153 北畠氏館 その2(伊勢国) | 三日月の館

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霧山城から下山して社務所へ。
ここで入園料300円と御朱印をもらう。

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国指定史跡北畠氏館跡庭園へ。

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説明板。

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【北畠氏館跡庭園】

国指定名勝・北畠氏館跡庭園は、当代庭園中屈指の作として全国的に高い評価を受けています。
近年各地の発掘調査により、同時代の庭が見つかってきましたが、この庭園は埋もれずに残っていたものとして、とても貴重なものといえます。
「米字池」と呼ばれる池泉は複雑な形をなし、屈曲する護岸石組みは豪快で力強く、東側には高さ約2mの須弥山石を中心にした立石枯山水が組まれています。
築山には樹齢400年以上の巨樹が聳え、しっかりと大自然と調和しつつ、しかも質実剛健、武将好みの男性的な庭園です。
発掘調査の結果、池は16世紀代に造られたことが分りました。
これは、7代国司北畠晴具の時代、享禄元年(1518)頃管領細川高国の作庭という説に合致しています。

津市教育委員会

 

紅葉の庭園。
ちょっと遅かったかな。

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築山。

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須弥山石。

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築山の方から見る。

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中央の米字池。

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豪快な護岸の石組み。

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京都の庭園とは趣が違う。

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池の奥の方。

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小さな滝もある。

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境内にあった写真と同じ角度で最後に一枚。

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細川高国が大物崩れの戦いに敗れ自害するとき、北畠晴具へ送ったとされる辞世の句。

 

 「絵にうつし石をつくりし海山を 後の世までも目かれずや見む」

 

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この句が当庭園の作庭者が細川高国と云われる由縁とのこと。
最後に御朱印。

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北畠神社を後にする。

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さて、周辺にも見所があります。

その中でも目を引くのが東御所跡。
詰の城から見下ろす。

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案内板の矢印に従って行ってみる。

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北西隅。

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石垣が見られた。

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西側の堀跡。

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北側の堀跡。

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北側の堀跡を北東隅から見る。

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東側の堀跡。

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北畠氏一族の居館だった東御所(六田館)跡は畑地になっている。

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東御所跡の南東隅に鎮座する雪姫大明神へ。

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説明板。

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【雪姫の伝説】

南朝の元勲、国司北畠顕能卿以来、240年間伊勢国司として、この地に館を構え、伊勢国に君臨した名族北畠氏も遂に戦国時代にいたり動乱の荒波にのまれ、その幕を閉じた。
八代国司具教卿は、阿坂城(白米城)大河内城で織田信長の大軍を迎え撃ったが雌雄決せず、永禄12年、わが娘、雪姫の婿養子として、信長の子、茶せん丸(後の信雄)を迎え入れ戦はおさまった。
しかし、平和も束の間、この婚儀が謀略であったことに気付いた時は、すでに遅く、天正4年11月、具教卿は三瀬谷の館で暗殺され、霧山城をはじめ、各支城が落城した。
雪姫の運命はどうなったのか、残念ながら歴史資料には殆ど登場することはないが、古くからこの土地の人々に語り継がれてきた伝説がある。
自害しようとしたが果たせず、東御所と呼ばれたこの館の桜の木に縛られていたところ、どこからか現れた白い狐に救い出された。
それから何処ともなく逃げられ、生涯を全うされたという。
そして、四百年の間、幹が枯れても根は枯れず、新しい芽が出て育つこの桜の木を雪姫桜と呼んでいる。
家のため、人々の平和のためとはいいながら、幼くして敵の子の妻となり非運の生涯を送ったお姫様に同情する里の人々に語り継がれ、その御霊安かれと、この雪姫大明神と稲荷大明神がお祭りされてきた。
平成4年2月、三越劇場において、女優磯村みどりさんが、この雪姫を演じられ好評を博した。
これを記念して、有志により神域の整備を行った。

平成4年4月吉日
多気地域住民センター

 

雪姫大明神と雪姫桜。

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東御所跡から見た霧山城。

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嘉吉元年(1441)嘉吉の乱において、播磨守護赤松満祐の子赤松教康は、満祐の命を受けて赤松氏存続のために17人の供回りと落城寸前の城山城(兵庫県たつの市)の西南から脱出。
妻の父にあたる伊勢の大河内(北畠)顕雅を頼ってこの地に逃れてきた。
しかし、室町幕府への発覚を恐れた大河内顕雅によって赤松教康は自害に追い込まれたと云う。
近くに赤松教康の墓と伝わる赤松塚がある。