大覚寺 その3(京都市右京区) | 三日月の館

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【名勝 大沢池 附 名古曾滝跡】

大沢池は、嵯峨天皇が営んだ離宮嵯峨院の庭園の名残で、中国の洞庭湖を模して作られたと伝えられています。
池の北東約100mには、藤原公任の百人一首(滝の音は、たえて久しくなりぬれど、名杜流れて、尚聞こえけれ)の歌で有名な名古曾滝の石組みが残っています。
大覚寺は、貞観18年(876)嵯峨院を寺に改めたもので、鎌倉時代には後宇多上皇などが入寺されます。
上皇は宏壮な伽藍を整備しますが、その後の兵火で諸堂が失われます。
江戸初期、池西側に伽藍が復興されますが、池北側の御所跡などは、野に帰したままでした。
今回大覚寺では、埋もれていた名古曾滝の遣水跡を発掘調査し、その成果に基づき復元整備を行いました。

 

大覚寺伽藍図。

全体配置図。

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名古曽瀧阯の碑。

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中御所築地塀跡。

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説明板。

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この築地塀より北に中御所があった。

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名古曽瀧跡と中世の遣水跡。

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説明板。

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境外にも碑が建っています。

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木を掻き分けて見る。

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北側には「中御所阯」の碑。
当初は大沢池の北側に嵯峨離宮を改めた大覚寺の大伽藍が広がっていたが、兵火で焼失。
池の西側に復興されるも、本来あった池の北側は畑地や民家の敷地となっている。

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戻って、中世の遣水説明板。

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平安時代の遣水。

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平安時代の遣水説明板。

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大沢池を見る。

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反対側から。
春には桜の名所としても知られる。

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最後に御朱印。

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亀山・後宇多両天皇が大覚寺の再興に尽力し、出家後はここに住んで院政を行った事から、第90代亀山天皇の子孫を大覚寺統といい、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて、第89代後深草天皇の子孫である持明院統と皇位継承で対立した。
後に、足利義満の斡旋により、今後の皇位継承については両統迭立とするという条件で、大覚寺統の後亀山天皇が正式な譲位の儀式を行うとともに、ここ大覚寺にて三種の神器を持明院統の後小松天皇に引き渡し、南北朝の分裂は一旦終わりを告げた。

 

(おまけ)

 

大門脇にもう一つ門がある。

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説明板によると、明智光秀の亀山城の移築城門と云う。

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海鼠壁。
本当にそうだろうか?

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ここの部分だけだったりして。

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門を抜けた所にある建物は明智陣屋。
こちらも亀山城から移築したものと云う。

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門を出る。

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大沢池入口前の何かの塔。

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「(東)嵯峨の細みち(北)登りみち」の碑が建つ。

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南下すると北嵯峨高校に食い込むような円い山がある。

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円山陵墓参考地だそうです。
嵯峨天皇皇女で淳和天皇皇后正子内親王の墓との説がある。

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JR嵯峨嵐山駅近くの民家。
龍が載ってる!

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駅へ戻る。

 

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