新選組不動村屯所跡(京都市下京区) | 三日月の館

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場所 京都市下京区西洞院通塩小路下ル南不動堂町

 

新選組が伏見奉行所へ屯所を移す前、最後に暮した洛中屋敷「不動堂村屯所」があったところです。

 

JR京都駅近くのハトヤ瑞鳳閣。
ここは、かつて不動堂村といわれた所だった。

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ここに、江戸時代末期に新選組が屯所を置いた。
新選組最盛期の屯所だったが、僅か半年で伏見へ移転したため、幻の屯所と云われる。
ハトヤ瑞鳳閣の北東隅に「此付近 新選組最後の洛中屋敷跡」の石碑が建っています。

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石碑と碑文は平成21年(2009)10月に建てられた。

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当地は古代の表記でいえば平安京左京八条二坊十五町にあたります。
中世には八条院町とよばれ、鋳物生産が多数行われた、いわば工業地帯でした。
が、戦国時代には農村化し、江戸時代までに葛野郡不動堂村が成立しました。
しかし豊臣期に構築された、京都全域を囲い込む城壁・環濠「御土居堀」の郭内に位置していたため、「洛中」(都市)扱いを受けました。
幕末期、新選組がこの地域に屋敷を営みました。
池田屋事件や禁門の変などでの活躍や、局長・近藤勇の政治的力量が高く評価され、慶応3年(1867)6月、将軍徳川慶喜の直属の軍隊となりました。
これにあわせての新屋敷建設です。
いわば最盛期の邸宅といえます。
近藤勇の甥で隊士だった宮川信吉の書翰によれば、同年6月15日に入居しています。
位置については、同書翰に「七条通り下ル」、幹部永倉新八の手記に「七条堀川下ル」とあり、当地付近に営まれたことは確実です。
が、厳密な場所や規模、建物構造などについては信用に足る史料が少なく、不明です。
価値の低い記録による復元・叙述は極力さけなければ成りません。
同年12月の王政復古政変により、新選組はわずか半年で同屋敷を離れます。
翌年1月の鳥羽伏見戦争の敗北ののちは、関東へ下り、解体の道を歩みます。
当屋敷は維持されずに早々に消失して、静かな農村に戻ったことでしょう。
が、明治になり、近くに七条停車場(現京都駅)が設置され、しばらくして地域一帯が京都市内に編入されます。
当地付近は地域史上はじめて京都屈指の「人の集まる場」となり、今に至ります。

京都市

 

今では、京都の玄関口として賑わう京都駅付近が農村だったとは想像し難いですね。

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ここは、平安京左京八条二坊十五町に当たります。

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ハトヤ瑞鳳閣では、屯所鍋なる料理が用意されていました。
どんな鍋なんですかね。
壬生菜でも入っているのかな?

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ハトヤ瑞鳳閣から一筋西へ行ったところにある、道祖神社と不動堂明王院。

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村名の由来となった不動堂明王院。

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【霊石不動堂縁起】

本寺の開基は今から凡そ1千余年前の弘仁14年(823)に弘法大師空海が嵯峨天皇の篤い帰依をうけて京都洛南に東寺を賜ったとき、東寺の鬼門(東北)にあるこの地を択んで、法城守護のため一体の不動尊を祀ったのに由来します。
この不動尊像はたまたま大師がこの地に発見した一基の妙霊なる石にみずから彫り刻んだものでした。
大師はこの霊験あらたかなる霊石不動が穢れた凡夫の目に触れるのを憚って、石棺に納め、更にこれを地中の井戸ふかくに安置したのです。
寛平11年(899)宇多天皇の御代に、ふかく仏道に帰依されていた天皇が法皇となられたとき、この地をふくめて京都西洞院に東西に2町(約220m)南北に4町という宏大壮麗なる東七条御所(または亭子院)をいとなまれました。
その亭子院の造営にあたって宇多法皇はここに霊石不動の安置された井戸のあることえお知り、人に命じて取りださせようとしたところ、霊力のためか井戸の石をみるもの悉く眼を病み恐れをなして終に果せなかったといいます。
そこで法皇は勅して井戸を封じ以後何人もうかがうことを許さず、大いなる堂宇をいとなみ、これに霊石不動明王の号を賜って、日夜御念持仏としていたく尊崇されたのです。
下って室町時代、応仁の兵火に亭子院はじめこの堂宇も焼失したが、井底に安置されたままの霊石不動は多くの信仰をあつめ、篤志家たちの手になって再び堂宇の造建をみました。
その後、江戸時代に入って明和元年(1764)11月本堂の改築修理に及び、今に至っています。
建立当所、本寺は宇多法皇が任和寺と縁浅からぬ関係上、同寺の直属道場をして天明2年(1782)までその下にありましたが、以来西山浄土宗に属して現在に至っております。

本寺の本尊である弘法大師の一刀三礼と伝える霊石不動明王は現在も井底に封じられたままにあるため、古今誰ひとりとして直々に拝したことがなく、ために御前立として同じく不動尊立像を安置してこれを拝することになっております。
世俗に高野山波切不動尊と成田不動尊と並んで、空海作の三体不動尊と称されるものです。
尚、不動尊の右に弘法大師像、左に修験道とゆかりの歴史を物語る役行者像が安置されています。

毎月28日には護摩を焚き、厄除け・家内安全・交通安全・病気平癒等の祈祷の行事を行っております。

西山浄土宗
不動堂明王院

 

ちょうちんに「新選組 まぼろしの屯所」と書かれていました。

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堀川通の西側に聳えるリーガロイヤルホテル京都。

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ここにも、入り口の所に碑がありました。

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【この付近 新選組 不動堂村屯所跡】

新選組が屯所を西本願寺から不動堂村へ移転したのは、近藤勇らが幕府直参になった5日後の慶應3年(1867)6月15日であった。
移転に際し、土方歳三の支持で吉村貫一郎が西本願寺と交渉の末、建築費並びに諸経費を西本願寺が負担することになった。
屯所の広さは1万平方メートル。
表門、高塀、玄関、長屋、使者の間、近藤、土方ら幹部の間、平隊士の部屋、客間、馬屋、物見中見と小者の部屋、大風呂は30人が一度に入れた。
大名屋敷と比べても遜色ない構えだった。
12月14日、伏見奉行所へ引き払うまで6ヶ月間、屯所として使用した。

 

新選組近藤勇の歌。
「事あらば われも都の村人と なりてやすめん皇御心」

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今はまったく痕跡が無く石碑で偲ぶしかありませんが、ハトヤ瑞鳳閣のところから、オムロン本社と不動堂明王院を挟んで、リーガロイヤルホテルの所までが敷地だとしたら、さぞかし広大な屋敷だったことでしょう。

 

(おまけ)

 

リーガロイヤルホテルの北にある市立梅小路小学校の西側を上る。
碑が2つ建っていました。

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右側は、文房四神之碑。

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説明板。
もとは道祖神社にあったそうです。

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左側は、芹根水の碑。

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【芹根水の碑】
江戸時代後期 花崗岩(白川石)

芹根水は、むかし洛中七名水の一つに数えられた。
安永9年(1780)の「都名所図会」によれば、
「芹根水は堀川通木津屋橋の南にあり。近年書家烏石葛辰(ういしかつしん)、清水に井筒を入れて傍らには芹根水の銘みづから(中略)書して石面に彫刻す云々」
と記し、石の井筒から清水が湧きだして堀川に流れこむさまを図示している。
江戸時代の著名な書家、烏石葛辰(1700~1779)は、葛烏石、烏石仙人と称し、洛中名水の保存と顕彰に努めた。
この碑もその代表的な一つであり、惜しくも年銘はないが、今から230年前宝暦年間の制作と考えられる。
以来この名水は文人墨客、茶道家、商家一般に永く愛用されたが、時移り大正3年(1914)堀川改修に際して濁水混入し、井筒も失われ、独り碑のみが護岸中にのこされていた。
いま堀川暗渠工事に先立ち、碑を河中より引揚げその保存を図るも、飲水を大切にした古人の心を現代に伝えたい願いにほかならない。

 

この道路も堀川通。
この下を、暗渠となった堀川が流れている。
JRの線路の南側に、以前ご紹介した戒光寺公園があります。

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さらに北へ進みます。

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堀川木津屋橋の北東隅の手水鉢があります。

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説明板はかすんで良く読めないが、「梅ヶ枝の手水鉢の由来」が書かれているようだ。
梅ヶ枝とは梶原景季の妻千鳥のことで、夫のために遊女となった妻は、金の工面のためこの手水鉢に向かって祈ったという。

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木津屋橋通の南側には、新選組局長近藤勇の妾(お孝)の家があったと云う。

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