山科本願寺 その1(山城国) | 三日月の館

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登城日 2010年 3月27日(土)曇
難易度 ☆
場所   京都市山科区西野山階町付近

 

以前ご紹介した「大津線沿線 戦国時代城跡めぐり」
あと行っていないのが、山科本願寺と壺笠山城。

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山科本願寺へ行ってきました。
山科本願寺跡へは、地下鉄東西線東野駅が最寄駅です。

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まずは、説明板が充実している「山科本願寺土塁跡南西角」を目指します。

 

ここは、本丸に相当する御本寺南西隅に位置します。
近年まで土塁と堀が残存していたようですが、整地されてしまったようです。
現在は、碑と説明板が建っています。

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【山科本願寺・寺内町と土塁跡】

文明十年(1478)に本願寺八世蓮如上人が山科に本願寺を再建した。
寺域は図1のように南北1km、東西0.8kmにおよび、堂舎が建ち並ぶ「御本寺」、一家衆や僧侶、寺に関わる職人や商人が生活する「内寺内」と「外寺内」の三つの郭から構成され、周囲は防御施設として土塁や堀をめぐらせる環濠城塞都市でもあった。
その繁栄ぶりは「さながら仏国のごとし」と記されるように、全国から訪れる大勢の門徒で賑わっていたという。
しかし天文元年(1532)、細川晴元が率いる法華宗徒、近江守護大名六角氏の連合軍の攻撃を受け、造営からわずか52年で焼け落ちてしまった。
現在は山科中央公園など数ヵ所に土塁や堀の一部が残っているにすぎない(図1)。
当地点は、山科本願寺の南西部に位置する。
1997・98年、ここに残っていた土塁と堀を含む周辺の発掘調査を実施した結果、建物跡や井戸跡のほか、2ヶ所で土塁の下を通って外へ排水する暗渠が検出され、土塁の構造や堀の規模なども明らかになった。
検出した2棟の建物は、それぞれ備前焼の大甕を埋めた甕倉と、炉をともなう鍛冶場でこれらの建物の性格から寺域内で、貯蔵や生産も行っていたことが分った。
また建物は焼土や炭で埋まり、強い火を受けた痕跡のある土器や瓦などが多く出土した。
これらの資料は天文元年の山科本願寺焼き討ちの様子を生々しく物語っている。
土塁と堀は、場所によって規模も異なっていたようである。
調査で堀の規模が幅約10m、深さ約4mと巨大な部分があったことを確認した(図2)。
一方、土塁の規模は高さ5~6m、基底部の幅約15mで斜面はかなりの傾斜があり、堀とともに防御施設としての役割を十分果たしていたことがうかがわれる。
山科本願寺は御本寺内の堂舎の位置や規模、寺内町の様子などまだまだ不明な点が多い。
今回は広大な寺院跡南西部の一画の発掘調査であったが、多くの貴重な遺構を発見でき、山科本願寺・寺内町の構成を知るうえで重要な成果をえることができた。

1999年6月

 

(図1)復元図

https://livedoor.blogimg.jp/kanezane2/imgs/3/0/303cba1a.jpg

(図2)発掘調査検出遺構図

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空から見た山科本願寺。

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御本寺の南西隅のようす。

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鍛冶場跡と井戸跡。

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石碑をズームアップ。

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さて、さらに北へ行ってみる。
新幹線の高架を潜ると、国道1号線と交差します。
ちょっと東へ行ったところにあるエッソのガソリンスタンド。

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この辺りが御本寺(本丸)の中心。
「この付近 山科本願寺跡」の碑が建っています。

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山科本願寺の中心を、国道1号線と新幹線が横断しています。

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よって、新幹線からも見えます。

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御本寺の西側土塁は、所々残っています。

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行ってみる。

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別角度から見る。

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北西隅の土塁は一番良く残っています。

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北西隅から見る。

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北から見る。

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東から見る。

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ちょっと道をそれて、御本寺の西側の曲輪内にある西宗寺。

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山科本願寺を築城した「蓮如上人御往生之地」という。

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説明板。
蓮如に山科本願寺の土地を寄進した海老名五郎左衛門が創建したと伝えられる浄土真宗本願寺派の寺だそうです。

https://livedoor.blogimg.jp/kanezane2/imgs/9/2/92bbc89a.jpg

本堂。

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蓮如上人放鶯の像。

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本堂脇に「往生舊地 西宗寺」の碑が建っていました。

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今度は、土塁と堀が良く残る山科中央公園を目指します。
つづく