伏見城 その3(山城国) | 三日月の館

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伏見城位置図。

木幡伏見城縄張図。

(探訪ブックス「近畿の城」より)

北堀の東端。

北側の桃山排水場付近に分部光嘉の屋敷があった。

付近の町名は、深草大亀谷敦賀町。
鬼門除けとしてこの付近に移された御香宮神社の祭神が、敦賀の気比神社と同じだったことに由来するとか。

御香宮神社の御旅所となっている古御香宮。

駒札。

【御香宮社(通称 古御香宮)】

日本第一安産守護之大神とされる「神功皇后」を始め九柱の神をまつる当社は、深草大亀谷敦賀町を中心とする「峠」一帯の氏神として深く信仰されている。
文禄3年(1594)、豊臣秀吉は伏見築城にあたり、城内鬼門除けの神として伏見九郷の石井村にあった「御香宮」をこの地に遷し、本殿等を造営して社領300石を寄進した。
秀吉の没後、天下人となった徳川家康は慶長10年(1605)城下町の人心の安定を企って、この神社を再び元の地に戻した。
秀吉の造営した本殿は江戸末期に大破し、その後建てられたのが現在の本殿である。
(平成10年5月解体修理)
こうした経緯から地元の人々より「古御香宮」と呼ばれ、10月御香宮神幸祭には神輿の御旅所として神輿渡御がある。
秀吉がここに祀ったのは、隣接する「桓武天皇陵墓参考地」を保護する必要上とも伝えられている。
尚、明治維新、伏見の戦いに際して。一時御香宮の御神霊が遷御された。

京都市

 

参道を進む。

社殿。

右の狛犬。

左の狛犬。

付近の町名は深草大亀谷古御香宮町。

隣に桓武天皇陵参考地。

伏見桃山城の西側にある柏原陵をご紹介しましたが、諸説あるそうです。

古御香宮を後にします。

ここから南下します。
左側付近に黒田長政の屋敷があったらしい。

二又の道は古地図どおり。

東海道逢坂山にあった車石。

車石で築かれた石垣と狛犬が建つ立派な家。
神社?

ここは八科峠。

かなりの高低差です。

この付近の町名は深草大亀谷安信町。
宇喜多忠家の屋敷があり、出家号の安心に由来。

安信町内の立派な家。
ミニ城郭?

本丸方向を見る。
手前の畑は弾正丸。

弾正丸の北東隅の土塁を見る。

安信町を南下。

安信町の南側は桃山紅雪町。
元後北条氏の家臣で、後に秀吉の御伽衆となった板部岡江雪斎(岡紅雪)の屋敷があった所。

岡紅雪は伏見城の堀を設計した人で、付近には紅雪堀が残っているが立入禁止で見えず。

紅雪町の南西に東大手があった。

覗いてみる。

紅雪町の南は桃山町伊庭(いば)。
射場があったことに由来。
西側の高台は山里丸。
やはり立入禁止。

町内にある桃山東小学校には、紅雪町で出土した武家屋敷の石垣が移設保存されている。

説明板。

石垣に近づいてみる。

山里丸南側、御舟入との間の北崖。
この辺りには学問所があった。

JRの車窓から。
こちらの御舟入は宅地化で良く解らず。

JR奈良線の築堤南側に説明板が建っています。

説明板と石碑。

【伏見城御舟入址】

文禄年間(1592-95)伏見城を築くのと並行して宇治川の河道を現在のように伏見城下へ迂回させたが、慶長元年(1596)の山城大地震後新しく天守閣を木幡山に造るに当って、宇治川と山科川との合流点に御舟入(河港)を設けた。
その御舟入の北崖一帯は俗に「山里丸」と稱ばれる自然の風雅を愉しむ処で、その風景は牧溪(もっけい)の描く水墨画「烟寺晩鐘(えんじばんしょう)」にそっくりであったと言う。
又、慶長8年7月、徳川家康の孫娘千姫が大坂城に在る豊臣秀頼のもとへ輿入れのとき、この御舟入から乗船した有様が諸書に記されている。

平成21年春
伏見楽舎

 

東へ進むと、外環状線を渡った所に見附橋。
付近の町名は桃山町見附町。
(桃山町○○、桃山○○町、桃山町○○町と統一性がない。意味あるのかな?)
見附があった所だろう。

御舟入から西へ進み木幡山へ向かう。
本丸跡は明治天皇伏見桃山陵となっている。

230段の石段を登る。

うぅ〰苦しい

徳川家康の向島城が眼下に見下ろせたことだろう。

明治天皇伏見桃山陵。

ここに天守閣が建っていた。
慶長2年(1597)に秀吉が建てた木幡山の天守閣は、慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いの前哨戦で鳥居元忠が籠城して焼失。
その後、慶長6年(1601)に徳川家康が再建。
大和郡山城の七重天守を移建し、五重天守へ改築したと云う。
翌慶長8年(1602)、ここで徳川家康は征夷大将軍の宣下を受ける。
以後、三代家光までここで将軍宣下を受けた後、元和9年(1623)に廃城。
天守閣は二条城へ再移建された。

東側には昭憲皇太后伏見桃山東陵 。
この辺りは名古屋丸。

洛中洛外屏風図に描かれた伏見城。

天皇陵なので、一般人が立ち入ることは無いが、最近研究者による調査で石垣や土橋が発見されたそうです。

桃山御陵参道を西へ。

増田長盛曲輪(四の丸)西側の堀跡。

参道北側は二の丸。

参道脇に伏見城石垣が並べて置かれています。

横から見る。

三の丸から大手門跡を見る。

一周しました。
最後に、惣構えの土塁を辿ります。
再び伏見桃山城。

北堀を渡る。

渡った所は深草大亀谷五郎太町。
徳川御三家筆頭、尾張藩主徳川義直の幼名「五郎太」に由来。

町内の清涼院。
徳川家康が側室お亀の為に建てた寺で、ここで徳川義直が生まれたとも。

清涼院裏の堀跡。

西側は北正宗町。
土塁と堀跡に沿って曲がった道のある町内。
(町内世帯略図は曲がっていませんが…)
南側に伊達政宗の上屋敷があった。

JR奈良線の線路を渡った所は桃山最上町。
最上義光の屋敷があった。
(伊達政宗の隣りだったんですね〰)

北西側には深草大亀谷金森出雲町。
金森出雲守可重の屋敷が、土塁と堀の外側にあった。
御香宮神社の西側にも屋敷があった。
有力大名は複数屋敷があったようです。

南側は桃山町丹下。
土塁と堀の内側で、本多丹下成重の屋敷があった。
丸岡城主で、一筆啓上のお仙のこと。

町内にある栄春寺。

駒札。

総門は伏見城の遺構とか。

境内には惣構えの土塁が残る。

土塁を固める石垣は後世のもの。

土塁へ登る。

土塁から伏見城を見る。
この延長線上に土塁と堀があった。

土塁は国道24号線南側の京町まで続いていたようですが、ここから丹波橋駅へ向かいました。
帰り道、福島太夫段差へ立ち寄る。
この辺りに福島正則の屋敷があった。

付近には、水野、長岡(細川)、井伊、島津など大名屋敷に由来する地名がたくさん。
一つ一つ訪ねていたら、一日二日では足りない。
また、伏見城の遺構と伝わるものは全国各地にある。
今日はここまで。