場所 三重県津市美杉町丹生俣宮垣内
赤松教康の墓と云う |
北畠氏館の南方約3kmの所にあります。
9月10日、赤松満祐の子、赤松教康は満祐の命を受けて赤松氏存続 のために17人の供回りと落城寸前の城山城(兵庫県たつの市)の西南から脱出。
室津から船で妻の父にあたる伊勢の大河内(北畠)顕雅のもとへ向かう。
大河内顕雅は3日ほど多気城中に泊めた後、発覚を恐れて奥の方若木谷の馬場城に匿う。
9月28日、大河内顕雅は赤松教康を自害に追いこむ(享年19歳)。
公共機関で行く人は、JR名松線伊勢竹原駅から美杉コミュニティバスに乗り換えて「中俣」下車。
バスは一日に約3本とさらに運行本数が少なく、事前に確認が必要です。
車で来た人は、長楽寺跡(薬師堂)前にちょっとしたスペースがあるので、停めさせてもらいます。
長楽寺跡。
この付近に赤松教康の潜伏先があったと云う。
薬師堂。
赤松教康はこの地で自害したとも。
毎年8月16日に獅子舞が奉納される。
1~1.5車線の細い国道422号線を戻ると「赤松塚→」の標識がある。
登って行く。
少し登った所に赤松塚の参道がある。
見落とさないように。
建物の先を右折。
木立の中に、
赤松塚があります。
大きな五輪塔が赤松教康の墓。
その周りに8基の家臣の墓がある。
赤松塚付近から見た丹生俣の山々。
赤松満祐の命を受けて赤松家再興を図った赤松教康の望みはここで断たれてしまった。