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御影堂から正宸殿の脇を通って霊明殿へ。
霊明殿前の庭。
「○○宮御手植」の碑が建ち並ぶ。
皇室との関係の深さを窺わせる。
霊明殿への廊下。
段々になっている。
霊明殿。
総理大臣を務めた斎藤実が昭和3年(1928)、東京の沼袋に建てた日仏寺の本堂だったものを移築。
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庭湖館。
江戸時代中期、大沢池畔に建てられた休憩所を明治元年(1868)に移築したもの。
上段の間には、江戸時代も名僧慈雲尊者の大幅掛軸「六大無礙常瑜伽」が掛かっており、「六大の間」と呼ばれている。
庭湖館前の庭。
滝。
稲荷。
庭湖館の奥に秩父宮御殿。
大正12年(1923)、東宮仮御所の霞ヶ関離宮(現・国会前庭)に建立されたもの。
昭和46年(1971)、大覚寺に下賜された。
正宸殿へ。
国の重要文化財。
正宸殿には12の部屋があり、上段の「御冠の間」は13世紀後半鎌倉時代に後宇多天皇が上皇として院政を執った所である。
また、ここで南北朝の争乱を鎮めるため、明徳3年(1392)南朝の後亀山天皇と北朝の後小松天皇による媾和が成立した。
御座所の障壁画は、狩野山楽の墨絵で、「四季花鳥の図」「野兎の図」は、江戸中期元禄時代の渡辺始興の作。
入口の野兎の図。
中は撮影禁止なので現地で。
正宸殿から見た宸殿。
正宸殿を後にして入口から出る。
完成した生け花。
近づいてみる。
大沢池へ向かう。
一応有料。
説明板。
ここはもと嵯峨天皇が弘仁年間(810~824)に造営された離宮「嵯峨院」の苑池の一部で、現在大覚寺境内に属している。
中国の洞庭湖になぞらえて「庭湖」ともいい、作庭当時は泉・滝・名石等の美を極めた池泉舟遊式庭園であった。
今なお池中には、菊ガ島・天神島の二島と、巨勢金岡が配置したとされる庭湖石があり、広々とした大陸的雰囲気を漂わせた現存する我が国最古の庭園の一つである。
池畔には弘法大師が離宮の鎮守として勧請したと伝えられる五社明神のほか、桜樹が多く、花の名所であるとともに、古くより月の名所としても名高く、秋の観月に訪れる人も多い。
この池の北は嵯峨院の建物があった場所で、北約50mの所に嵯峨院滝殿の石組み跡、「名古曽滝」があり、藤原公任も
滝の音は絶えて久しくなりぬれど
なこそ流れてなお聞こえけれ
と詠んでいる。
京都市
庭園図。
大沢池の碑。
茶室望雲亭。
嵯峨天皇が空海と舟遊びをした際に詠んだ漢詩より名付けられた。
津崎村岡局顕彰碑。
幕末の勤皇家で、西郷隆盛らと交友を持ち、維新を助けたという。
五社明神へ。
五社明神。
脇には放生池。
鴨が泳いでいました。
放生池の東に護摩堂。
石仏、
北に閼伽井戸、
聖天堂(手前)と大日堂(奥)、
心経宝塔。
ここは、心経殿跡地。
「舊心経殿阯」の碑が建つ。
天神島へ。
嵯峨の碑と茶筅塚。
天神社。
嵯峨天皇歌碑。
戻って大沢池の北を進む。
梅林。
奥に竹林。
池のほとりに紀友則詠碑。
庭湖石。
菊ヶ島。
説明板。
平成7年に行った発掘調査で、菊島については幾つかの事実が判りました。
この島が、この場所において大きく盛土されたのは、14世紀のことで、その下には13世紀代の遺物を含む池の堆積土が一部潜りこんでいました。
また、池の東側では平安時代の遣水の延長とも考えられる南北溝が見つかりました。
こうしたことから、14世紀代に池の水位が大きく上昇し、菊島も盛り土され、整備されたことが判ります。
なお、菊島の西方、池中から僅かに頭を出す程度の立石が庭湖石です。
池の水位が低かった時代にはどのような姿を見せていたのでしょうか。
大沢池の平安時代の姿の全容解明は、今後の調査を待たねばなりませんが、どうか皆様それぞれの古の大沢池の姿を心に浮かべ、池を御鑑賞いただければ幸いと考えます。
天神島・菊ヶ島・庭湖石の二島一石の配置が華道嵯峨御流の基本型に通じている。
あともう少しです。
(つづく)
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