野田城(摂津国) | 三日月の館

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登城日 2013年 2月10日(日)晴
難易度 ☆
場所   大阪市福島区玉川4丁目

 

中嶋の戦いの舞台です。

 

【中嶋の戦い】 

明応2年(1493)に将軍足利義材を追放(明応の政変)し、自身が擁立した足利義澄のもとで絶大な権力を誇った管領細川政元であるが、実子がいなかったため、三人の養子(細川澄之、細川澄元、細川高国)を迎えたものの、その後継を巡り養子同士三派での権力争いが発生した(永正の錯乱)。 

約10年に渡る細川家の内紛に一旦勝利し管領となった細川高国であったが、大永7年(1527)澄元の遺児である細川晴元を擁する阿波勢らに京都・桂川で敗れ近江へ敗走し、高国政権は瓦解。 

再び権力を手中に取り戻すべく有力な援軍を探していた。 

一方、大永元年(1521)9月に主君赤松義村を暗殺し名実ともに播磨・備前・美作の支配権を奪って戦国大名の道を歩み始めた浦上村宗であったが、その権力の拠り所はいまだ赤松氏に依存する所が大きく、完全に下克上を果たしたとは言えなかった。 

援軍を必要としていた細川高国と、高国の力を借りて赤松氏の影響力を廃した支配体制を築きたい浦上村宗の思惑が一致。 

細川・浦上連合軍は畿内各地での戦いに勝利し享禄4年(1531)京都を奪還。 

最後に細川晴元を倒すべく、敵対勢力の中枢である堺公方府への遠征した。 

しかし、阿波から細川晴元への援軍が到着すると状況が一変。 

細川・浦上連合軍は一旦天王寺へ引き揚げ、細川軍は中嶋の浦江(現在の大阪市北区、大淀周辺と思われる)、浦上軍は野田城・福島城に陣をひいた。 

その後一進一退の戦いが続き、戦線は膠着。 

細川・浦上連合軍は播磨守護赤松政祐(義村の子・晴政)に援軍を要請。 

赤松政祐は神呪寺(兵庫県西宮市)に着陣する。

 

中嶋の戦いの際、浦上村宗が陣を置いた野田城はJR野田駅前にあったらしい。

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明治時代の地図を見ると、この辺りの小字は「城之内」。

駅前に建つマンションの前。

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城址碑が建っています。

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側面。

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【野田城】

戦国時代、畿内一円に勢威をふるった三好一党がこの地に砦を築いたが、後に改築され、石山本願寺、ついで織田信長方の重要拠点となった。
字「城之内」と呼ばれたこの辺りがその中心地である。

 

浦上村宗が陣をひいた時は簡素な砦だったらしい。
この説明は、その約40年後の元亀元年(1570)年に三好三人衆が増築した後の説明だった。
明治時代には田舎だった野田村もビルが林立し、付近を見渡しても城跡らしきものは何も無い。

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しかし、一歩街中に入ると古い建物が残っていたりする。

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街中にある城郭のような太鼓櫓がある極楽寺。

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極楽寺の山門前にも城址碑が建っています。

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側面と裏面。

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【野田城跡】

大坂城がまだ本願寺であった室町時代に野田城〔北は玉川4丁目交差点(旧名城之内)より東は恵比須神社の東側(旧名弓の町)迄が城域でその中心地が当地(旧名奥の町)〕を訪れた本願寺第10世証如上人が六角定頼に包囲されたときに、蓮如上人の強化を受けていた野田福島の念仏者が証如上人を守護せんとして、21人が殉教された(天文2年8月9日)。
これらの討死衆の菩提寺として建立されたのが当寺極楽寺でその後、本願寺南御堂の掛所となり、野田御坊と名付けられ今日に至っている。

 

山科本願寺が天文元年8月24日(1532年9月23日)、六角定頼と法華宗徒により焼き討ちされた(天文法華の乱)後、証如は石山本願寺へ拠点を移す。
翌年(中嶋の戦いの2年後)、この地を通りかかった証如はまたもや六角定頼に不意打ちを食らい門徒に守られ辛くも難を逃れたと云う。
山門が閉まっていたので境内の様子は解からなかったが、境内に「21人討死之墓」があり、毎年3月8・9日
に法要が営まれているようだ。

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極楽寺の北に位置する圓満寺。

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説明板。
この寺も極楽寺同様討死した21人の菩提を弔うために建立された。

こちらも山門が閉まっていたので境内の様子は解からなかったが、境内に「21人討死之墓」があるそうです。

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さらに北へ行き、玉川コミュイティーセンターの東側に、

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「二十一人討死之碑」が建っています。

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裏面の説明は一部剥がれていて読めなかった。

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極楽寺へ戻って東へ。

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野田恵美須神社。

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境内の様子。

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由緒書。

入って東側に手水舎。

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奥に何かの碑。
野田捨???

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社殿。
元亀元年(1570)年に三好三人衆が野田城を増築した後に、当神社は守護神として信仰の対象とされ、三好山城守康長(入道笑岩)が社殿を造営したと云う。

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ここが野田城の東端だったとも。

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旧町名は弓場。

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野田城は三好三人衆によって本格的な城として増築された後、天正4年(1576)、織田信長の猛攻により落城。
石山本願寺攻撃の重要陣地となったようであるが、その後しばらく史料から消え、大坂夏の陣で再び砦として利用されたものの、その後廃城になった。
今では碑がある以外には解からない野田城でした。

 

(おまけ)

 

平安時代以前、この辺りは今とは地形が大きく異なり、「難波八十島」という島が点在していたと云う。
福島・堂島・都島・姫島など地名に名残りが残っています。
また、中世から近世にかけての野田は、吉野の桜、高尾の紅葉と並び称される程の藤の名所だった。

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玉川2丁目に鎮座する春日神社。

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野田藤は度々の戦乱に巻き込まれ、また公害などでほとんど無くなってしまった。

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足利義詮の和歌。

 

 むらさきの雲とやいはむ藤の花 野にも山にもはいぞかかれる

 

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少しづつ復元されているという。

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野田城の近くに福島城も一緒に築かれたという。

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こちらはどこにあったか不明。