大物崩れ(兵庫県尼崎市) | 三日月の館

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場所 兵庫県尼崎市大物町1丁目

 

赤松政祐 父の仇を討つ


管領細川高国滅亡の地です。

 

享禄4年(1531)6月2日に細川高国・浦上村宗の援軍として神呪寺に着陣した播磨守護赤松政祐は、ひそかに敵方細川晴元と通じ、4日中嶋(大阪市)に陣を敷く高国・村宗軍を背後から攻撃。
正面(天王寺方面)から三好軍に攻撃された細川高国・浦上村宗連合軍は、突然の挟撃に総崩れとなり壊滅。
浦上村宗は討死し、野里川は溺死者で埋まったと云う。

 

野里川は阪神電鉄本線姫島駅付近を流れていた。
駅から少し北東方向へ進むと国道2号線野里交差点があります。

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野里交差点から北へ延びる野里本町商店街。
この付近に野里川が流れていた。

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商店街の先に鎮座する野里住吉神社。

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神社は野里川の西岸に位置し、ここに野里の渡しがあったと云う。

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【野里の渡し】

明治22年(1889)からの改修工事によって、淀川の流路は大きく変わりました。
それまで野里住吉神社の東側は淀川に面していました。
現在境内に残る土手は、当時の堤防のなごりです。
野里の渡しは、大阪と尼崎を結ぶ大和田街道に設けられた渡しで、野里住吉神社のやや北側にありました。
明治9年(1876)に木製の橋が架けられるまでは、大阪と中国地方を結ぶ交通の要所として賑っていました。
一説には、室町時代に野里村が開発された時に、代官の堀江彦佐衛門によってつくられたといわれています。
また、江戸時代の地誌である『摂津誌』・『摂津名所図会』には、『日本書記』に見える「かしわの渡し」が、野里の渡しであると記されています。

大阪市教育委員会

 

地図を拡大。

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神社の東側に野里川が流れ、土手は堤防のなごりと云う。

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境内奥にある乙女塚。
細川常植とは高国のことだろうか?

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【野里住吉神社 一夜官女の祭(乙女塚)の由来】

永徳2年(1382)足利三代将軍義満の創建と伝えられている野里住吉神社の境内の片隅にある「瀧の池」の跡地に乙女塚が建てられている。
それには悲しい物語が伝えられている。
中津川に面した昔の野里は、打ち続く風水害と悪疫の流行によって悲惨な明け暮れで近隣の村人たちは野里のことを「泣き村」とも呼んでいた。
この村を救う為には、毎年定まった日に一人の子女を神に捧げよとの託宣があり、村を救う一念から村人の総意でこれを實行していた。
人身御供の子女は毎年1月20日丑三ツ時に唐櫃に入れられて神社に運ばれ放置された。
丁度7年目の行事を準備している時、一人の武士が立倚り、村人からことの詳細を聞き「神は人を救うもので人間を犠牲にすることは神の思召しではない」と乙女の身がわりに唐櫃に自ら入って神社に運ばれた。
翌朝、そこには武士の姿はなく、大きな「猅々」(ひひ)が深手を負い絶命していた。
この武士こそ当時、武者修行中の岩見重太郎(薄田兼相と同一人物?)であると伝えられている。
村ではこの後安寧の日々を送るようになった。
これを後世に永く伝へるため、同じ形式で同じ1月20日に村の災厄除けの祭りをして他に例のない奇祭が行われ今日に至ったものである。
明治40年より2月20日に改められた。
この一夜官女の祭は昭和47年3月31日付で大阪府文化財保護委員会より重要民俗資料として指定されている。
この地は古戦場としても有名であり享禄4年6月4日、細川常植と細川晴元が中津川で戦った時、常植方の本陣が当村であったという。
現在の野里本道が旧中津川の右岸に当り摂津の大物崩という戦がこれである。

 

中嶋の戦いで三好軍と赤松軍の挟撃にあった浦上勢は野里川まで追撃され5千人とも1万人ともいわれる溺死者を出したと云う。
その中で浦上村宗配下の島村弾正貴則(備前高取山城主で、のちに宇喜多能家・直家父子と抗争した島村盛実の父)は奮戦し、最期には敵兵二人を両脇にかかえ海中に身を投じた。
その怨念が残って、以来この川には武者の怒ったような顔の甲羅をした蟹が見られるようになり、人々はこの蟹を『島村蟹』と呼ぶようになったという。

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一方、細川高国は大物城へ逃げ込もうと尼崎へやって来たが、既に赤松方の手が回っており、追手に見つからないように入道姿で紺屋の甕の中に隠れたと云う。

 

尼崎界隈の歴史が学べる尼信会館へ。

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尼崎城下町の史料が充実。

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尼崎城の模型が見所。

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展示資料の中にあった尼崎城下町図。

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細川高国が目指した大物城は尼崎城の北に位置する小さな城だったらしい。

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行ってみる。
尼崎城跡。

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北にある阪神電鉄尼崎レンガ倉庫。
明治34年(1904)竣工の尼崎火力発電所跡。

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細川高国が目指した大物城は、その東側の阪神電鉄尼崎車庫付近にあった。

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国鉄尼崎港線廃線跡の通りと阪神電鉄の線路を挟んだ東側に、昭和3年(1928)に昭和大典紀念として建てられた「大物くつれの戦跡」の碑が建つ。

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細川高国が捕らわれた「大物崩れ」の場所は諸説あるようですが、一説には大物町内にある紺屋町であったと云う。
目の前まで来て…
と思ったら、調べてみると、現在阪神大物駅の北側西にある交番横に建っているこの碑は、元はもっと南東の大物児童公園内あったと云う。
大物児童公園が何処にあったのか古い地図を探してみたものの見つけられなかったが、尼崎城下町図を見ていたら大物町内の若宮(大物主神社)の南東に紺屋町があったのでここかもしれない。

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紺屋町があった所へ行ってみたが、下町っぽい住宅街で特に何も無かった。

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しかし、図書館の本にはその地に「推定入道髙國潜みの址」の碑が建っている(た?)。
探したのですが見つからなかった。

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そこへ追手の三好山城守康之(三好笑岩康長のことかな? 一説には三好一秀とも)がやって来た。
康之は一計を案じ、近所の子供たちに「高国のかくれているところを教えてくれたら、このまくわ瓜を全部あげよう」と切り出したという。
当時のまくわ瓜は今のメロンと同じ存在だった。

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子供たちはまくわ瓜欲しさに、甕の中に隠れていた細川高国の居場所を教えてしまった。
6月5日に捕らえられた高国は、8日に広徳寺で自害させられた。
広徳寺は現在尼崎市寺町にあるが、

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戦国時代は大物町(今の尼崎大物郵便局付近)にあった。

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この戦いにより、永正の錯乱から始まった細川政元の養子三兄弟の争いは幕を閉じた。
また、赤松政祐は播磨へ逃げ帰ろうとする浦上勢を生瀬口(兵庫県宝塚市)まで追撃しほぼ全滅させ父の恨みを晴らしたという。