小楠公義戦の跡(大阪市中央区) | 三日月の館

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場所 大阪市中央区北浜東

 

明治維新で尊王思想の模範とされた楠木正行(小楠公)伝説の地です。

 

平成20年(2008)3月29日に開港した八軒家浜船着場
京阪天満橋駅の北側に位置する。

船着場の前に小楠公義戦之碑が建っています。

説明板。

大阪は今と昔と地勢が全く変って居り、昔はこの大川の幅も広く、橋が唯一つ架ってありました。
其の位置は判然としてはいませぬが、今の天満と天神の二つの橋の中程だろうと言われています。
これを渡辺橋又は大江橋といいました。
この渡辺橋は楠公父子の戦蹟であります。
大楠公は元弘2年に北条方の兵をここで敗られました。
小楠公は後村上天皇の正平2年瓜生野の戦に足利の将山名時氏・細川顕氏を破り、逃げる敵をこの川辺に追いつめられ、敵は我先きと橋を争い川に落ちて流されるもの500人を超えました。
公は部下に命じて之を救わせ、其上11月26日の寒天に凍えふるえて居るのを衣食を与え、薬を給して京へ帰されました。
公は翌年正月5日に四条畷で戦死せられましたが、この時の恩に感じて帰順した兵どもも皆討死をしたのでありました。
公は忠孝をふたつながら(双方とも)全うし、しかもかく勇気と仁愛とを備えられたこれこそ日本精神の化身というべきであります。
我等は天や地や山や川はいつまでも変らぬものと思って居ますが、この天地山川も昔のままではなく、当時の橋も岸も皆変って居り、その功を立てた小楠公を再び見ることはできませぬ。
ただ公の敵をも愛しまれたこのゆかしい心のみは、いつまでも我が士道の華として我等の心をうごかし、更に欧米の人をも感じさせて、ために我国が赤十字社に加盟することを容易ならしめたのであります。
今や皇紀2600年にあい、窮りなき皇運を仰ぎ、またこの碑に向い公の此心を念う(おもう)時、我等も又正しく大きい心を修めてこの精華を培うことを勉めようではありませぬか。                                                           
藤澤章誌す

 

説明文によると、天満橋駅の北を流れる大川(旧淀川)の川幅は今よりも広く、この辺りに唯一渡れる橋が架かっていた。
正平2年(1347)11月に楠木正成の嫡男である正行は、足利幕府方の山名時氏・細川顕氏連合軍を摂津国天王寺・住吉浜にて打ち破った。
逃げまどいこの場所に追い詰められた敵兵は橋を渡ろうとして500名以上の兵が川に落ちてしまった。
追い詰めた楠木正行は部下に命じ川に落ちた敵兵を助け出し、寒さに震えるいたので衣食と薬を与え、京へ帰したと云う。
翌年、楠木正行が四条畷の戦いで戦死した際に、助けられた敵兵は恩に感じて討死してしまった。

跡地の建つ碑の脇には楠も植えられています。
いずれ大木に育つのかな。
そうなれば見落とすことは無くなるだろう。

父である楠木正成は偉大な人物として知られていますが、子の楠木正行も立派な方ですね。
同世代を生きた敵方の将軍足利義詮が敬慕するのも解かります。
今は駅裏にひっそりとある小楠公義戦の跡でした。