所在地 京都市上京区今出川通七本松上ル溝前町1034
山号 瑞応山
宗派 真言宗智山派
本尊 釈迦如来
創建 安貞元年(1227)
開基 義空
正式名称を大報恩寺といい、おかめ物語や大根焚きで知られる寺です。
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/8f/e9/j/o0400030014659902785.jpg?caw=800)
【大報恩寺(千本釈迦堂)】
瑞応山と号する真言宗智山派の寺院で、千本釈迦堂の名で知られている。
承久3年(1221)藤原秀衡の孫、義空上人が、猫間中納言光隆の家卒、岸高より寄進を受けたこの地に、小堂を建て一仏十弟子像を安置したのが当寺の起りといわれている。
当初、倶舎、天台、真言の三宗の霊場として、堂塔迦藍も整い、壮麗を極めたが、応仁の乱をはじめ、度々の災火のため堂宇を消失してしまった。
現在唯一残る本堂(釈迦堂)は、本市に現存する最古の仏堂遺構で、国宝に指定されている。
堂内には、行快作の本尊釈迦如来坐像を安置、また霊宝殿内には快慶作の十大弟子像をはじめ、六観音菩薩像、千手観音立像、銅像釈迦誕生仏立像など数多くの文化財を所蔵している。
また、毎年、2月にはお亀福節分会、7月には陶器供養、8月には六道まいり、12月には大根焚きなど多彩な行事が営まれ、多くの人々で賑わう。
京都市
境内南側参道入り口。
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/d6/f8/j/o0400030014659902799.jpg?caw=800)
山門。
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/96/30/j/o0400030014659902807.jpg?caw=800)
山門を入って左側に稲荷社。
茶吉尼天尊、天上多田稲荷大明神を祀る。
建長2年(1250)に2世・如輪上人により、賀茂、春日、石清水、日吉、今宮の五社とともに勧請した。
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/ad/ba/j/o0400030014659902816.jpg?caw=800)
稲荷社の北側に北野経王堂願成就寺がある。
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/11/44/j/o0400030014659902823.jpg?caw=800)
説明板。
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/dd/6c/j/o0300040014659902827.jpg?caw=800)
このお堂は、足利三代将軍義満が、明徳2年(1391)11ヶ国の大領主陸奥大守山名氏清が将軍家に叛いて兵をあげたが(明徳の乱)、逆に義満により内野の原に於て討滅せしめられた。
将軍義満は、その翌年、叛いたとは言えかつての功労武勲を思い、氏清とその一族、あるいは戦いに倒れた敵、味方兵士の追福のため、壱千百人の僧侶を集めて供養せしめ、引続き応永8年に北野社の社頭に、東山三十三間堂の倍半という大堂を建立し、「北野経王堂願成就寺」と名ずけ毎年10月、10日間に亘って万部経会並経典書写などの仏事を行い供養した。
この行事は「北野経会」と呼ばれ、京洛の最大行事となり、代々の幕府によって踏襲された。
なお、応永期には大部の経典「北野社一切経五千五百余巻」(重要文化財)を書写奉納せしめた。
観世謡曲「輪蔵」はこの一切経の「輪蔵」を謡ったものである。
この大堂も江戸期に入り荒廃甚だしく、遂に寛文11年に解体縮小されて小堂となり、仏像並、一切経五千余巻、義満筆「経王堂額」什宝遺物の一部が本寺である当山に移され現在霊宝殿(収蔵庫)に保存されている。(重要文化財)
又解体された遺構の木材は当山に運ばれ復元、縮小されたのがこのお堂である。
堂の右前に、山名氏清の碑が建てられている。
山名氏清の碑。
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/17/28/j/o0400030014659902833.jpg?caw=800)
側面の説明書き。
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今度は山門の右側。
不動明王堂。
山名氏清、山名宗全の念持仏という不動明王尊を祀る。
![イメージ 8](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/4d/9f/j/o0400030014659902844.jpg?caw=800)
おかめ塚。
![イメージ 9](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/0f/ed/j/o0400030014659902848.jpg?caw=800)
説明板。
![イメージ 10](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/db/de/j/o0400030014659902854.jpg?caw=800)
鎌倉時代の初め西洞院一條上るの辺りで長井飛騨守髙次という洛中洛外に名の聞こえた棟梁とその妻阿亀が住んでいました。
そのころ、義空上人(藤原秀衡の孫)が千本釈迦堂の本堂を建立することになり、髙次が総棟梁に選ばれ造営工事は着々と進んでいきましたが、髙次ほどの名人も”千慮の一失”というべきか信徒寄進の四天柱の一本をあやまって短く切り落としてしまったのです。
心憂の毎日を過ごしている夫の姿を見た妻の阿亀は古い記録を思い出し、「いっそ斗栱をほどこせば」というひと言。
この着想が結果として成功をおさめ見事な大堂の骨組みが出来上がったのです。
安貞元年12月26日、厳粛な上棟式が行われたが、此の日を待たづしておかめは自ら自刃して果てたのです。
女の提言により棟梁としての大任を果たし得たという事が世間にもれきこえては…
「この身はいっそ夫の名声に捧げましょう」と決意したのです。
髙次は上棟の日、亡き妻の面を御幣につけて飾り、冥福と大堂の無事完成を祈ったといわれ、また、この阿亀の話を傅え聞いた人々は貞淑で才智にたけた阿亀の最期に同情の涙を流して菩提を弔うため境内に宝筐院塔を建立し、だれ言うとなくこれを「おかめ塚」と呼ぶようになったのです。
現在、京都を中心として使用されているおかめの面の上棟御幣は阿亀の徳により、 ”家宅の火災除け”家内安全と繁栄を祈って始められたものです。
また、おかめの徳は、”災いを転じて福となす”というところから、建築成就工事安全、女一代厄難消滅、商人の商売繁栄などの招福信仰として全国を風靡するところとなっています。
なお、昭和54年の春、有志により阿亀の大像が造立され福徳の像として祀られ ”おかめ信仰”の輪が一層広がっております。
瑞應山千本釋迦堂大報恩寺
おかめ塚の横の布袋尊。
微笑んでおられます。
![イメージ 11](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/94/ec/j/o0400030014659902861.jpg?caw=800)
さて、境内正面へ。
![イメージ 12](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/01/bc/j/o0400030014659902866.jpg?caw=800)
阿亀桜。
![イメージ 13](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/bc/68/j/o0400030014659902874.jpg?caw=800)
枝垂桜の巨木。
![イメージ 14](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/01/50/j/o0300040014659902880.jpg?caw=800)
花びらは小さい。
![イメージ 15](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/01/09/j/o0400030014659902889.jpg?caw=800)
ちょっと盛りを過ぎたのが残念。
![イメージ 16](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/a5/99/j/o0400030014659902894.jpg?caw=800)
そして、本堂。
本堂は、応仁文明の乱にも焼けることはなく創建当時のもので洛中最古の建造物。
国宝に指定されている。
![イメージ 17](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/89/3a/j/o0400030014659902900.jpg?caw=800)
本堂を斜めから見る。
![イメージ 18](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/4e/ec/j/o0400030014659902909.jpg?caw=800)
行ってみる。
ここから有料。
霊宝館。
快慶作の十大弟子像や六観音菩薩像、千手観音立像、銅像釈迦誕生仏立像など重要文化財が数多く納められている。
![イメージ 19](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/a0/94/j/o0400030014659902914.jpg?caw=800)
本堂の刀槍のきずあと。
応仁の乱の時の傷跡と云う。
![イメージ 20](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/c9/a4/j/o0300040014659902921.jpg?caw=800)
本堂にはいろいろな阿亀像が飾ってあり、またおかめ物語が絵つきで学べます。
![イメージ 21](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/f1/78/j/o0300040014659902928.jpg?caw=800)
本堂から境内を見る。
![イメージ 22](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/62/66/j/o0400030014659902936.jpg?caw=800)
本堂を出る。
![イメージ 23](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/3d/6f/j/o0400030014659902941.jpg?caw=800)
ぼけ封じ観音像。
![イメージ 24](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/64/88/j/o0400030014659902945.jpg?caw=800)
ここは、ぼけ封じ十楽観音霊場めぐりの一つだそうです。
![イメージ 25](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/44/30/j/o0400030014659902952.jpg?caw=800)
西門。
南側の山門が閉まってしまった時は、こちらから入れるそうです。
![イメージ 26](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/0a/d4/j/o0400030014659902955.jpg?caw=800)
西門への参道。
![イメージ 27](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/34/7e/j/o0400030014659902960.jpg?caw=800)
境内を出る。
山門前の桜。
![イメージ 28](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/b1/37/j/o0400030014659902967.jpg?caw=800)
おしまい。
![イメージ 29](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/6b/09/j/o0400030014659902970.jpg?caw=800)
最後に御朱印。
![イメージ 30](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/f7/f8/j/o0281040014659902980.jpg?caw=800)
12月に行われる大根焚きは、ここで振舞われる大根を食べると中風など諸病除けになるとされているそうです。
12月にまた来てみたいものです。
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