登城日 2010年11月28日(日)晴
難易度 ☆
場所 兵庫県県尼崎市北城内・南城内
四重の天守を持つ近世城郭だった城です。
【尼崎城】
近世尼崎城は、元和3年(1617)に尼崎藩主となり五万石を領知した戸田氏鉄が、翌元和4年から大坂城の西の固めとして築城にかかり、数年ののちに完成させた。
藩領は尼崎から須磨にまで及んだ。
四層の天守閣をもつ本丸は三重の堀で守られ、川と海に面した地理的条件を巧みに利用し、海陸両面の備えとして設計された。
城地は300m四方で、築城時にはまだ築地町がなく、直接海に面していた。
戸田氏の築城以後、城主は青山氏、松平氏と変わり、その間何度も改造と増築が行われているが、とりわけ青山氏時代には、櫓を増したり石垣を築き直すなど、大きな改造工事が行われた。
城下町が完成したのも青山氏の時代であった。
海上からも街道からもながめられ「琴浦城」「尼丘城」と呼ばれた城も、明治6年(1873)の廃城令によって取りこわされた。
大正末には一部残っていた内堀も完全に埋立られてしまった。
(現地説明板より)
最寄駅は阪神尼崎駅です。
かつての様子。
今は跡かたも無い尼崎城ですが、今昔図をもとに散策開始。
南口を出て東へ。
庄下川にかかる庄下橋を渡る。
庄下橋から見た庄下川。
尼崎城の西端を流れていて、外堀の役目をしていた。
橋を渡った先から東へ延びる道。
北側外堀のラインと一致する。
阪神電気鉄道旧尼崎発電所(現阪神電鉄資材部西倉庫)。
外堀跡に建つ「ローレルタワー尼崎マンションプラザ」
城内に建つのかと心配しましたが、阪神尼崎駅前に建つと知って一安心。
このマンションプラザの南側に段差が尼崎城の三の丸の北端と思われる。
三の丸の北側は「尼崎城址公園」となっています。
堀跡と城壁が一部復元されている。
石垣の石らしきものと模擬城壁。
模擬城壁。
城跡の雰囲気を漂わせる。
模擬城壁は北東へ続いています。
この城壁は正確とは言えないが、あながち間違いでもなさそうだ。
模擬城壁の東端。
この先も尼崎城址公園を作る予定だったらしいが、用地買収が上手く行っていないそうです。
フェンスの向こうは草茫々。
反対側にまわって見てみると、段差がありました。
この段差は三の丸北端石垣跡かな。
尼崎城史蹟、櫻井神社へ向かう。
模擬城壁の南側の市立中央図書館は契沖生誕の比定地。
この図書館に兵庫県内の史料が結構揃っていたりする。
説明板。
寛永17年(1640)、契沖は、尼崎藩主青山幸成に250石で仕えた下川元全(もとたけ)の三男として、この地に生まれます。
幼少時、父母から『実語経』や『百人一首』などを学び、11歳で大阪今里の妙法寺に入り、真言宗の僧となりますが、それらは契沖の生き方の基盤となります。
24才で阿闍梨位を授かりますが、出世を望まず、己の信じる仏道者の道をひたすら歩みます。
そしてよき理解者でスポンサーの水戸光圀の死に殉ずるかのように、その七七日の元禄14年(1701)1月25日、62年のダイナミックな生涯を閉じます。
この間、契沖は、40歳の半ば頃、光圀から依頼の『万葉集』の全注釈書『万葉代匠記』を始め、その後の歴史的仮名遣を発見、体系化した『和字正濫』などを従来にない論理的実証法で著し、”古学の祖”と称えられます。
謹厳な仏道者の古典研究への傾倒は、奇異に映りますが、契沖にとって古典研究は”俗中の真”を追求することで、その志向は通底しているのです。
本来契沖の研究法は、悉曇(サンスクリット語。梵語)の研究法を利したもので、「契沖学」の達成は、その土台の上に、天賦の才はさることながら、刻苦と忍堪を重ねて成し得たものです。
また、契沖には、六千余首を収めた『漫吟集類題』などの歌集があります。
作歌は、契沖の心の塵を払う”玉箒”(たまぼうき)となったからです。契沖は、歌は”果無(はかな)きことを詠む”と人間の自然の感情を詠むといいます。
だからこそ「玉箒」が必要なのです。
真実は、自由で、清澄な心の眼でしか見えないからです。
私たちは、真実を求めて、新しい時代への道を切り開いた日本の知的財産契沖を敬愛し、その業績を顕彰してきましたが、創立十周年を迎え、地域の誇りの象徴として永く広く人々の心に記憶されることを期し、この碑を建立しました。
平成17年10月17日
契沖研究会
図書館の西側付近に不明門があった。
図書館の南に櫻井神社が鎮座しています。
東 「尼崎市城内史蹟 櫻井神社」
北 「尼崎市発祥之地 尼崎城址」
西 「旧西三ノ丸」
開明橋から南を見る。
三の丸西側外堀にあたる。
櫻井神社由緒書
◇御祭神
初代櫻井信定公より16代忠興公までの歴代城主
◇例祭日
9月27日
当神社は、明治15年(1883)、尼崎城内に建立されました。
当社御祭神櫻井家の祖、初代信定公は、その勢力安定に尽力されました。
戦国の世のならいで、七代目忠頼公が若死されましたが、八代目忠重公の血のにじむような努力と、徳川家康公のはからいでお家再興がかないました。
十代目忠喬公の御代、遠州掛川より尼崎城に移ってこられました。
即ち、尼崎初代の殿様です。
代々の城主は、文学、芸能にすぐれ中でも尼崎三代目城主忠告公は亀文と号して、多くの句を読まれ、その内の一句は、境内の石柱に刻まれております。
「まづ霞む 竈々や民の春」
亀文最期の城主忠興公は、西南戦争(1877)において敵味方の区別なく、戦傷者を看護され、博愛の精神を大いに発揮されました。
これが世界赤十字社に認められ、日本赤十字社の誕生を見るに至りました。
又、学問向上にも全力を傾注され、明治6年、尼崎最初の学校を建立されました。
(元開明小学校)
この精神は市民にも引き継がれ、明治23年、櫻井神社境内に尼崎最初の幼稚園が誕生しました。
(現、博愛幼稚園)
この時、子供たちの無事成長を願って建てられたのが、神社境内に現存する博愛地蔵です。
日本赤十字社の前身「博愛社」誕生の地と云う。
境内。
本堂前に尼崎城天守の棟瓦が現存する。
亀文の書いてある石柱。
外堀に架っていた橋の石杭と云う。
社務所前の手水鉢。
この石は尼崎城外堀橋の礎石と云う。
この櫻井神社の社務所で尼崎城の古写真を見せてもらいました。
今昔図は運が良ければ貰えます。
是非とも立ち寄ると良いでしょう。
櫻井神社を後にします。
三の丸を南へ。
この辺りは三の丸の東端。
畑は二の丸との間にあった内堀跡。
三の丸の南、今の国道43号線庄下川橋付近に西大手門があった。
石垣が昭和34年まで残存していたそうです。
阪神高速3号神戸線の高架下付近に元々櫻井神社があった。
国道43号線の側道沿いを歩くと、明城小学校の塀の一角に「尼崎城址碑」が建っています。
(つづく)