2年(1191)後白河天皇は長門国に霊廟を発願し、これが阿弥陀寺(現・赤間神宮)の創建となった。安徳天皇御陵墓は明治22年(1189)宮内庁から阿弥陀寺御陵と定められた。御陵は墳塋(ふんえい)と呼ばれる円墳で高さ80㎝の御影石で八角形に囲まれている。阿弥陀寺は代々の領主からも保護を受け、維新後の神仏分離令で廃寺となり「安徳天皇社」、昭和15年に「赤間神宮」と改称された。しかし昭和20年の第二次世界大戦の空襲で社殿を全焼(一部の古文書絵画などは退避させていて難をのがれた)。
 世界大戦後、昭和23年1月に大連神社から引き揚げた、水野久直宮司は孤軍奮闘して、昭和24年から同40年までに全社殿を復興させた。神社には宝物館があり重要文化財の紙本墨書平家物語や赤間神宮文書のほか安徳天皇縁起絵図など貴重な歴史遺産を所蔵し一部を公開している。
 境内の七盛塚は、前列右から有盛・清経・資盛・教経・経盛・知盛・教盛の七基、後列に家長・忠光・景経・景俊・盛継・忠季・二位尼の七基があり「平家一門の墓」または「平家塚」と呼ばれ往年の阿弥陀寺が偲ばれる。
 また、阿弥陀寺では「先帝法会」が連綿と伝えられ、女郎に身を落とした平家の女官たちも、先帝の御命日には威儀をただして御陵に詣で香華を手向けた。この法会は明治になって天皇社になると「先帝祭」と呼ばれ「関の先帝小倉の祇園雨が降らなきゃ金が降る」と呼ばれるほど関の町を彩る賑わいだった。圧巻は豪華絢爛の衣装で町を練り歩く「上臈道中」。もともと3月24日に行われていたが、明治43年から4月23~25日、昭和60年の安徳天皇800年祭から5月2~4日に変更された。
 安徳幼帝は、下関市伊崎町の漁師の網にご遺体がかかり仮安置(御浜殿)され後に阿弥陀寺に移葬された。また大津郡沢江浦でご遺体が網にかかり豊田町地吉に葬られ「安徳天皇御陵墓参考地」となっていて、此処でも例年4月24日に先帝祭が行われている。
 安徳帝は「実は平氏の公家に伴われ〇〇に上陸・・」とされる伝説があり、宮内庁から陵墓参考地と指定された場所がほかに3ヶ所、此れに伴った隠棲地などの伝説地や行事なども多い。
 写真は安徳天皇御陵(左)に隣接する赤間神宮の先帝祭(上臈参拝)

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